常盤御前 其の参



前回の「常磐御前 其の弐」からの続きです


それではまた平治物語を読んでみましょう。

常葉は子どもの命けふにのぶるも、ひとへに観音の御はからひと思ひければ、彌信心をいたして、普門品をよみ奉り、子どもには名號をぞとなへさせ給ける。
かくて露の命もきえやらで、春もなかばくれけるに、兵衛佐殿は、伊豆國へながさるときこえしかば、我子どもはいづくへかながされんと、肝をけし伏ししづみけるが、をさなければとて、さしおかれて、流罪の儀にも及ばざりけり。

「普門品」とは観音経のことです。
頼朝が流罪になるので、常盤も当然、「これはヤバイ!」と思ったところが、幸運にも子供たちは流罪を免れました。
信心していた清水寺の観音様のお計らいと考え、彼女はそれをチビッ子たちにも唱えさせました。
「肝を冷やし」ではなく、当時は「肝をけし」といってたんですね。
ただし、無条件にチビッ子三人が助命されたわけではなく、清盛は条件をつけます。
「義経記」です。

さても常磐をば、清衡最愛して、ちかき所にとりすえて、通わせけるとぞきこえし。

ずいぶんサラリと書いていますが、「常磐をば、清衡最愛して」の表現はどうなんでしょう。
敵方の大将の奥さんなんですよ。
その大将殺しちゃってるし…。

まあ、権力者に逆らえる立場にはいなかったので、この時の常盤はチビッ子を助けるために我が身を犠牲にしたのでしょう。
不愉快ですが、これが一般的な想像です。

それでも今若と乙若はすでに元服の年齢に達していたので、何のお咎めもなく常盤と同居、という訳にはいきませんでした。
ここんとこの平治物語は簡単に済ませていますが、重要なポイントです。
これも義経記の引用です。

清盛、我にだにも従はば、末の世には、子孫の如何なる敵ともならばなれ、三人の子供をも助けばやと思はれける。
頼方・景清に仰せ付けて、七條朱雀にぞ置かれる。
日番をも頼方計らひにして守護しける。
清盛は常磐が許へ文を遺されけれども、取りてだにも見ず。
されども子供を助けんが為に、終には従ひ給ひけり。

やはり「平治物語」より細かいところを押さえて創作してますね。
清盛はとりあえず常盤母子をお咎めなしとして、七條朱雀に住まわせました。
現在の下京区です。
この辺りが、時代が下がって完成された義経記の面目躍如でして、フィクションは大衆に迎合します。

権力をほしいままにしていた清盛が、常盤に何度もラヴレターを送るんですね。
普通なら力づくで何とかしちゃうだろうし、それが出来る立場の清盛です。
でもそれをしないのは清盛の育ちというか、プライドがあったんでしょう。
義経記ならではの創作です。

常盤は、「ふん、なにさこんなもん!」と、読まずに毎回ゴミ箱へポイしちゃいます。
そんなことしてたらややこしくなるんだろうな、とこちらが思っていた通りの展開が待ち受けていました。
「子供を助けんが為に、終には従ひ給ひけり」
清盛は半ば脅しによって常盤に迫ったのでしょう。
常盤はついに清盛に屈してしまいました。

確認は不可能ですが、常盤は清盛の側室として女の子を出産したとされています。
後に「廊の御方」と呼ばれる女性です。
清盛の息女に間違いはないのですが、常磐が産んだか真偽は不明。
しかし、時代のイタズラというか、この「廊の御方」が後に数奇な運命をたどることになるのです。
フィクション臭満載だけど、こっちの方が面白いので、当方はこのまま「平治物語」や「義経記」に沿って話を進めていきます。
一々断るのもわずらわしいので、「常盤」は「義経記」、「常葉」の場合は「平治物語」と使い分けるのでご承知置き下さい。

母の常磐は清衡に思われて、姫君一人もうけたりしが、すさめられて後は、一條の大蔵卿長成の北の方になりて、子どもあまた出で来たり。

祇王や仏御前などを出すまでもなく、清盛はモテモテだったのでしょう。
女児を産ませた後、
「飽きちゃったからキミにあげる」
と、藤原(一条)長成に常盤を下げ渡してしまいます。
「北の方」だから長成の正妻です。
実は清盛が産ませた女の子というのは虚構で、実際は長成に嫁してから生まれたという説もあります。
いずれにせよ、常盤は義経の後に女児を出産していることは確かです。

清盛と常盤の間に生まれた娘とされる「廊の御方」の生年は応保元年(1161年)、ちなみに、義経は平治元年(1159年)に生まれています。
また、この「廊の御方」と、長成の正妻になって誕生した女子が、実は同一人物という説もあり、こちらも激しく混乱するところです。
清盛の種を宿した常盤を、清盛がお人好しの長成に押しつけたという真偽不明の話もあります。
ご落胤説の絶えない清盛ならではのコジツケでしょうか。

それにしても「子どもあまた出で来たり」とあるので、何人も産んじゃったんですね、常盤さん。
長成に嫁いでから、女児の次に男の子も出産します。
この男子が藤原(一条)良成(能成とも表記されます)で、長寛元年(1163年)誕生。
後に「廊の御方」とともに大きく義経に係わってきます。
後半でまた登場するので、「廊の御方」だけでなく、「良成」の名もシッカリ覚えていて下さいね。
常磐の子供たちが、まるで綾織りの糸のように複雑に絡み合い、運命に流されて行きます。
どんどんややこしくなるのでこれ以上詳しくは書きませんが、最初の夫、義朝から始まり、常盤は少なくとも七人以上の子を産んでいます。
それも源平双方の子供です。

ところで三人のチビッ子はどうなったのでしょうか。

さてこそ常磐三人の子供をば、所々にて成人させ給ひけり。
今若八歳と申す春の頃より観音寺に上せ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。
後には駿河國富士の裾におはしけるが、悪禅師殿と申しけり。
八條におはしけるは、そしにておはしけれども、腹悪しく恐ろしき人にて、賀茂・春日・稲荷・祇園の御祭毎に平家を狙ふ。
後には紀伊國にありける新宮の十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たりけり。
牛若は四の年まで母の許にありけるが、世の幼い者よりも、心ざま振舞人に越えたりしかば、清盛心に懸けて宜ひけるは、
「敵の子を一所にて育てては、終には如何あるべき」
と抑せられければ、京より東、山科と云ふ所に、源氏相伝の遁世して、幽なる住にてありける所に、七歳まで置きて育て給ひけり。

さすがに義経記は詳細です。
平治物語と比較してみましょう。

されば其腹の男子三人は、流罪をものがれて、兄今若は、醍醐にのぼり出家して、禅師公全済とぞ申ける。
希代の荒者にて、悪禅師といひけり。
中乙若は、八条の宮に候て、卿公円済と名揚て、坊官法師にてぞおはしける。
弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成て、遮那王とぞ申ける。

記述はずいぶん駆け足ですが、今若と乙若はすでに元服の年齢に達していたので出家させられました。
一方、牛若はまだ幼いので、常盤とともに長成邸で過ごすことになります。
養父となった長成は藤原秀衡の遠縁でもあったので、後に義経が奥州を目指したのも、その関係と考えて良さそうです。
ここは急がず、チビッ子三人のその後を、順に追ってみましょう。

まずは今若からです。
前回も書きましたが、「泣かでよく申させ給へ」と、涙に暮れる母を励まし、居並ぶ人たちをも貰い泣きさせた今若です。
ところがここでは「希代の荒者にて、悪禅師」と、簡単に切って捨てています。
義平の「悪源太」とは違い、こちらの「悪」は乱暴者の表現です。
とても同じ作者の記述とは思えません。
後世に成立した物語なので、書き手が複数いた証拠といえるのではないでしょうか。
ここでは「勇猛」という程度に考えておきましょう。
醍醐寺で出家させられ、十八歳で受戒して「禅師の君」と呼ばれていた今若ですが、名前も「全済」から「全成」と変わり、一般的に今若にはこの「全成」表記が使われています。


話はギューンと飛んで、頼朝と義経の黄瀬川の対面が治承四年(1180年)十月二十一日です。
ところが全成はその三週間前の十月一日に、すでに頼朝との感激の対面を果たしています。
以仁王の令旨を聞き、真っ先に馳せ参じたのが全成でした。
ヤマトタケルのような貴種流離譚がもてはやされるせいか、黄瀬川の対面や義経の活躍ばかりがクローズアップされますが、実際に頼朝に優遇されたのは、この全成でした。
その証拠に、全成は北条政子の妹を娶って阿野姓になりました。
これは駿河の阿野(現在の富士市辺りか)に拠点を置いたためで、「阿野禅師」とも呼ばれています。

頼朝同様、北条氏との関係も親密です。
それに対し、義経は頼朝の家臣である河越重頼の娘(郷御前)を正室にしています。
この違いだけ見ても、義経より全成の方が、はるかに頼朝から優遇されたことがわかります。
元々は異母弟であり、同時に頼朝の義弟という立場でありながら、兄に比べて冷遇される義経の姿が浮かび上がります。
こうして我々後世の読者は、判官贔屓の萌芽を無意識のうちに刷り込まれていくのです。
弟二人の婚姻は、すべて頼朝の意向でした。
それでも全成と義経が、数年振りに実の兄弟として対面を果たしたことは確実です。
二人にしてみれば、頼朝との対面よりも感慨は深かったことでしょう。
「カーチャンはどうしておられるのかなあ」
と、常磐の話題も当然懐かしく出たでしょう。

頼朝は正治元年(1199年)に亡くなっていますが、全成は建仁三年(1203年)まで生存しています。
それでも天寿を全うするのは難しく、頼朝の死後、頼朝の甥である頼家と対立して殺害されてしまいます。
享年51でした。
しかし、全成は男女数人の子供を遺していました。
男子は北条氏に殺され、源氏の血統は途切れましたが、女子がやがてそのまま阿野の姓を継ぎ、公家の滋野井公佐に嫁して、全成のDNAは後世まで受け継がれ、広がっていきます。
記録でも、その血筋が確認できるようです。
全成の娘から五代目には阿野廉子という女性が現れ、後醍醐天皇に寵愛されて六人の子を産んでいます。

その中の一人が嘉暦三年(1328年)に誕生した後村上天皇だといわれています。
ということは、現在の皇室だけでなく、日本のどこかで、常盤の遺伝子を持つ一般人が存在している訳です。
もっと細かくいえば、同時に義朝と北条政子のDNAも受け継がれているのです。
常磐の子孫は現在も日本の何処かで確実に存在していると断言して問題はありません。
考えるだけで胸が躍ります。
女性ならば常磐の遺伝子を引き継いだ美女に間違いありませんね、たぶん。

次は乙若です。

中乙若は、八条の宮に候て、卿公円済と名揚て、坊官法師にてぞおはしける。

滋賀県大津市の園城寺で出家した乙若は、三井寺の八条宮円恵法親王(父はご存知、日本一の大天狗、後白河です)に仕え、事務方の仕事をしていました。
やがて円済から義円と名前を変え、治承五年(1181年)、寺を抜け出して叔父の源行家とともに尾張で挙兵します。
全成と義経に遅れること一年でした。
しかし奮闘の甲斐なく、墨俣川の戦いで平家の家人である高橋盛綱に殺害されています。
享年27。
行家の戦略ミスが大敗の原因でした。
おそらく、全成と義経には再会できないままの無念の死だったでしょう。
それでも子供には男子がおり、全成ほどではないにしろ、その末裔が存在するようです。
この義円同様、後に義経も行家と組んで、運命の歯車を狂わせます。

いよいよ牛若です。

弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成て、遮那王とぞ申ける。

常磐の連れ子として藤原長成邸で過ごす日々も、長くは続きませんでした。
僧になるべく、稚児として鞍馬山へ預けられます。
そこには清盛の意向が大きく係わっていましたが、この辺りの諸事情は万人の知るところなので、すべてカットします。
次の平治物語の記述で済ませます。

この遮那王をば、蓮忍も覚日も「出家し給へ」といえば、
「兄二人が法師になりたるだに無念なるに、左右なくはならじ。兵衛佐に申し合わせて」
など申されけり。
強いて言えば、つきころさん、さしちがえんなど、内々もいわれければ、師匠も常磐も継父の大蔵卿も力及ばず、ただ平家の聞きをのみぞ嘆かれける。

尊卑文脈には以下の記載があり、清盛からの命令と、おそらく長成の意向もあったのでしょうが、十一歳で鞍馬寺に送られ、十六歳で平泉に向けて出奔していることがわかります。
この鞍馬での五年間、母常磐に会うことが出来たかは不明です。
五条大橋での弁慶との出会いはまったくのフィクションですし、洛内へ下って来ること自体、厳しく制限されていた訳ですから、当時の状況から考えて、常識的には常盤とも会えなかったのではないでしょうか。
出家を前提の稚児であっても、牛若はまぎれもない源氏の嫡男です。

ところが常盤は清盛の側室となった後、長成に嫁してしまったのですから、こちらは平家の女性ということで、母子でありながら、立場と環境が正反対なのです。
ちなみに「武蔵坊弁慶」の名が歴史に登場するのは「吾妻鏡」の文治元年の条で、それも義経都落ちの場面二ヶ所のみです。
五条大橋のお話は残念ながら虚構です。
清水寺での再試合など、巷間伝わる活躍も史実ではありません。

自十一才住鞍馬寺、一和尚東光房阿闍梨賢日、弟子善淋房覚日坊、自幼日時、頻嗜武芸云々、
於鞍馬寺相語東國旅人諸陵助重頼、令約諾、承安四年三月三日暁天(于時十六才)窃立出鞍馬山赴東國下著奥州、寄宿秀衡館送五六ヶ年畢

さて、奥州平泉にいた義経は二十二歳の時に頼朝の元に馳せ参じるのですが、その後の活躍は皆さんご存知の通りです。
平泉潜伏中に、密かに京へ出掛けたという話もありますが、これは考えにくいことです。

いよいよ平家追討が始まります。
まず頼朝が指示したのは、京の都で傍若無人の振る舞いをしていた木曽義仲を誅することでした。
そして寿永三年正月、宇治川から大和大路を北上した義経は京へ入り、六条河原に陣を張る義仲を攻め、敗走させることに成功します。
義経二十六歳の初陣でした。

この戦後処理に日数を費やしたものの、平家物語によれば鞍馬寺で師の東光坊を訪ねて懐旧談をしたり、貴船神社にも参詣したとあるので、同じ時期に母常盤とも当然再会を果たしたことでしょう。
十六歳で奥州に逃れてから十年の月日が経っていました。

やがて、平家を滅亡に追い込む壇ノ浦の決戦が始まります。
廊の御方がここで再登場します。
彼女は藤原兼雅の猶子となり、三条殿と呼ばれていました。
この場合の猶子とは、養女に近い待遇だったと考えて差し支えありません。
ちなみに兼雅の正室は清盛の娘です。
もちろん廊の御方は平家方の女性ですから、異父兄であっても義経は敵です。
源氏優勢となり、知盛の、「見るべきものはすべて見つ」の有名な台詞とともに、平家の武将や女性は次々と入水して果てます。

ところが入水したものの、廊の御方は徳子(建礼門院)同様、源氏によって髪をからめ取られて救出され、源氏に捕えられてしまいます。
平家の捕虜たちを曳いての源氏の上洛を、常盤は町のどこからか必ず目にしていたはずです。
意気揚々と凱旋する義経と、片や囚われの身の廊の御方。
兄妹が敵味方に分かれて戦う運命は過酷です。
廊の御方は、ここで歴史から永遠に消えてしまいます。
建礼門院の処遇からも、そして、後に義経追討の折に捕えられた常磐も許されているようなので、廊の御方が殺害されることはなかったでしょうが、その後の消息はまったく不明です。
でも、常盤との交流が途絶えることはなかったでしょう。

それにしても、子供を助けるためとはいいながら、源平双方に係わらざるを得なかった我が身を、常磐はどう位置付け、どのように納得させていたのでしょう。
前回も引用しましたが、常盤を擁護する黒板勝美の「義経伝」から抜き出してみます。

常磐の節操については、昔からいろいろの人が色々の議論を闘わして居る。
第一に、常磐が清盛の意に従い、その三人の公達を除名せしめ、遂に源氏の再興となったのは、偉い節婦で、貞操を破って貞操を全うしたのであると評して居る。
また或は夫義朝の敵たる清盛の妾となったのは一個の淫婦である、之を烈婦などとは思いも寄らぬことで、日本の婦人として之を恕すべきものではないと非難する。
第一説は結果から原因を論ずる論理の誤謬で、第二説は後世の心を以て古を律する道学的酷評である。
 婦人の貞操について、極端な女大学的倫理観が出来上ったのは、まず江戸時代に入ってからであろう。
源平時代の社会では、まだそんな考は生じて居なかった。
尤も夫の死んだ後に再醮せず、一生操を守ったものも、早くから我が国の歴史に現れて居る。
そして王朝時代には、之を節婦として支那流に門閭に旌表せられたことが散見して居るのであるが、当時源平時代に在ては、夫の歿後再婚することが、普通に当然であると考えられて居たように思われる。

黒板に限らず、これが一般的な感覚でしょう。

一方、凱旋将軍の義経の人生も、ゆるやかに、しかし確実に転落を始めます。
有名な腰越状の一部です。

義経、身体髪膚を父母に受け、幾時節を経ずして、故頭殿御他界の間、実無之子と成りて母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡竜門牧に赴きて以来、一日片時も安堵の思に住せず、甲斐無きの命許を存らうと雖も、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖と為して、土民百姓等に服仕せらる。

「京にとどまるのも難しいので諸国を流浪し、各地で身を隠し、そのうちに暮らしにも困窮して、土民たちにも奴隷のように使役させられました」
泣きの書状を鎌倉に送ったものの、これは大江広元が握りつぶし、頼朝が目にすることはなかったようです。

やがて事態は紛糾し、といっても、ほぼ義経の逆ギレに近いのですが、頼朝が大天狗に出させた宣旨により、反逆者となって全国指名手配犯にされてしまいます。
同じく指名手配された叔父の行家とともに、船で摂津の大物浜から西国へ逃れようとしました。
文治元年(1185年)十一月六日のことです。
この時、義経一行に従ったのはおよそ二百騎。
その中には良成がいました。
覚えてますか?、父は違えど同じ常盤の子、あの良成です。

平家方であるはずの良成がなぜ義経と行動を共にしたかは不明です。
自ら進んで兄に従ったというよりは、家族愛を渇望していた義経が、半ば強引に連れ出したと見るのが正解でしょう。
その一方で、名将として頭角を現し始めた頃の義経にすり寄ったとの見方もありますが、後に許されて出世し、堂々、従三位にまで叙されているので、この観測は却下されるべきでしょう。
常盤の子の中では珍しく、嘉禎四年(1238年)に七十五歳の天寿を全うしています。

大物浜から船を出したものの、嵐に遭遇、船は転覆してしまいました。
気がつけば義経に従っているのは、「吾妻鏡」によれば、「伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵坊弁慶幷妾女一人」の四人だけになっていました。
これは弁慶が鎌倉幕府の公式記録とされる吾妻鏡に登場した最後です。
妾女一人とは、静御前のことですね。

西国行きをあきらめた義経一行は逃避行を開始し、吉野へ隠れます。
この辺りは九条兼実の玉葉に詳しいのですが、参考にしつつスルーして先を急ぎます。
やがて半年余りが過ぎました。
文治二年六月六日に行家が追捕され、同日、一条河崎の観音堂近くで、常盤と妹が捕えられます。
義経の行方を知っているのではないかとの嫌疑です。
常盤は義経の所在を教えました。
それは仁和寺に居るというものです。
しかし時すでに、そこに義経はいませんでした。

ここで問題なのは、常盤とともに捕えられた義経の妹です。
廊の御方ならば、その通りに記載されたはずです。
ならば、やはり廊の御方は清盛の娘に間違いなく、常盤は長成との間に確かに女児を出産したことがわかります。


長々と常磐御前について書いて来ましたが、常盤の記録もこれが最後です。
この時の常盤は五十歳。
乱世に生まれなければ、孫たちに囲まれて平凡で穏やかな人生を歩んでいたに違いありません。
三年後には義経が非業の死を遂げています。
その知らせをどのような気持ちで聞いたのでしょう。
そして何歳まで生きたのでしょう。
やがて常盤も歴史の闇に消えて行きます。

最後に義経の死を伝え聞いた兼実の玉葉を引用して終わりにします。

事もし実たらば、仁義の感報己に空し。
遺恨に似たりと雖も、天下の大慶たるなり。
彼等もし鎮西に籠らば、追討の武士等の為に、巡路の国、弥(いよいよ)滅亡すべし。
関東諸国、又、此の乱に依りて、其の道を通ずべからず。
仍て中夏の貴賤、活計の術無かるべし。
而して前途を遂げずして滅亡、豈国家の至要に非ざらんや。
義経、大功を成し、其の詮なしと雖も、武勇と仁義に於ては、後代の佳名を貽すものか。
歎美すべし、歎美すべし。
但し、頼朝に謀反の心を起す。
己に是れ大逆罪なり。
玆に因り、天、此の灾を与ふるか。

武勇と仁義を賛美しながらも、その行為は国家への反逆であると断じています。
公平な批評だと思います。

追記及び反省及び拾遺

信頼出来るものとしては玉葉>吾妻鏡>平治物語>平家物語>義経記>源平盛衰記の順だと思いますが、やはりフィクションが一番面白いですね。
清水寺から観音信仰、その観音信仰から常磐御前を連想してスポットを当ててみましたが、如何せん長過ぎたのは反省ポイントです。

信頼に足る文献は「玉葉」だけといって良いでしょう。義仲追討の時も、兼実は鎌倉勢の大将義経を、「誰?」と書いているので、リアルタイムの日記であることがわかりますし、義経がまったく無名だった武将という事実も知ることが出来ます。だからこそ、安心(信用)して読めるのです。
もちろん常磐の記述なんて無い訳で、以後の戦記物語のフィクション性が一層際立ちます。それにしても、よく出来た物語群です。

吾妻鏡にせよ鎌倉幕府の御用記録ですから、以降の戦記物はいわゆる娯楽的読み物と位置付けるべきでしょう。尊卑分脈などはもっともらしい系図を書き連ねていますが、余り価値は見出せませんし、私の場合は参考程度の資料として横目で見るくらいです。
逆に知らなかった事も幾つかあり、大いに楽しんで書きました。

Wikiには尊卑分脈に関して<平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級の史料>とありますが、後世に改ざんされた形跡があるし、吾妻鏡同様、全面的に信用は出来ません。
<以降の戦記物はいわゆる娯楽的読み物>
その通りだと思います。琵琶法師たちが成立にかかわった完成形が「平家物語」や「義経記」だったりするのでしょう。
よく出来た物語群です。

琵琶の弾き語りが放浪の芸能であることは間違いなく、全国への伝播を考えれば、四条河原辺りが発祥でしょうか。
おそらく瞽女のような人たちも同様にかかわっていたのだろうと思います。
彼等彼女等によって、練りに練られたストーリーが大衆に支持されたのでしょう。
貴種流離譚はいつの時代も共感と同情を呼び、熱烈に歓迎されるのです。

長々とすみませんでした。


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