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学校とはなんなのか

昨今のウィルス騒動の影響で、母校である武蔵野美術大学も例に漏れずオンライン授業の試みをすすめている。新しい授業形態を模索していく上で人手が足りず、僕も授業の手伝いをさせてもらうことになった。これを機に、学生の頃から長くぬるく温めてきた学校・授業・先生などそのあたりについての考えを記しておこうと思う。

教育という行為は原理的に矛盾している

大学の卒業式で壇上の教授が喋っていた内容は何一つ覚えていないが、自分が壇上に立ったら何を喋るかを考えていたことは覚えている。4年間の大学生活を終えた実感としてその時は、「教育という行為は原理的に矛盾している」というようなことを感じていた。教育の表面的な行為としては、先生が何らかの技術や答えを生徒に教えることを手段とする。と同時に、本当に教育で実現するべきなのは方法や答えを自力で導く能力を獲得することである。守破離にも通づる、またデキの悪い上司がよく言いそうな言い回しをすれば、「自分で考えないと出来るようにはならない」のである。生徒が答えを導く過程を獲得するためには、答えはもちろんその方法をも教えることはできないのだ。そこで当時の僕は「究極の教育とは教育しないことである」とかいう格言めいたセリフを思いついて満足していた。が、実際に教育を受けていない人よりも受けている人のほうが能力が高い以上、教育には一定の価値があることは自明であり、この度微力ではあるが教育を手伝う立場になった以上「教育しない」とはどのようなことなのかもう少し考えざるを得ない。

教育は呪いになりうる

学びとはある意味で相手の人格を自分の中に宿すことに近い。人は関係を持った他人の分身を自分の中に住まわせて同化させながら変容していく。その他人を選ぶことによって教わるという行為と呼ばれるようになる。ここで注意しなければいけないのは、一度同化してしまったものを切り離すことは非常に困難である点だ。もちろん学びは多くの場合(少なくとも短期的には)プラスになる。しかし(特に教える側が天才肌なときに多いのだが)これが呪いのようになって苦しめるというケースを何度か目にしてきた。元の持ち主しか持ち得ない特性を再現しようとして自身の創造性を残ってしまったり、こうあるべきだがこうなれないという強迫観念に苦しんだりしてしまうのである。これを克服するためには少なくとも自分の中にある他人の分身の器より自分の器を大きくして食わなければならない。が、分身に食われてしまったところでうまくやれば様式の後継者としての道を歩むことはできるし、場合によってそのほうが苦難は少ないかもしれないので、むしろ多くの場合は食われることこそが教育の目的なのかもしれない。

主体性は教えれられない

大学の授業を一度やっただけの感想だが、対面の授業としての可能性の上限はここにあるように思えた。主体性には授業のやる気も含まれるが、より大きいのは人間性のようなものである。当人が生まれてからこれまで何を見て何を得て来たか、それによって今何に興味を抱き、何を作るのか。これを決める要素は当人の人生のなかに無数に存在し、教師はそのうちの1つでしかない以上、高い再現性を持ってコントロールすることは非常に難しいように見える。むしろ導く力の大きさとしては当人を取り巻く環境を整えてその中でよりよい体験を得る可能性を高めることのほうがよっぽど大きそうだなという仮説を抱いた。環境の整備に関しては今までは大学のキャンバスを考えることができたが、オンライン授業という形でそれをいかに担保するのかは大きな課題として横たわっている。


特にまとまりがない構成でつらつらと書いたが、考えたことのログのような形で残しておく。

おわり!

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