最近はオオムラサキを見ませんね

少し前に僧正遍照をディスったので、今回は少しだけヨイショします。


オオムラサキが国蝶になったのは、案外単純な理由だったらしい。
そのオオムラサキ、子供の頃は都会でも見かけた。
個体数は少なかったが、そこかしこに空き地が残っていた時代だ。

補虫網を振り回しても、なかなか獲れなかったのはアゲハなども同じ。
しかし奴は、時にバサッと音を立てて背後を旋回したり、まるでスズメではないかとびっくりすることもあった。

捕まえるのは意外と簡単で、樹液を出す雑木を探せばよい。
オオムラサキは花の蜜などには目もくれず、樹液に集まるからだ。
とは書いたものの、捕まえた記憶はない。
男の子は蝶より甲虫を好むのである。

ルリタテハも樹液に集まるが、こいつも素早く、のろまな私には捕まえられなかった。
花の蜜を吸いにやって来たのはスズメガだった。
吸うといってもハチドリのようにホバリングしながらの食事だから、上手に吸うもんだなあと見学だけした。
ずんぐりした胴体は貫禄十分で愛好家も多いと聞くが、私はアゲハの仲間が好みだった。
無意識に、蛾より蝶に魅かれていたのかも知れない。

兄は近所の駄菓子屋でトリモチを買って竹竿を振り回し、もっぱら高い樹上のセミを捕っていた。
その兄に、蝶と蛾の違いを聞いたことがある。
「キレイなのがチョウチョで、キタナイのがガッ!」
ずいぶん乱暴な区分けだが、実際に蝶と蛾の区別などはないらしく、フランスではどちらもパピヨンである。
生物学や昆虫学では分類も必要だろうけれど、学者になろうと考えたこともないから、私には双方パピヨンで構わぬ。

モスラは蛾である。
そのモスラがなぜ正義の味方に大抜擢されたかは知らぬが、嫌われ者の蛾に光を当てようとの思いがあったのだろうか。
モデルの蛾はヨナクニサンという噂があり、それは本当らしかった。
でも、鱗翅の形が違うし、子供心に、あんなゆっくりした翅の動きで飛び上がるなんて、不自然であり得ないではないかと思った。
ザ・ピーナッツがいなくなったのは何とも寂しい限りである。
ちなみに、インファント島にヨナクニサンはいない、と思う。

本来、南方の島などにいるはずのアカボシゴマダラを、当たり前のように関東でも見かけるようになった。
もちろんインファント島にもいたのだろうが、それだけ温暖化が進んだのか、それとも人為的に持ち込まれたものなのか。
この事実はモスラの縮小版のようなものだ。


ち(散)りぬればのち(後)はあくた(芥)になる花を思ひしらずもまと(纏)ふてふ(蝶)かな

古今集に収められた僧正遍照の歌は、オオムラサキでないことは確かだ。

散ったあとは塵芥になる花なのに、そんなことも知らずに纏いつく蝶であることよ。
無常観や九想観を詠んだ歌だろうことは容易に想像がつくけれど、歌になった背景を調べていないので何とも言えぬ。
「まとふ」が「惑う」の掛詞になっていることはわかるが、本当のところ、何を言いたいのかがわからない。
こんなところが、何も勉強せず、自己流に和歌を解しているつもりでいる弱点だ。

小野小町とも親交のあった遍照だが、男女関係ではなく、ここは人生の無常を花と蝶に仮託したものと捉えたい。
花と蝶といっても、森進一ではない。

以前、同居人が風邪をひいて声が枯れ、ハスキーボイスになったことがある。
「こんばんは、森進一ですって言ってみて」
素直に応じてくれた。
「じゃ今度は、こんばんは、森光子ですって言ってみて」
これはウケた。
調子に乗って、
「こんばんは、青江三奈ですって言って」
さすがに機嫌を損ねた。
病人で遊んではいけない。

小野小町と僧正遍照についてはいずれ書くつもりでいるが書かぬやも知れぬ。
先のことを考えるのは無意味である。
また台風が来るらしい。
餅のことは餅屋さんに聞くように、お天気のことは、TVの天気予報のお天気屋さんに訊くがよろしい。
お天気をお天気屋さんに聞くのはどうかとも思うが、なにせお天気のことだから話半分と心得ておこう。
気象予報士の資格は持っていないが、私だってお天気屋である。

蛾できれいだと思うのはオオミズアオ。
最近、都会でもオオムラサキを始め、あまりてふてふをを見なくなったね。
秋の虫どもが大合唱をしている。
陽が落ちて、トラツグミが一羽、「こんばんは」と哀しげに一瞬鳴いた。

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