「無の神学が啓示論に示唆するもの』

2021年度春季 立教大学院現代神学思想演習▼◇ゼミ発表
担当箇所:小田垣雅也『憧憬の神学』第一章・絶対無と神
     「無の思想が啓示論に示唆するもの」
2021.5.14(金)
発表者:濱 和弘

本日、小田垣雅也氏の『憧憬の神学』の発表させていただきます濱和弘です。そして今日の発表の内容は、私の担当箇所の『憧憬の神学』第一章の内容を踏まえながら、それを関連付け、今、私がいろいろと考えております「キリスト教の啓示論」と言うことに引き込んでの発表とさせて抱きたいと思います。
 しかしそれにいたしましても、全くテキストの『憧憬の神学』を無視してということになってもこまりますので、最初に『憧憬の神学』第一章の全体の概要について述べさせていただきたいと思います。

1. 全体の概要

小田垣雅也氏の『憧憬の神学』第一章は絶対無と神という見出しで、全体が6つの説に分かれており、それぞれの内容は、おおよそ次のようなものだと思われます。

          1 否定神論と無神論
神の存在の有無を問う議論は否定神論で有の神学。神を対象化せず神について語る神論が真の無神論であって、それが有の神学をも無化するところに有と無の二重性をもつ無(絶対無)の神学がある。
          2 現代神学の古典時代
啓蒙主義に立つ自由主義神学を否定したバルトを中心にした新正統主義も、神と人との断絶を強調し、神を絶対他者とした点で、有の神学であり、インマヌエル・キリスト論も有の神学であって基本的には古典的な神学と根は同じ。
          3 神学と言葉
言葉は存在の叫びであり、存在は存在者を通し、存在の言葉は存在者の言葉を通して語る。その際、存在と存在者の間には、原初言葉があり、存在者の言葉は、その原初言葉の応答。
          4.西洋無と絶対無
絶対無を通し、個人を「真の自己」「無相の自己」「無位の人」としての人間形成を目指すのが絶対無を中心とした東洋思想であるが、そこには倫理的側面を欠いた個人主義的傾向がある。一方、ハイデッカーやキリスト教神秘主義などにも神と人との二項対立の超越を目指し、神と合一を目指す無の思想は見られるが、そこには 形而上学的概念化の残滓があり、両者には、個の思想と普遍的概念の対立構造がある。それゆえにキリスト教と絶対無の対話には、この二項の対立構造を超えた二重性が必要。
          5.真如の月
キリスト教神秘主義は、神との合一によって人間形成を目指し、東洋思想は、自己を無化することで真の自己を発見することを目指す。結局、二つの目指すところは「真如の月」である。
          6.美的宗教
個の無化による真の自己の発見という絶対無に立つ東洋思想に欠落している社会性、倫理性を確立するためには、絶対無が無化され、個と普遍の対立構造を超越する二重性が必要。そのためには、倫理性を美的感覚で捉える美的宗教であることが大切

といった感じになろうかと思います。

2. 今回の発表のスタンスの基となる原体験

 そこで、本題の発表ですが、私は、この発表を「無の思想が啓示論に示唆するもの」というタイトルにしたいと思っています。私は、この立教大学院に在学中は、エラスムスの人間論という歴史神学の分野で研究をさせていただきましたが、今は、それと並行して、組織神学の分野でもいろいろと考えています。
 そのような中で、昨年、教文館のほうから『人生のすべての物語を新しく シェルターの神学から傘の神学へ』という本を出版させていただきました。この本が取り扱った内容は主に救済論とキリスト論なのですが、その本を書き始めたきっかけは、東日本大震災の被災地に行ったことがきっかけでした。
そこで、私は二つの揺らぎを感じました。一つが、「今までの救済論は、ここでは通用しない」ということ、もう一つは「神の存在への疑念」でした。その内容をまとめたものが、先ほど申し上げた書にありますので、少し長くなりますが、それを読みます

  筆者は、東日本大震災の二週間後にトラックに救援物資を積んでいわき市の津波の被害現場に立っていた。また、一ヶ月後にも石巻の被災現場も訪れ、その津波の被害の大きさに声を失った。そして、その被災地の中で、おそらく津波に流され崩れ去り瓦礫となった自分の家であろう、その瓦礫の山の前でうずくまるようにしてしゃがみこんでいる一人の初老の男性の後ろ姿を見た。そのとき、その後ろ姿を見ながら牧師として、また一人のキリスト者としてかける言葉を見つけられない現実に戸惑いと無力感を感じていた。
 目の前にあるこの悲惨な現実、そしてそこに苦悩し、悲しみ、途方に暮れて佇んでいる人がいる。その人に、「私たち人間は「罪びと」です。神は、その「罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」という言葉に、どれだけの力とリアリティがあるのか。何よりも、筆者自身が、あの打ち上げられた船や瓦礫の山、津波に流されて何もなくなった家の敷地、そういった現実を見せつけられて、心の中に「神も仏もあるものか」という言葉が沸き上がって来る。このような事態をどう考えたらよいのか。この問いは、筆者にとって抜き差しならないものとして答えを求めてくるのである。 
   神は本当にいないのか。「神がいる」としたならばこの不条理な苦しみや悲しみはどこから来るのか。また、これまで筆者が語り伝えてきた「罪の赦し」の福音が、この不条理な苦しみと悲しみの中にある人に語る言葉として力とリアリティがないとするならば、「罪の赦し」を語る福音の言葉はいったい何なのか。牧師であるならば、また牧師であるからこそ、それは考えることを避けてはならない問題として迫ってくるのである。
 「神も仏もあるものか」という思いが心の中に湧き上がってくる。しかし、おもしろいことに、その思いが沸き上がってくるほどに、筆者の頭の中には「それでも神はいる」という言葉が鳴り響いてくる。この葛藤の中で、筆者がたどり着いた答えは、やはり「この世界には神がいない」ということである。ただし「この世界」に神がいないのであって、存在論的に神が存在しないということではない。神はいる。ただ「この世界」にはいないだけなのである。この「神がいない」という言葉が不信仰な響きをもって聞こえるとするならば、「神が隠されている」と理解してもらってもよい。

 このとき、私が思い浮かべた今までの救済論とは、はアウグスティヌス以降面々と受け継がれてきた西方教会の伝統の中にある救済論です。それは、とりわけ宗教改革以後、より一層強められ、18世紀にイギリスそしてアメリカに起こった大覚醒運動の流れを受け継ぐ福音派が強調する「罪の赦しの福音」として捉えられる救済論だといえます。
 このような福音理解は、18世紀ではジョナサン・エドワード、20世紀ではビリー・グラハムといった著名な大衆伝道者を生み出しましたが、その内容は平たく言うと

神は罪びとを裁かれる。その裁きは罪びとを地獄に送り、地獄の火で焼かれ、永遠に苦しむ。そして、人間は罪びとである。神は、その罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださった。それほどまでに神はあなたを愛している

といった、ある種、相手を脅して導くといった内容のものでした。
 
しかし、そのような救いのメッセージでは被災地の中にいる人には、何も届かない、いや無意味だというのが、私が直観したことでした。そのような中でエラスムスの人間観や、東方教会の伝統のなかにある「神化」という救済論に触れる中で、色々考えつつ行きついたのが『人生のすべての物語を新しく』で書きあらわした救済論で、概ね次のような内容です。

神は人を神の像にかたどり、神に似せた神の似像を造られるという神のご意志を示されている。その神のご意志に従って、神にかたどって人が創造されたとある。この神の像と神の似像が人をして人間たらしめるのだが、このような神の似像の形成は、即座に完成されるものではない。それは形成されるものであり、人間本性の完成、すなわち神の創造の業の完成に向かい、養い育てられながら成長していくものである。イエス・キリストによる「罪のゆるし」の契約は、我々を神の国に生きる者とし、神の国の神の支配の下で、人を神の創造の業に従って人間本性の完成に我々を招いている。

このような福音理解のもとで救済論の見直しを行ったのが私の著書『人生のすべての物語を新しく』であり、人間形成の為の創造論的救済論です。
 しかし、『人生のすべての物語を新しく』には、積み残しがありました。それは、「神の存在への疑念」です。私は被災地で「神も仏もあるものか」と本当にそう思った。しかし、「それでも神はいる」という言葉が頭の中に響き渡るのです。
 この世界に神がいない。それは被災地のあの悲惨な現実を直視すれば、容易に観察し得るもので、現実の世界から得られる認識です。しかし、それでもなお「神はいる」という言葉が私の全身を貫いていく。だとしたら、それは啓示の言葉ではないか。そう考えますと、「この世界に神はいない。しかし存在論的に神はいる」という、小田垣氏がこの『憧憬の神学』で問うた二重性の問題であり、それは啓示論の問題だというのが今回の私の発表の私のスタンスです。

3. キリスト教の啓示論における神認識の問題

 啓示論は、神をどのようにして知るかという神認識の問題です。ですから認識論の問題でもあります。
キリスト教には二つの神認識の方法があります。一つは主に西方教会の伝統の主流的立場で肯定神学とでも呼ぶべき、「神は○○である」といった「である」という肯定的表現で神を捉え叙述していこうというもので、もう一つは「神は○○ではない」といった否定表現で神を捉え叙述する否定神学です。これは、東方教会の伝統や小田垣氏が『憧憬の神学』で取り上げている偽ディオニシオスやクザーヌスといった西方神秘主義や東方教会の伝統にある神認識の方法です。小田垣氏が『憧憬の神学』第一章一節で述べていることは、これら肯定神学も否定神学も、神を認識の対象としている有の神学だということです。そもそも神の存在が前提になっている。神は人間には捉えられないものだという否定神学も、神を無化できないのです。
 小田垣氏が『憧憬の神学』の冒頭でいっているのは、神の存在の有無を問うことは有の神学の在り方であり、その二項対立を超えた無の神学は「いる・いない」「である・でない」といった二項対立を超えた「いる/いない」「ある/でない」の二重性を持つ神学だと言えます。

 それを啓示論に還元しますと、「神も仏もあるものか」と「神はいる」が孕む二重性、それは、神の有無を問う認識論的問題では論理矛盾を孕む私の被災地での経験を、矛盾ではなく成り立たせる論理を啓示論の中で見出すと言うことです。
 それについての示唆をあたえてくれるものが、アブラハム・ヨシュア・ヘッシェル(ヘッセルとも言う)の言い表せないものという表現です。これは啓示論においては、主語を無化する表現だといえます。
 そこで、啓示論の問題に入って行きますと、そもそも啓示とは何かということについて、述べる必要があります。それについて、私は現在書いている啓示論に関する本、仮題ですが、『神かく語りき 傘の神学的啓示論』で次のように啓示を定義していました。

啓示とは、ギリシャ語でΑποκάλυψις(アポカリュフィス)と言う。この言葉は、覆いを取り除き、それまで覆いの下に隠されていたものを明らかにするという意味を持つ。つまり、我々が、目に見たり触ったりするといった観察することができないために知ることのできなかった神が、自らご自分が存在することを示し、神はどの様な存在であり、どの様なことを考え、何をなさるお方なのかを、我々に語り示すのである。この神自らが自らの存在を示し、また自らを語るという一連の自分語りの行為を、我々は啓示と呼ぶのである。

 しかし、この文章を書いた後も、漠然と考えていたことがあり、それについて、いろいろと思案していたのですが、この小田垣氏の『憧憬の神学』一章の発表準備を通して、漠然と考えていたものが、確心に近いものになりましたので、一部書き換えました。どのように書き換えたかというと、最初の文章では、啓示が「神がどの様な存在であるか」ということを示しているということを述べていますが、書き換えた文章では、それを否定し、逆に啓示は、神についての命題化された知識は語っていない。神は謎であり、啓示は人間が神の前にいかに生きるかについて書いてあるものだとした点です。これは、私の書いた『人生のすべての物語を新しく』にある傘の神学の救済論に通じるものであり、今、手直している啓示論の背骨になるものだと言えます。
 というのも、私自身が、以前より、啓示論は、一般啓示と言うことに重きを置くべきではないかという思いがあったからであり、また、「神はこの世界にいない、しかしそれでも神はいる」ということは、神は全く謎だということでもあるからです。それゆえに「謎の存在、神」について、私たちは命題的に語れるのか、語っていいのか。先ほど漠然と考えていたと言うことは、そのことだったからです。

 そこで、一般啓示と言うことですが、 キリスト教の組織神学における啓示論では、啓示を一般啓示と特殊啓示に分けて考えることが多いのですが、一般啓示とは、自然世界を通して神が私たちに自分を開示し、我々はそれを通して神という存在を直観し看取するというものです
 その一般啓示に関して、実に興味深い二つの和歌があります。一つは「なにごとが、おわしますをば、知らねども、かたじけなさに涙あふるる」です。この歌は西行法師が伊勢神宮に詣でた際に、歌われた歌で、「伊勢神宮の社に祭られている神が、どのような方かは分からないが、その畏れ多さにありがたさを覚え、涙があふれ出てくる」と解されています。
 もっとも、この歌が西行の作であるかについては議論のあるところで、仮に西行の作でなければ、先の理解は成り立ちません。しかしそれでもなお、この歌は、この世界の自然やあるいは社といった建造物を通して、何か畏れ多いものを感じていると言うことは間違いがありません。
それに対してもう一つの歌は、「天照、月の光は神垣や、引く注連縄の内と外なし」というもので、「天照大神が月の光という自然の中に現わされ、伊勢神宮の聖域内にのみに在って表されるのではなく、聖域の外にも現れるという思いが歌われている。西行は僧であり、それゆえに伊勢神宮の聖域と俗世を隔てる境界の内に入ることはできず、一の鳥居の前で参拝したとされる。そのような聖域の外にあっても、天照大神が月の光を通して表れ出、その月の光に照らされる中で、畏れ多さとありがたさを感じる。」という意味に解されています。
この歌は、いずれもこの世界にあるものを通して神という超越的な存在を看過していますので、一般啓示の歌だと言えます。しかし、前者は、「なにごとが、おわしますをば、知らねども」といって主語が無化されていますが、後者は「天照」といった具体的な主語が提示され、主語が対象化されています。そしてこの差は認識論の問題だと思います。

この認識論の問題は小田垣氏が、『憧憬の神学』第一章三節の「神学と言葉」で取り上げたハイデッガーの存在と存在者の関係が明らかにしてくれています。
ハイデッガーの存在と存在者の関係は、小田垣氏にならって「茶碗がある」という現象を用いて説明するならば、概ねこのようなものです。すなわち、「ある」という存在は、茶碗というこの世界にある事象、ハイデッガーはそれを存在者というのですが、茶碗という存在者を通して「ある」という存在が現れ出るのだというのです。このとき、小田垣は、存在と現存在の間にある緊張関係の中で原初言葉と呼ばれるものが起こる。つまり、存在者である茶碗と「ある」という存在の間で、これを見ている者が「これは茶碗だ」と受け止めさせる言葉が発せられている。その発せられているものを受け取り、その応答として、「これは茶碗だ」という発語が起こるという現象学的事態が起こるというのです。
 もちろん、応答するためには、「茶碗」と言う言葉と、「茶碗」という物に対する意識がなければなりません。その意識と、「ある」という存在が茶碗という存在者を通して語る言葉の関係を、先ほど出て来たヘッシェルという人は、もう少しわかりやすく説明してくれています。ヘッシェルは次のように言うのです。

思惟作用はけっしてその対象と同時的にはならない。それ以前に生起した過去を思惟作用はたどるからである。われわれが思惟作用において取り扱っているのは、もはや生きてはいない対象である。-中略―(濱註、われわれは)既知のことに照らして現在のことを見ているからである

 このヘッシルの言葉の意味するところは、こうです。人の認識と言うのは人が目の前にある事物(現存在)を目で知覚します。すると、即座に過去に経験し記憶されている事柄と比較し始めます。そして、その記憶の中ある出来事で、現前の喪に匹敵する事柄を見出しその、過去の経験と現前の経験(現存在)とを結びつけ、同一化して「これは○○だ」と認識する。つまり、存在は過去の記憶にある記憶と結びつくような原初言葉を発しているというわけです。
 しかし、このような認識のプロセスでは表現できない経験があるとヘッシェルは言うのです。それが、ヘッシェルが「言い表せないものの感覚」と呼ぶものです。

 「言い表せないものの感覚」は、現前の世界にいないものを現前の世界を通して、その存在を感じとる直観のことです。それは現前の世界をとおしてであるのですが、現前の現存在である存在者それ自体に直接結びつかない言葉です。先ほどの和歌でいうならば、なにごとが、おわしますをば、知らねども、かたじけなさに涙あふるる」の感覚です。これは、主語なき述語の「いる」の経験であり、本来主語にくるべきもは「名もなき超越者」です。名もなきものですのでヘッシェルは「言い表せないもの」と呼んだ。
 その認識の構造を図化するとこのようになります。現前の世界内の事象(自然・人・歴史)を通して、その現前の先にあるものを直観する。そして過去の記憶の中にあるものと比べて認識しようとします。しかし、その直感したものと結びつく経験がない。そのとき、その現前の先にあるものは、未知のものに遭遇した『驚き』の感情となる。それが「なにごとが、おわしまする」という発語になる。

 しかし、この一般啓示で直観された「言い表せないもの」が対象化されることがある。それが、「天照、月の光は神垣や、引く注連縄の内と外なし」と言うことです。そこでは、言い表せないもの「天照」という固有名詞での名前が付けられている。つまり「言い表せないもの」に名付けの行為がなされるか名付けの行為の記憶が「言い表せないもの」を対象化するのです。それは、私が経験した「神はいる」という言葉にも結び付く。そのことを図示すると次のようになります。もっとも、「神がいる」という言葉は固有名詞ではなく普通名詞です。ですから「神はいる」という言葉は、私たちが神だと思っている神がいるということであり。神という主語を「仏」に置き換えても、「アッラー」に置き換えても、「天照」にも置き換えられる。
 そうしてみますと、「神がいる」と言う経験は、現前の事象を通して、その現前の先にある「言い表せないものを直観し、過去の事象と比較するというところまでは、先ほどと同じです。しかし、今回は、そこの言い表せないものをたとえば、「あれは天照らす神だ」と言われた記憶がある。だから、「言い表せないもの」は天照と同一化され、直観し感じた存在が天照だと対象化され、「天照、月の光は神垣や、引く注連縄の内と外なし」という発語になるのです。 
 このような、名づけをなされるということはどういうことか。キリスト教の啓示論において神という名をどう考えればよいか。

4. 神と名付けられた名もなき超越者

 キリスト教では、信仰の対象を神と呼びます。そこには神となくけられた超越者の存在があります。
しかし、神という名(אֱלֹהִים、θεὸς)は、一般名詞です。つまり「天照」という固有の名詞ではない。聖書では、キリスト者が神と呼ぶ存在は自分自身で、私の名前は「わたしはある」(אֶ הְ יֶה)。と名乗っています。このאֶ הְ יֶה という名は、実際の文脈では אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר となっており、「私はあるというあるである」となっており、この文脈からは אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר キリスト教で言う神は、存在の根底であり、全てのものは、この文このאֶ הְ יֶה によって存在していると解することもできますし、また「わたしは、なろうと思うものになることができる」とも解することができます。その אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר を、私たちキリスト者は神と呼ぶ。
 先ほども申しましたが、神(אֱלֹהִים、θεὸς)という言葉は一般名詞です。ですからそれは、キリスト者以外の人のそれぞれの信仰の対象ともなる名でもあります。その神の名をもって אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר を神(אֱלֹהִים、θεὸς)呼ぶと言うことは、 אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר を、人間の限界がある言葉で限定される概念の内に納め対象化すると言うことです。そしてその対象化が、この世界内に具体的に存在する事象(現存在)に結びつけられて概念化するならば、それは偶像礼拝になりますし、具体的存在に結び付けられない場合は、神は形而上学的概念となります。つまり、私たちがこの אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר を神と呼ぶ時、そのときには、私たちが持つ神概念の意識が、この אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר に投影されていると言えます。
ところが、この אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר が自分自身を神(אֱלֹהִים、θεὸς)と呼ぶことがあります。しかし、その場合は、アブラハムの神、イザクの神、ヤコブの神、そして父祖の神という属格表現で表される神であり、そうでない場合でも、語りかける相手との関係が前提となって語られています。それは、神は、それそれの時代を生きる個々の人々の神であり、同時に父祖の神といった表現で表れるときは、神の民という共同体の神として自らを表す。つまり、神は個と共同体の神という二重性を持っていると言えます。

このように、私たちが神と呼ぶ神と、 אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר が、自らを神と呼ぶときの両者の関係は互いに呼応し合い、人間形成的な啓示の概念を生み出します。そのことをもっともよく表しているのが前出のヘッシェルです。ヘッシェルは、『人は独りではない』という書で、神について二つのことを述べます。
一つは「神について考えるということは、神を我々のこころの中で対象として見出すのではなく、神の中にある我々自身の存在を発見することである」ということばであり、私が神に関わろうとするときに何が起こるかということです。それは、私が神をどう捉え、どのように見ているかが明らかになると言うことです。そして、別の箇所では「旧約聖書は、原則的に人間の神観がしるされているのではなく、神の人間観が記されているものである。旧約聖書は人の神学のための書ではなく、神の人間学を知るための書である。旧約聖書は神の本性を取り扱うよりむしろ、神が人に何を求めているかを取り扱っているのである」とも言います。これは、神が私たちをどう捉え、どう見ておられるのかということであり、この神の語りを通して、私たちのあるべき真の自己が開示されると言うことです。
この二つの神表現を通して、「私たちはいかに生きるべきか」と言うことが明らかになります。
ここに啓示の目的が、私たちが真の自己、小田垣氏の『憧憬の神学』で言われている内容を踏まえて申し上げるならば『無相の自己』へ至らせるためにあるといえるでしょう。

5. 人を導く神

そこで、神が、「人は、(神の前に)いかに生きるべきか」を示すものが、特別啓示と呼ばれるものです。
特別啓示というものについて、通常、啓示論ではイエス・キリストと聖書の二つを挙げます。そして人が、神の前にいかに生きていくかという問題もまた、イエス・キリストと聖書の二つが大きく関わってきます。もっと厳密に言うと、この二つは、イエス・キリストに関せられたインマヌエルという名に関わってきます。
 インマヌエルという名は、イエス・キリストの母マリヤが受胎告知の際にみ使いから告げられたなであり、神が名付けた呼び名です。そしてその意味は、「神われらと共にいます」というものです。小田垣雅也は、『憧憬の神学』において、このインマヌエルという名前について、カール・バルトのキリスト中心的解釈を取り上げます。しかし、このインマヌエル・キリスト論にはもう一つ滝沢克己の人間論的解釈があります。この二つを比較してみると面白い事実が出てきます。

 このインマヌエルという言葉の意味である「神われらと共にいます」ということは、単に目には見えないけれど、神様が私たちのそばにいると言うことではありません。それは神と人との合一である。
それをバルトはキリスト中心主義的にとらえ、イエス・キリストの内に神と人との合一を見て取り、超越者なる神の一人子が、歴史上に人となって現れ、世界内に内在されたと捉えます。それに対して、滝沢は、確かにイエス・キリストにおいて、神と人との合一を見ますが、それだけでなく、このインマヌエルということが神の像としてつくられた人間の原事実として、人間の存在を根源で支える事柄であると見られています。その事柄が、歴史的存在であるイエス・キリストにおいて事実(出来事)として現れ出たものであると受け止め、イエス・キリストを捉えているのです。ですから、神との合一であるイエス・キリストは、その原事実を持ち生きる私たちにとっては目標であり、倣うべき模範であると言うことです。
このようなインマヌエル・キリスト論の違いは救済論に違いを生み出します。それを表にしたものが次の表です、

6. インマヌエルのキリスト中心主義的解釈による救済と、人間論的解釈における救済

現代神学に大きな足跡を残したバルトですが、バルトの救済観は、インマヌエルと言うことをどう理解して切るかという院な縫える理解に基づく救済理解だと言えます。、バルトは歴史というものを、人間の歴史(Historie)を超越した無時間的な永遠の時間の中にある歴史ゲシヒテ(Geschichte)と刻々と生成し流れていく時間の中にある私たち人間の歴史であるヒストリエ(Historie)に分けます。この二つは無時間と有時間ですので分離し合い交わらない、いわば断絶状態にあります。そのゲシヒテが、ただ一度だけ人間の歴史に接した点がある。それがインマヌエルなるキリストです。ですからインマヌエルなるキリストは「超越/内在」した二重性の存在だというのです。
そしてこのインマヌエルであるキリストとの出会いを通して、このインマヌエルなるキリストの出来事が人間の生に出来事として起こるとき、そこに救いの出来事が起こるというのです。だから、バルトの神学は危機神学とか実存的神学と言われます。

それに対して滝沢克己のインマヌエル理解にみられるような人間論的解釈における救いでは、イエス・キリストにおけるインマヌエルは、人間の原事実の表出です。それは過去の出来事でありつつ、生成する時間の中での、人間の存在を支える今の事実でもあり、やがての目指すべき姿でもあります。もっとも、滝沢の場合は、あくまでも今を支える原事実ですが、例えばモルトマンなどは、イエス・キリストの復活により、このインマヌエルの原事実がやがてくる神の王国の完成における我々人間の姿となる。つまり、今の人間を支える原事実あると同時に、「今、ここでの」生成される時間の中で、たえずこのインマヌエルの原事実に支えられながら、「今、ここでの生」を生きる人間形成の道を歩むのである、
そこには、肉の欲と霊という二項対立の中にある人間が、その二項対立を超えた神律に生きる人間の姿がある。それは、自己の内にある神の像を神の似像へと形成されていく歩みである。それが、インマヌエルるということへの人間論的解釈での救済論であり、この神の似像は、人間の原事実であるイエス・キリストの姿であり、「無相の自己」でもあるのです。つまり、自我を無化することで、自己を絶えず生成する時間の中で人間の原事実としてのインマヌエルが「無相の自己」として現れ出で、絶えず自己が自己となって形成され、歴史的時間の中で歴史形成的に生きていくことが人間形成論的救済論であり、モルトマンの希望の神学や、私が「人生のすべての物語が新しく」で著わした救済論がこの類の救済論にあたります。

7. キリスト中心主義的インマヌエルと人間中心的インマヌエルにおける啓示理解の差異

バルトのキリスト中心主義的インマヌエル理解と、人間論的インマヌエル理解の中で生じた救済論の違いは、当然ですが、それは啓示理解から生じていると言えます。
バルトにおいては、有限な生成する時間であるヒストリエと無限で無時間的なゲシヒテとは会い交わることのない異質なものです。そして、神と人の間も絶対的断絶の状態に陥っている。それが、ヒストリエのある一点で人となることでインマヌエルとなったイエス・キリストが仲介する。だからこそ、イエス・キリストは啓示者であり仲介者なのですが。イエス・キリストという存在は、償罪という救済の行為ゆえにゲシヒテがヒストリエに参入した時間で切り取られます。そして啓示は、その切り取られたキリストを指し示すものとなり、切り取られたキリストを対象化することで、命題化するのです。そこにキリストによって指し示めされた父をも表す。
それに対して、人間の現事実であるインマヌエルであるキリストは、「無相の自己」として形成されていくものです。だから個人の到達するべき存在としてあります。その人間は、一人一人違った人生を生きます。つまり、無相の自己、あるいはインマヌエルの原事実としてのキリストは複数のキリストとして存在しているのです。それゆえに、啓示は、自己を生成するものとして黙想的に想起されるものです。そして、キリストと神が生成される時間の中で起こる出来事で繰り返し想起されるということは、神もまた静的な存在でなく、神もキリストもまた動的な存在だと言うことです。
このように、啓示は、生成する時間の中での「今、ここで」を、神とのかかわりの中でいかに生きるかに導きを与えるものなのです。
 私たち人間が、この世界の中で絶えず人が向き合っている出来事、あるいは事象は、「今、ここで」の現前の出来事ですが、そして、その現前の出来事を通して、キリスト者はその現前の出来事の中に生きるキリストを看過する生き方を示されます。そこに啓示の働きがある。そしてその看過されたキリストは、その人の記憶の中にあるイエス・キリストの生涯が観照され、黙想された中で浮かび上がってくるイエス・キリストの姿であって、そのイエス・キリストの姿が、自分の姿として自己同一化されるとき、あのイエスと同じように行きたいと願う自分の意識が生まれます。そこに神律的な生き方が意識化され、新しい自己が形成されるのです。
このように、イエス・キリストを通して私たちは自分がいかに生きるかということ、自分はどのような真の自己に行きあたるのかと言うことを知ります。そして、そのイエス・キリストと合一する生の中で生きていく。そのような神律的生に、啓示は私たちを導くのです。

8. キリストとの合一

キリストと合一する。このことは、宗教としてのキリスト教の中心にあることだと思います。というのも、キリスト教の宗教儀礼の中心の礼拝、聖体拝領や領聖ということは秘儀(μυστήριον)です。それはキリストの血と肉に与ることであり、洗礼はキリストの死と復活に結びつくことだからです。そして、そこには宗教としてのキリスト教の生命線である宗教経験がある。
 宗教としてのキリスト教といっても、その宗教という定義をすること自体ができるのか否かといった宗教概念論がありますが、ここではヨワキム・ワッハの宗教の定義をもって、宗教としてのキリスト教という物を考えてみたいと思いますが、ワッハは、宗教というのは、核となる宗教経験があり、それが教えとしてまとめられた教義があり、宗教行為として表出した儀礼があり、その宗教経験を共有する教団が構成されるところに宗教があると言います。
 このワッハの定義をキリスト教に振り分けてみれば、キリスト教の教義は信条、とりわけ、ニカイア、カルケドン信条があり、宗教儀礼は礼拝、そこには聖餐や聖体拝領がありますが、その礼拝や洗礼として存在し、そして教団ということは、教会という形であります。では、キリスト教の核となる宗教経験は何かというと、これらの信条や儀礼を遡ることによって明らかになります。
 たとえば、ニカイヤ・カルケドン信条は、三位一体の神を指し示し、神人両性論に行きつきます。それは、結局のところイマヌエルなるイエス・キリストに対する信仰告白であり、イエス・キリスト体験であると言えます。また、儀礼はそのキリストの新しい契約への参与であり、キリストとの合一です。そしてキリストの洗礼は、キリストと死と復活との合一です。
これらは、個人的な宗教経験ですが、それが教会の業と言葉として統合されている。つまり、キリスト教の信条と宗教儀礼は、その霊性において個人の経験ですが、同時に教会と言う共同体の経験でもあるのです。ここにキリスト教会の二重性がある。それをざっくりとまとめると、次のようになります。
 教会の礼拝における個人的な側面は、私がキリストの十字架の死による新しい契約に与り、私の内にキリストの肉と血が造られる。あるいは、私の罪が赦されるといったことが挙げられます。
 それに対して、共同体的側面は、共に教会として行われる儀礼に繰り返し預かり、同じパンとぶどう酒に与ることで、共に同じ肉と血が造られるといった面が挙げられます。そして、洗礼における個人的側面では、私の罪の洗いの儀式という面があり、また私がキリストと共に死に、キリストと共に復活するという理解があります。同時に、それは教会への入会儀礼であり、神の王国へ参入するための儀礼でもあり、そこには共同体的側面があります。そして、これらの宗教儀礼の多くがキリストとの合一と結びつきます。
 またニカイヤ・カルケドン信条は、要は、キリストが神であるか否か、神であるとしたならキリス
トの人間性と神性の関係はどのようなものかという問いに対する答えであり、その答えとしの三位一体論や神人両性論の正当性の根拠は、それが神の語りによるというところにあります。
 信条というのは、そもそもが異論や異なる見解に対して自らの理解を表明するものであり、ニカイア信条ではアレイオス派の「キリストは神に類似するものだが、神ではない人間だ」という主張やマケドニウス派の聖霊は神ではないという主張に対抗するためのものです。また、カルケドン信条は、アレイオス派の主張も、マケドニウス派の主張も、人間の知性が持つ言葉では、その通りだと承認できる言葉です。
 同様にカルケドン信条が、論敵としたエウテュケス派は、キリストの人としての性質は神としての性質という大海原に落ちた一滴の雫にすぎないと主張しました。その結果、キリストの人性を否定する単性論だとしてカルケドン信条で排斥されています。そのエウテュケス派の主張も、人間の知性では理解し納得できる言葉です。結局、これら二つの信条はキリストの神性と人性の合一が問題にされたのですが、最終的に教会が採択したのは、キリストの神人合一を認める知性が納得できる知性の内側にある言葉で語る教えではなく、知性の言葉の外にある知性が受け入れ難い言葉でした。その知性が受け入れ難い知性外の言葉であるにも関わらず、それが受け入れたれたその根拠は、神がそう語られたのだという啓示の言葉という理由だったのです。

9. 旧約聖書(律法と預言者)が証しするキリスト

その様に、啓示がキリストのことを語っていると言うことは、神の啓示であるとされる聖書においても言われることです。今日、聖書は神の啓示か否かについては議論があるところですが、少なくとも、イエス・キリストの時代、あるいは原初の教会においては、聖書は神の啓示が記されている書だと受け止めれれていました。
 この場合の聖書は旧約聖書ですが、聖書のヨハネによる福音書には、「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ」というヨハネによる福音書5章39節の言葉が記されています。そしてそれが、イエス・キリストの言葉として語られているのです。これらの言葉がイエス・キリストの言葉であるとされているのは、少なくとも原初の教会においては、これらの言葉が権威ある言葉として受け入れられていたからにほかなりません。
イエス・キリストが「聖書」という聖書は旧約聖書です。イエス・キリストの時代は、聖書は旧約聖書しかなかったからです。その聖書をイエス・キリストは律法と預言者とも行っています。そして、その律法と預言者について、イエス・キリストは、マタイによる福音書5章17節で「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というのです。
いうまでもありませんが、イエス・キリストはユダヤ人です。ですから、イエス・キリストの言葉はユダヤ人社会で育まれてきた言葉です。そのユダヤ人にとって、旧約聖書は、トーラー(律法)とネービーム(預言書)とケスビーム(諸書)の三階層で構成されています。そして、この三階層の順序が大切で、決してこれを変えることができません。イエス・キリスト様のユダヤ人は旧約聖書を巻物にして保管しています。その際、トーラーの巻物が一番上に置かれ、その下にネービームが、そしてケスビームが一番下に置かれます。これは絶対であって、それが旧約聖書の三区分の重要性の叙階を示しています。
 その最上位にあるトーラーは、人間はいかに生きるべきかということを示すための戒めがしるされており、その次に置かれるネービームは、その戒めから離れてしまっているユダヤの民に、神の言葉を告げ知らせ、彼らの生き方を正し、あるべき姿に引き戻すために神の言葉を告げ知らせた預言者の働きが記されたものです。そして神の前にいかに生きていくかと言うことに対する知恵をあたえるケスビームがそれに続く。
 このような意識がユダヤ人の中にあるのではないかと思い、「旧約聖書は神の民が神の前にいかにい来るべきかと言うことを示しているとユダヤ人たちはそのように理解しているのではないですか」とユダヤ思想に通じている手島勲矢氏に聞いてみたところ、「トーラーを戒律の意識からとらえると、ユダヤ人は、律法の戒律を基礎として預言書や諸書を読み、預言者や諸書の光のもとで律法の戒律の言葉の真の意味に迫る。これがユダヤの聖書解釈だという趣旨のお返事をいただきました。
 その旧約聖書が、イエス・キリストを証し、証されるイエス・キリストは、神の前に律法と預言者とを完成するものであり、それは神の前にいかに生きるべきかを完成した倣うべき模範であるということです。その律法の完成者は人間の肉と欲を無化し、自己の自我性を無化した「無相の自己」であるとすれば、それはインマヌエルの原事実を持つ人間がたどり着くべき「無相の自己」ではないかという仮説がたてられないか、そしてそこから啓示論の再構築ができないかというのが、この『憧憬の神学』第一節・神と絶対無を、自分の問題意識に引き込みながら読み取った私の結論です。
 その啓示論の再構築の内容は、概ね次のようにまとめられると思われます。
1.聖書は神についての知識は教えていない
  1)聖書は、神の前で如何に生きるかを教える書であり、そのいかに生   きるべきかを倣うべき模範としてのイエス・キリストを証ししている。また律法はイエス・キリストの生涯の中で完成(だから受肉は重要)
  2)聖書はキリストの生涯を想起し・観照し・黙想しつつ読むべきもの
  3)啓示は、真の自己へと私たちを導くところのものである。(救済は真の自己をの目的とする)
   ※聖書の想起的・観照的・黙想的読み方は、人を肉と欲から無化する 
2.神は依然として謎である。 
  1)神は直観的に感じる存在そのものであり、認識の対象ではない。
  2)文書掲示としての聖書から間接的あるいは推論的に神について知ることはある。なぜならば、イエス・キリストはインマヌエルであり、イエス・キリストの言葉と業を通して神を知ることができるからである、 
  3)神は静的な時間に切り取られる存在ではなく、動的な存在である。
        ※神は人と共に生成される時間の中で、自らも生成される 


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