聖書の言葉の限界性

聖書の言葉の限界性

 以下の文章は、私の出版予定の『(仮)神かく語りきー傘の神学的啓示論』の中の一節である。最初に断っておくが著者である私は、「聖書は、誤りない神の言葉である」と言う信仰告白に立つ福音派の牧師である。そして、この「聖書は誤りのない神の言葉である」という信仰告白の上に堅く立っている。
 しかし、同時に神学の一学徒として、この「聖書が誤りのない神の言葉である」という信仰告白への神学的理解と神学的妥当性を絶えず考えている。本論考は、そのような営みの中でなされたものであり、人間の言葉として語られた聖書の言葉が、なにゆえ神の言葉であるかということについての論考の一部である。これの論考に対する詳細な論述は、近い将来出版されるであろう『(仮)神かく語りきー傘の神学的啓示論』をご覧いただきたい。

 聖書の言葉は、人言性と神言性を持つ。これは今までにもすべに述べてきたことである。すなわち、聖書の言葉は、人間の言葉によって書かれたものである。これは歴史的事実である。同時に聖書は神の言葉でもある。これは、「聖書は人間の言葉で書かれたものである」という歴史的事実の対する信仰の事実である。これを聖書の人言性と神言性と呼ぶ。このように聖書は人言性と神言性と言う両性が交差したところにあるのである。このことは、聖書が人間の神に関する命題化された知識を伝えるものではないことの明らかな証明となる。なぜならば、神は、神であって人間ではなく、それゆえに人間の言葉では「言い表せないもの」であって、我々人間を含むこの世界を超越した存在だからである。

 それに対して、我々人間の語る言葉は、世界内を叙述する言葉であって、この世界内の存在と経験についての認識を語ることができるが、この世界を超越したものを語ることができない。この点において、我々はカントに同意することができる。つまり、いくら聖書を用いて、神についての命題化された知識を語ろうとも、その言葉は人間の言葉をもって語られている以上、それは神についての命題化された正しい知識を語っているということにならないのである。

 例えばこういうことである。我々が聖書をもとに「神は愛である」と語ったとしよう。そして、その根拠にヨハネの手紙一の四章を挙げたとして、その「愛」は、我々人間の認識内の愛であり、「神は愛である」というが伝えるものは、我々が認識するあ「愛」でしかない。その「愛」をもって、「神は愛である」ということが、神についての命題化された真理であるとするならば、神は我々人間の知性内の存在でしかなくなる。

命題化された真理と言うのは「Aは○○である」という主語と述部によって構成される短文で叙述されるものである。しかし、神は人間の知性を超えた超越的存在であって、本来「いる」という述部だけによって直感される存在である。だから、「神は愛である」と言う言葉も、超越者である神を完全に述べたものではない。つまりそれは、私たちの知性に置いて理解できる範囲内において「神は愛である」と語りうるものであり、そこで述べられている愛は、私たちの認識する愛とは質的に違っている。つまり、聖書が「神は愛である」という言葉で、神を命題化して定義するとするならば、それは決して神の実態を正しく伝えたことにはならない。むしろ、私たちの知性内において認識できる「愛」の概念によって神を歪曲化させることにさえなりかねない。それゆえに、神を命題的真理として語る言葉は、神に対する人間の抽象的解釈に過ぎないのである、

ここには、聖書の人言性が持つ言葉の限界性がある。そして著者が、東日本大震災の被災地において、そこにたたずむ被災者を前にして、「私たち人間は罪びとです。神は、その罪びとである私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」に空しさを感じたのは、この聖書の持つ言葉の人言性のゆえであり、この限界ある言葉をもって、「神は愛である」と命題化して神を認識していたからに他ならない。つまり「神は愛である」という命題化された言葉の歪みが、東日本大震災という常識を超えたで出来事の中で現れ出たためである。それは、「愛」と言う言葉だけではない。直感した神の存在を人間の言葉で表現しようとするとき、いかなる言葉を用いても、神を矮小化し、歪曲化してしまっている。その意味で、人間の言葉は、神の前では限界性を持つ。

 しかし、それでもなお、聖書は「神は愛である」と命題的(命題化ではなく、あくまでも命題的である)に語る。実際ヨハネ手紙一の著者は、「神は愛である」と述べているのである。では、いったいなぜ、神はヨハネの手紙一の手紙の著者をして「神は愛である」と語らしめたのであろうか。それは、聖書は神が人間について語る書だからである[i]。すなわち、神は、自らの人間に対する関わりを方を通し愛というものを定義し、その定義に基づく愛によって、我々を互いに愛し合う者とするために「神は愛である」と語るのである[ii]。つまり、聖書は、我々人間の生き方について語るがゆえに、我々の知性内の言葉を持つ限界性内で、神の意思を語ることができるのである。このとき、神の前に限界性のある人間の言葉が、人間の言葉であると同時に、その人間としての言葉の限界性を超え、神の言葉としての神言性を持つのである。

このようにして、超越者たる神は、単に直感される存在としてだけでなく、言葉によってこの世界内に内在する。そして、神の言葉である聖書は、人間の言葉によって言い表す世界内の存在と経験を用いて、私たちを神の民として、神の前で生きるように導き、神の意思を伝えるのである。



[i] Hessehel, MAN IS NOT ALONE ,p.129 原文は、The Bible is primarily not man's vision of God, but God's vision of man. The Bible is not man's theology but God's anthropology, dealing with man What He ask of him rather than with the nature of God であり、邦訳、ヘッシェル『人は独りではない』教文館135頁の森泉訳では「聖書は第一義的には人間の神観ではなく神の人間観である。聖書は人間の神学ではなく、神の人間学である。すなわち神の本性よりもはむしろ人間と神とが人間に求めていることを扱っている」となっている。

[ii] 「神は愛である」と述べるヨハネの手紙一の四章七節から二〇節は、七節の「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです」という、愛することへの勧めの言葉から始まる。そして、九節において「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです」と述べて「神は愛である」と提示する。そして、一〇節および一一節でその提示した「愛」の内容を「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」として表す。そして、再び一一節で「愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」と結び、再び愛し合うことへの勧めがなされている。このように、ヨハネ手紙一の著者が「神は愛である」と述べる意図は、徹底して私たちが「愛」と言う言葉で定義された生き方に私たちを導くためである。それは、たとえば創世記一七章一節において、神が「私は全能の神」であると言われる場合においても同じである。神は、人間の言葉が認識できる「全能」という言葉を通して、「私の前に歩み、全き者でありなさい」という神の前に生きる生き方を指し示している。このように、命題的に思われる言葉は、人間が理解し認識できる世界内の言葉として、世界内に生きる人間の生き方を提示するためものである。つまり、ヨハネの手紙一の四章の「神は愛である」にしろ、創世記一七章の「私は全能神である」にしろ、それは神自身を定義する命題ではなく、私たちを神の前に生きる者とするために神自身が、世界内の存在となるための言葉なのである。

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