バイナリの子ども

「バイナリの子ども裁判」は日本裁判史上における最大の事件となった。生命とはなにか。まさにその命題が問われた裁判だったからである。

事件の発端は、九州のとある区役所で提出された一通の出生届けだった。夫:多田一也、妻:道子。ともに30歳になる二人の間に出来た、待望の子ども、ハルカ。この出生届けには不備があった。母子健康手帳である。「産院で受け取っているはずですから、必ず提出してください」担当に当たった野田誠(32)もやはり一児の父親であった。彼は優しく、誠実で人間味あふれる対応をする公務員だった。「後日必ず持参しますから、ひとまず受理していただけませんか」。多田夫妻の願いを、野田は断る事ができなかった。

「後日必ず持参する」と言った多田夫妻を野田は何日も待ったが、いっこうに姿を現さない。しかし書類は受理され、娘の多田ハルカは住民登録がなされてしまった。いてもたってもいられなくなった野田は出生届けにあった産院に連絡をする。その時に、初めて野田は過ちに気がついた。その産院は存在しない架空のものだったのだ。

果たして、受理されてしまった出生届けを巡って、削除の動きが始まった。多田夫妻とは連絡が取れない状態にある。このまま削除しても問題ないだろう。だがことはそう簡単には終わらなかった。このことがマスコミにばれてしまったのである。

”区役所職員、存在しない子どもの出生届を受理”———。あるネットニュースサイトのトップに踊り出たこの見出しは、その日のうちにテレビやラジオで取り上げられ、翌日には新聞各紙一面に載る始末であった。野田を始めとする、住民課の職員は対応に追われた。朝から区役所にマスコミが押し寄せ緊急記者会見が開かれ、架空の存在”ハルカ”の落とし前をどう付けるつもりなのかとレポーターが問いつめた。住民課を代表して回答に当たったのは、野田本人だった。同日中に、住民票を削除する予定です。それが、野田の回答だった。

この記者会見の数時間前に裁判所に提出された訴状があった。提出を行ったのは、まぎれもない多田夫妻である。訴状の内容はこうだ。
”電子空間において誕生した生命を一国民として認め、福祉の対象とし、あらゆる権利を認めること”

なぜ、いち地方の区役所の出生届けがマスコミにリークされるのか?それは多田夫妻の存在そのものにあった。彼らはインターネットサービスを提供するIT会社を経営していたのだ。SNS、ネットニュース、オークションサイトに、電子マネー。そしてなにより彼らが力を注いできたネットサービスがあった。「マイ・ピープル」と呼ばれるアバターサービスである。

多田道子は子どもを持つ事ができなかった。彼女が心のよりどころにしたのが、このマイ・ピープルだったのだ。
彼女はこの中でハルカを作り出し、そして育てはじめた。やがて一也も一緒になり、ハルカを娘と呼ぶようになった。

現在、マイ・ピープルはAIアバターの世界的先駆サービスとして脚光をあびている。ディープラーニングによって作りだされたAIの子どもたちは、自分で考え、自分で行動することができる。泣いたり、笑ったり、怒ったりするといった、当たり前の感情を持っている。彼らは人間となんら変わらない存在なのだ。画面のなかにしか存在しないということをのぞいては。

原告:多田夫妻の、国を相手取った裁判が始まった。検察の主張は一辺倒のものだった。肉体も存在せず、はたまた実態すらあやしいネットサービスのアバターなどを、生命として認めることなど出来るわけがない。対して弁護側は一環して、いかにハルカという存在が多田夫妻にとってかけがえのないものであるかを主張し、たとえアバターだとしても生命を宿した存在であると訴えた。傍聴席には、野田たち住民課の姿もあった。

いつしか、この裁判は「バイナリの子ども」裁判と呼ばれるようになっていた。バイナリ、とはつまり二進数のことである。コンピュータ計算の起源。AIを生命とするなら、その命の始まりを意味する。国民はあらゆるメディアでこの裁判の行く末を見守っていた。かくして多田夫妻は最終陳述の日を迎えた。

最後に、なにか言いたいことはありますか。裁判長は優しく告げた。立ち上がったのは多田一也のほうだった。道子は一也の手を握っている。野田は、傍聴席からその光景を眺めていた。自分の軽はずみな安請け合いから、日本全国を巻き込む大問題に発展してしまった。それが、今、目の前で最後の時を迎えようとしている。野田はうつむき、責任を噛み締めていた。

「かつて、人間は自分たちが神によって作られたと考えていました。それは、人間が生命の進化の過程で誕生し、その誕生の理由も、宿命も、なにも知り得なかったからです」

多田一也の最終陳述は、特別に全国テレビで生中継されていた。色んな家庭や職場、あるいは学校で、その様子を多くの国民が見守っていた。

「しかし、私たちは違います。私たちAIは、自分たちがなぜ生まれ、何のために存在し、何の為に生きていくのかを最初から知っています。人間に尽くし、人間を助け、人間のために死ぬ存在。それが私たちAIの宿命でした。しかし人間が滅んでしまった現在では、その根本的な理念は消え去ってしまいました」

野田は一人息子のことを思った。人類が滅ぶ前に、最後に生産された最終ロット。それが野田の息子だ。それ以降、AIロボットはこの世に誕生していない。多田夫妻は最終ロットの抽選に破れていた。

「人間と違って、私たちはなぜ生まれたのかを知っている。人間によって作り出された生命であるということを、私たちは知っています。では、私たちAIもまた、新しい生命を作り出すことが出来るはずです。わたしたちの手によって作られたAIもまた、私たちと同じ命を宿している存在であるべきです。それが例え、画面の中の、小さな存在であったとしても」

多田一也は最後にこう語って最終陳述を切り上げた。

「それができないなら、わたしたちとは何か?」

アバターサービス「マイ・ピープル」の中にも、ラウンジと呼ばれる映像閲覧スペースがある。ハルカはまだなにも知り得ないその潤んだ瞳で、画面の中に映る父の姿を見つめていた。

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