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ちびすけ。1️⃣

これは、私の歩んできた道を事実と感情を
交わらせて、自分の為に整理し遺す。
ノンフィクションのエッセイ。

まずは、中学卒業まで。



人は、
産まれた時には
誰もが祝福されて産まれてきたのだろう。

そう、思っている。

私の両親はどちらも幼い頃に母親からの愛情を、父親からの愛情も
死別により受けられなかった。

でも
だからといい、自分の子どもに手をあげたり、
DVの場面を見せたり、心理的虐待等をしていいとは
私は思えない。

私のお父さんは日本人
私のお母さんはフィリピン人

お父さんが仕事でフィリピンに行った時にお母さんを見つけて
何回も会いに行っていたんだって。

そのうち、私の兄をお母さんは身籠って、
大学を中退してお父さんが日本に連れてきたのだそう。

兄が産まれてから、女の子も欲しいとのことで
産まれてきたのがワタシ。

そして、弟もいる。
弟が産まれた時に、病院に見に行った記憶も
微かに、でも確実に残っている。




幼稚園に入園した。
私は、身体が弱めの子だった。

よく保健室で横になって唸っていたのを覚えている。

幼い頃の私は、
1人で家のお風呂に入っていた時に、
湯船の中に上を仰いで目を瞑って沈み込み
カウントダウンする遊びをよくやっていた。

ある時、
その遊びをしている時に
湯船の中から起き上がったところに
給湯器があり、
たまたま頭を強打した。

そのまま、私は水の中に沈んでいった。

母親が引き上げるところまでを
水の中から見えたのを
何となく覚えている

気付いたら病院のベッドに居た。


また、幼稚園の時に
川崎病にかかった。

毎日身体に冷たいジェルを塗って心電図を
とられたり
階段の上り下りをさせられた記憶がある。

いつも、何かしら管が身体に付いていた。


約半年くらい入院していた。
何度か両親が面会に来ていた。

幸い、私は後遺症は残らなかった。


退院後、

当時流行っていた
『ファービィー』という喋る人形を買ってもらった。

弟が使っていた室内用のブランコに
その人形を乗せてみて、人形が
「目が回る~」というのを楽しんでいたのを
覚えている。


——そんな中。

いつしか母と父の間での喧嘩を
よく見るようになった。

ある時は、食事中に両親の喧嘩が始まり
私のすぐ目の前を
少し黄色味がかったブロッコリーが
通っていった。

出て行く父親。

床に落ちたブロッコリーの
黄色く変色したところを
幼い私は、しばらく見つめていた。




母の帰省ということで、
兄と弟とフィリピンに行ったこともある。

父は毎回、居なかった。

ドアも窓もない母の実家。
庭にはココナッツの木が生えていた

まだ、弟はハイハイの時期。

私は周りの親戚に囲まれ、
蜘蛛同士を戦わせる遊びをしてるのを見たり
友達になった子と無邪気に遊んでいた。

日曜の礼拝で、近所のフィリピンの子供たちと
私たち兄弟が共に写っている写真は
未だに携帯のフォルダにある。

フィリピンはよくスコールが降る。
排水の技術が進んでなく、
住宅街の道はすぐ水浸しになる。
小さい私の背丈くらいの水かさなので、
私はよく大人に担がれて移動していた。

滞在中に、
プールで浮き輪に乗って浮かんでいた私は
横に倒れてしまい、溺れかけた。

いとこが直ぐに助けてくれた。

—そのいとことの再会は私が20歳を超えて
フィリピンに行った時。




段々と両親の喧嘩は頻度が多くなり
エスカレートしていった。

お互いに殴り合い。掴み合い。
着ているTシャツが引き裂かれていった。

幼いながらに、私は

‘‘Tシャツっていともたやすくビリビリになるんだ‘‘
そんなことを考えていた。

いつしか、その恐ろしい手は
私にも及んだ。


父の巻き爪を踏んでしまっただけで
殴られる。

私は母から、
よくベランダに締め出されたり
家の外に出されようとしては
必死に机の脚にしがみついて抵抗した。

何で怒られていて、
何故こうなっているのかも、
分からないまま。



私が抵抗して机の脚にしがみつく手を母は叩き、
無理矢理にでも引っぺがされた
そしてドアから外に放り出された。

そのまま階段にしばらく蹲っていたが、
一向にドアは開かないので、
幼い私は住んでいたマンションの
エレベーターに乗って無駄に上の階に
行って探検したりしていた。

そして、しばらくぼうっとした後に
戻ってみて、ドアに手をかけてみると開いていた

何事も無く、戻った。
何も、言われることは無かった。
ケアなんて、無かった。

怒られた理由も分からなかった。

ただの恐怖でしかなかった。



小学校は受験をさせられ、
私立のキリスト系の学校に行くことになった。

兄もその学校に通っており、
しばらくは一緒に電車とバスを使って
1時間弱程、時間をかけて通っていた。

幼い私はサラリーマンに囲まれ、
大人たちの膝を見ながら電車に揺られていた。

学校での私は、のびのびと過ごしていた。
きちんと、手を振って歩く動きを最後まで
やっていて先生に褒められたこともあった。

ただ、学校の成績はすごく良いとは言えず
よく父親に叱られた。
成績表を見せることがとても怖かった。

「俺はいつもオール5をとっていた」
そう毎回言われるから。


私は、小学校でもよくお腹が痛くなったり
熱を出して保健室のベッドで横になっていることが多かった。
トイレに篭っている時間が多かった。


一度、授業が全て終わった後
担任の先生が車で自宅まで送り届けてくれたことを今でもよく覚えている。
窓から見える、流れる景色を見ながら
先生と他愛のない会話をしていた。

先生なりに何か気にかけるものが
あったのかもしれない。


家では、相変わらず
両親の喧嘩は止まらなかった。

包丁を持ち出し、
ヒステリックに叫ぶ母親。

警察を呼ぶ父親。

それを見て何も出来ない私達。
弟と身体を寄せ合い
座って泣きじゃくっていた。


そんなことが、何度もあった。

その度に母は、「離婚したい」
そう言っていた。



小学校4年生の、
夏休みがちょうど始まった頃。

夜、7時頃に
突然、母親からこう言われた。

「もう、あの人(お父さん)とは一緒に居られない。今日家を出るから荷物を纏めて。」


そう、突然に。


私は、言われるがままにランドセルの中に夏休みの宿題や
それに必要な教科書などを詰め込んだ。

その時、まだよく私は分かっていなかった。


「服も持って行くんだよ」

母親のその言葉でやっと、
幼いながらに理解した。

持てるだけの荷物を持って歩いて移動した。

一旦、母親の友人宅に避難した。
そこで一晩泊まらせてもらった。

兄は、母親のフィリピン人繋がりの
友人宅に泊まりに行った。

母と私と、弟は
翌日とある街のシェルターに入った。



そのシェルターは自然の中にひっそりと
佇んでいて、近くには川が流れていた。

外から、中は見えないようになっていた。

いわゆる、母子支援施設。

いくつも部屋があって、
それぞれの家族や単身者が過ごしていた。
中には遊べるような共用部分もあった。

1つの部屋に私達3人で過ごした。
大浴場は共用で、時間を決めて順番に入っていた。

食事は提供されて、食堂で食べていた。


その施設にいる時に、
私は胸の膨らみに気づき
身体の成長を感じた。

たまには、外に出て川の流れに沿って歩いて
散歩に行った。

たまたま居た通りすがりのおじちゃんが、
キラキラ光る玩具をくれたことを覚えている。

夏休みが終わる頃、

施設の職員から
「前まで通ってた小学校はもう行けないんだ。ここを出たら新しいお家から、新しい学校に行くんだよ。」

そう言われた。

お別れの言葉すら言えてないのに。
連絡の手段すら知らないのに。
何も大人は教えてくれなかった。




母は、新しいアパートを借り、
私は新しい公立の小学校に通うことになった。

兄も加わって4人での生活が始まった。

前の私立の小学校では
校章が入った黒いランドセルだったので
新しくランドセルを買ってもらった。
私は別に、どうでも良かったのに。


人見知りな私は冷や汗をかきながらも
自己紹介をした。

初めは転校生なんてちやほやされた。

私立の学校では出来なかった事は出来た。
一度家に帰ってランドセルを置いてから
新しくできた友達と遊ぶ為に公園に行っては遊んだ。

それはそれで、楽しかった。


ある日の昼休み、学校の校庭でクラスメイトとドッヂボールをして遊んでいた。

私の投げたボールが、たまたま
男の子の顔面に当たってしまい、鼻血が出た。

焦って冷や汗をかいて
私は何か言葉をかけたかさえ、覚えていない。

けれど。
その日を境に周りの子は私のことを避け始めた。

いつも移動する時に
「一緒に行こう」と言ってくれた子に

私から声を掛けても、
何も言わずに別の子と行ってしまった。

ヒソヒソ言う声が
とてつもなく、気になった。

誰にも、母親にも言えなかった。


兄は新しい中学校には行かず、
家に引き篭るようになっていた。

母は兄のことしか見ていなかった。

母が私に相談してくるくらい。

「どうして行かないんだろう」
「どうしたら良いと思う?」
「どう声を掛けたら良いと思う?」

どうしたら?
どうしたら。


そんなの、私は分かんないよ。

私だっていっぱいいっぱいなんだよ。
私だって学校に行きたくないよ。

でも。
それでも私は学校に通い続けた。
私まで引き篭もりになって心配かけさせたくない、なんて感情じゃない。

私は。
大変でも、頑張っている私を知って
認めてほしかっただけ。

でも、それは叶わなかった。


結局、母は
「やっぱりお兄ちゃんには、父親が必要だわ」

なんてふざけたことを言い始め
また、元の家に
父親のいる家に戻ることが勝手に決められた。


それからの私の学校生活は

“どうせ、ここから私は居なくなるんだから、友達と親しくなったってしょうがない。別に良い。”

そう割り切り、1人で過ごした。

でも、私の身体は素直で
給食が喉を通らなくて
吐きそうになって
担任にエチケット袋を渡されて

それを机の横に置きながら
周りの子は既に食べ終えてて掃除をしている中
私は隅っこで吐き気と闘いながら
給食を食べていた。




そして。また元の家族ごっこに戻った。

また、今度は父が私に新しいランドセルを買い与えた。父好みの物を。

私の父は会社の社長をやっていて裕福だった。
けれど、倒産したようで
父は1年ほど家に引き篭もった。

だから、お金のかかる私立の学校には戻れなかった。
また違う、公立の学校に通った。

家もマンションを売り払い、
隣町の団地に引っ越した。

3LDKの部屋は広く、
夫婦の家庭内別居を加速させた。


私は、何か癪にさわるようなことをすると
父に髪の毛を掴まれて
ぐわんぐわん、と
頭を揺らされた。

最初の家族ごっこに戻っても、
兄は学校に行かず自室に篭った。

最初はまだ私は兄と関われた。
兄の部屋でキャッチボールをして遊んだり、

兄はパソコンで絵を描くのが好きで
それをよく眺めていた。


私は小動物が好きで、
ハムスターを飼わせてもらったり、
オカメインコ2羽と
ボタンインコ1羽を
飼わせてもらえた。

一緒に遊んでいる時や
お世話をすることは
ただ純粋に楽しかった。

3個目の小学校でやんちゃな友達が出来、
どこかのマンションの屋上に勝手に登っては
怒られたり

今思うとかなり高いし柵もないので
かなり危険な行為をしていた。

ピンポンダッシュなどの悪戯が
流行っていたけれど
私は参加したくなくて
遠いところから見ていた

でも、早めに学校に行って校庭で遊んだり
帰ってからすぐまた外に出て
ドロケイや木登り、めちゃあてをしたり
楽しんでいた。

携帯も何も持っていない状態。
門限は17時で
夢中になって遊んでいた私は
気付くのが遅れた。

やばい。やばい。


必死になって走って走って家を目指して
息切れをしながら帰ってきた。

17時4分。

家に着くとリビングで
お父さんが仁王立ちしていた。

そして、
殴られた。

私の”ごめんなさい”も
走って走って自分なりに頑張って
急いで帰ってきたことは
受け入れてもらえなかった。


兄はずっと引き篭もり、
何度か中学校の先生が家庭訪問に来た。
ベッドにいる兄に、何かを話しかけていたのを見ていた。

その頃から、
父は兄に対して暴力を振るい始めた。
泣きながら止めに入る母。

無言で俯く兄。

私も止めたかった。
‘‘もう止めて‘‘と。
無言で俯く気持ちが痛いほどに分かるから。

でも、止めることは出来なかった。
自分にも被害が及ぶことを私は恐れた。
薄情な妹だった。


私は文字が書けるようになってから、
図工の授業で作った色染めをした紙を
メモ帳にして

自分の中にある感情や、
本当は口に出して言いたい言葉を
メモ帳に書いて綴っていった。

父や母にされたこと。
私が感じたこと。
自分は何なのか?何者なのか?

いつも、文章の最後は
‘‘死にたい‘‘
‘‘消えたい‘‘
その言葉で締めくくられていた。

一度、それを書いているところを見られて
怒られたことがある。
私には、その自由すら与えられないのか?
私のこの感情の行き場は?

こっそり、隠れて書き続けた。
ひたすらに、書き続けていた。

これが、私に出来る
私が私でいる為の心を

何とか保てるよう。

生きる為にとった無意識的な行動だった。
それは、今現在も活きている。


だから私は今も生きている。


ーーそのきっかけをくれたのは、
2年もいなかったけれど
公立の小学校の先生から出された宿題。

毎週末ノートに書きたいことを書いて、
いわゆる担任との交換ノートを出す。
というものがあった。

そこでは、何を書いても受け止めてもらえる。
大人の意見も聞ける。

私はそれが楽しくて毎週A4のノートに2ページ目一杯の文字を書いて
そのコメントが返ってくるのを楽しみにしていた。

毎回、その担任の先生が書く独自のキャラクターがあって
タラコ唇がとてもおおきい。
鳥ではないけど、手足がある、
そんなキャラクター。

今でも、書けるくらい
鮮明に憶えている。



家計は父が握っており、
母は父から生活費を渡されていなかった。

それに対して口論はあったが、
母は結局、夜中にコンビニ弁当の食材を詰め込む仕事を始めた。

母が居ない間に、父が兄に向かって暴力を振るうことがあった。
私は弟と一緒に布団の中に潜り、
固定電話の子機から、何回も母に電話を掛けた。

勿論、仕事中で母が電話に
出られないのは分かっていた。

でも。泣きながら、
弟と身を寄せて隠れながら
何度も電話を掛け続けた。
結局、繋がることはなかった。

その時は、警察を呼ぶという概念すらないほど
私はまだ幼かった。
パニックになっていた。
怖い、怖い、どうしよう

せめて
弟を守らねば、という思いしかなかった。




あまり思い入れもない小学校を卒業し、
私は学区で決められた公立の中学校に進学した。

兄と同じ、中学校。

兄は公立の高校に入学はしたものの、
行くことは無かった。


中学校で、私は陸上部に入部した。
シューズ代や諸々かかる費用は父に出してもらえた。

私は、短距離走が得意だった。
長距離となると、途端に苦手になるのだが。

その中学校の陸上部はかなり有名な
いわゆる、強豪と呼ばれるのだろうか。

顧問の先生が本を出版するほど
教える能力やトレーニング方法が凄かった。

その顧問の先生が、
兄が中学生の時によく家庭訪問に来ていた
生活指導の先生だった。



私はみるみる成長し、中学2年の春の大会で
100メートル走種目で、都大会の決勝に進み
ぎりぎり入賞の8位を獲った。

初めて賞状をもらった時の喜びや
誇らしさを今でも覚えている。

でも、私はそのことを両親に報告することはなかった。
「なんだ8位か、ギリギリじゃないか」
そう、言われるような気がして。

貰った賞状をそのまましまった。

学校生活では、地域柄もあり
よくあるイジメを度々見かけた。

私も勿論された。

ハブられること
あからさまに避けられること
悪口を聞こえるように言われること
菌回しをされること

さすがに、
トイレの便器に顔を突っ込まされたりとか
そこまで酷いものはなかったけれど


そういったことをされると決まって
私はノートに綴っていった。
というより、書き殴っていた。

中学生の頃にノートに綴っている時の
一人称は‘‘俺‘‘だった。

何故だろう。別人格として
俯瞰して見ていたかったのかも知れない。
もしくは解離していたのかも知れない。

そういった軽いイジメは
何となく、気まぐれにターゲットが変わる。
そんなもんだった。


でも。
陸上部の中にまで”それ”が入ってきた。
それがとんでもなくしんどかった。

個人競技とは言え、ストレッチをお互いにし合ったり、リレー種目の選手にも選ばれていたから。

だから、
部活に行く前に決まって私はお腹を壊した。
過呼吸気味にもなった。

段々と足が遠のいていき、
頻繁に休むようになった。
何かしら理由をつけて。


そして、ふと思った。
“こんな思いまでしてやる意味なくない?”
と。

そう、逃げた。
部活に行かなくなった。

私は逃げ出した。
退部届を顧問に出したら説得された。
何度も説得された。

それがあまりにも、しつこく
私は川崎病にかかったことで、身体がしんどいので
と引き留めずらい理由をつけて辞めた。

もう、切り離した。
傍から見たら単なる逃げかも知れない。

でも、そうすることで
家でも学校でも居場所のないと感じた私は
せめてもと、自分を守ったんだ。

今、当時を振り返りそう思う。


それからは帰宅部の子たちと仲良くなり、
誰かしらの家や近所のショッピングモールに集合して遊ぶことが増えた。

それはそれで、楽しかった。

ただ、帰り際に陸上部の仲間達がストレッチをしたり、走っていたりするのを
横目に見て帰るのがしんどかった

チクチクと感じる視線。

見ないフリをして帰った。


周りの友達は私に、
よく親のことや家のこと
友達のことを愚痴ってきた。

私からすれば全て些細なことで、
でも当の本人達は本気で頭を悩ませてて

そんなことで、悩んで、
くだらない。

そんな風に思っていた。
思っていたけれど空気を読んで
寄り添うような言葉を掛けていた。

私だって悩みを打ち明けたかった。
でも、言ったところでどうなるか
たかが知れてる。

自分より経験値が低い人に話して何になる。

ここで、言ったとて
不幸話の大きい・小さいの自慢になるのが
嫌だった。

だから、私は友達には何も言わなかった。

運動することが好きで、
みんなを引っ張っていくのが好きで
体育委員に毎年なっていた。

みんなであれこれ意見を
擦り合わせつつ、勝つことが楽しかった。


中学3年生の時、私に初めて彼氏が出来た。
相手は陸上部のエース。全国大会にも出場するような。

何回か、彼の母親が
「どうして○○(私)は大会の時に応援しに来ないの?」
と言っていたのは聞いていた。

でも、行けなかった。
行ったらみんな居ることが分かっているから。
そんなのに耐えられなかった。


中学生の頃の私は、いつも眠る前に
居もしない神様に祈った。
クリスチャンな私だけど。
いやがおうなしに強制的にされたクリスチャンなのだけど。

“どうか、明日になったら今までの記憶がなくなってますように”

そう願い、枕を濡らしながら眠った。


中学校で貰ってくる、
保護者に見せて印鑑を押してもらうような書類は、
最初は噛み砕いてフィリピン人の母親にも分かるように説明していた。

分からない単語はパソコンを使って自分で調べて、その上でやっていた。


でも。それでも、そもそもの日本の学校のシステムを知らない母親に説明するのはとても難しかった。

「なんで、そうなの?」
そこから話が始まるから。
面倒臭かった。

だから、ぜんぶ、全部。
自分で分からないところはパソコンで調べて
自分が理解した上で勝手にサインして
印鑑を押して提出するようになっていった。


相変わらず母からの
暴力や言葉での責め立てはあった。
私は何も感じないように努めて、
感情を殺した。
でも、さすがに頬を叩かれると
生理的に涙は出てくる。

いつしか、あまり痛みを感じないようにまでいった。
完全に、私は解離していた。

考えは巡ってるんだ。
こう、言ってやりたいのにっていう感情は
あるんだ。

でも、それを伝えたところで
更に罵声を浴びせられることも、
手を出されることも経験してきたから

ぐっ、と飲み込むと
自然に涙になって溢れだすんだ。

母は、それを
「あなたが泣いているのは傷付いてるからじゃない、弱いからだ」

そう、言った。

私はその場ではとにかく何も感じないように
何も考えないように努めた。
感情に蓋をして。
心のコップから溢れると生理的に涙が出るんだ。


そして、後で吐き出す。
とにかく紙に書いて吐き出す。



何度も包丁を手にして手首にて当てたり
母に向けようと持ってみたり
ハサミを自分の

手首に当てたこともあった

でも、痛いのも血が出るのも嫌な私が
切れたのは左手の人差し指だけだった。

ただ痛いだけだったから、やめた。


ノートにはひたすらにその時々の感情が綴られていった。


私の家は家計は父が持っていたので、
父の休みの土日に、週一回まとめて食材等を買いにいくことが、私に強制された。

母は一度もそれに来れた事はない。
母が買って欲しいものを聞いておき、
さらっとカゴの中にいれる。

そして、荷物を運ぶのも私の役目。

駐車場から家までわりと距離があり
往復して運ぶこともあった。
否が応でも筋力がついた。

その時についた腕力と握力は今でもある。

また、父親のワイシャツをクリーニングに出したのを
店までよく取りに行かされたり、アイロンがけをさせられた。
お金をちらつかせて。

私の家ではお小遣いが親からもらえなかった。
やるしかないし、拒否したらしたで、
殴られる。

何故私にばっかり、頼るんだろう。

何故、母にはお願いしなからって
私がやらなきゃいけないの?
兄弟もいるのに、なんで私ばっかりなの?


父にいい顔をする私を見た母は、
私に手をあげることもあった

「離婚したら父親の方に行けば。」


違うのに。
こうしないと生活出来ないから
私はそうしているだけなのに。

嫉妬も甚だ見当違いだ。



母はこんな事も言ってきた。

「子どもさえ居なきゃ、すぐ離婚できるのに」
「あなたは父親にそっくりだ。」
「あんたなんか産むんじゃなかった」
「ねぇ、離婚して良いと思う?」
「離婚したらどっちにつく?」
「弟は絶対に私が連れて行く。」


父は父で、
「お前はあのババアそっくりだな。」
「俺にはお前しか居ない」


全部。ぜんぶ
私に向かって吐き出された言葉。

ずっと、忘れられない
未だに纏まりついて離れない、言葉。




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