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ちびすけ。2️⃣

高校受験からのお話。


私は別に親に勉強しろと言われたことは無かった。
宿題についても何も言われなかった。

全部、自分でどうにかしてきた。

母に聞いたって、分からないから。

でも、英語だけに関してはうるさく母に言われた。
日常生活の中で、
度々、母は私に英語で話しかけてくる。

私は意味は分かるけど、日本語で返していた。

すると、「英語で返しなさい。」
と怒られる。

私は、小さいときから、無理矢理椅子に座らされ
母が英語の教材を開いては、
教育まがいな事を受けてきた。

私が、どれだけ嫌がっても。

英語の教材CDもうんざりするほど
聞かされ続けた。

だから、英語だけは、嫌い。


そのくせ。
母は
「日本人は嫌いだ。」
「日本語も嫌いだ。」

と言い、
私がバラエティーのテレビを見ていると
強制的に消す。




私は、自分で決めた
行きたい高校に決めて進学した。
かなり倍率の高い人気な高校だった。

周りの友達は塾に通ったりしていたけれど、
そんなお金もない家なので
私は自力で勉強をして合格を勝ち獲った。

自分でも誇らしく思う。
でも、親に褒められたことは無かった。

願書も、合格の発表を見に行くのも、
入学の手続きも、
制服の採寸も全て1人でやった。
周りの子はお母さん等の保護者が同伴していた。

偶然、中学の友達が母親と来ていて、
見かねたその母親が私もまとめて付き添ってくれた。


入学したての私は、人見知りと人間不信から
周りを遠ざけるような態度を無意識にとっていた。

後々、近くの席の男の子がこういじってきた。
「ポケットに手を突っ込んで、踏ん反り返っていて怖かった。」
と。

そう言われるまで気付かなかった。

1週間くらいは1人で自分の席で昼食を食べていた。見かねた近くの席の男の子が会話に混ぜてくれた。

その間に、どんどんグループを作っていく女子達。

それでも、私を迎え入れてくれたグループがあった。
校外学習でグループを作らなければならない時にあるグループが手招きしてくれた。

それからは何となくそのグループに居た。


部活は陸上部に入ろうかと思い、体験入部したけれど
空気が合わず、規模も少なく
入部したいと思えなかった。

何にも属さずに居たら、
一番仲良くしている友達が入っている
女子ソフトボール部の先輩が勧誘しに来た。

一度、考えて
高校ではゆくゆくはバイトを始めたいと思っていたので
断ろうと思っていた。

でも、バイトしていても
毎日部活に来れなくても良いから入ってくれないか

とあり、とりあえずマネージャーとして入部した。

最初の高校1年生の間は部活と勉強に専念した。
私は特に現代文と古文が好きで、得意だった。

マネージャーとして、
スコアの書き方を覚えたり
スポーツドリンクを先に作って
場所をセッティングしたり
近くの河川敷にあるグラウンドを予約したり
監督の先生にボール渡しをしたり
ボールを拾ったり

それは、それで充実していた。




私は高校生活中に初めて痴漢に遭った。
それも、野外で。

その時の私は最寄り駅から
イヤホンを両耳につけて歩いていた。
まだ夕方の16時で明るかったから油断していた。

実家の団地の敷地内に入り、
階段を登るところで私は
イヤホンを外した。

そこで、後ろから敷地内に入ってくる男性の姿を確認した。
住み始めてから、見かけたことのない男性だった。

でも、私はもう階段を登り始めている。
家は4階。階段は1つしかない。

私は階段を駆け上った。
すると男性も同じく階段を駆け上ってきた。

先に私が家の目の前について、
でも鍵がすぐに出てこなくて。

私はその男性に自分の住んでいる家のドアに
そのまま叩きつけられた
そして、私の身体をまさぐって愉しんだ後に、
走って逃げていった。

涙が止まらなかった。
そのまま大号泣で家に入ると流石に母親もびっくりしていて事情を説明した。
そのまま、最寄り駅まで行き交番に行った。

「その場で警察を呼んでください」
と警官に半ば呆れられた。

とりあえず、周囲のパトロールをしてくれるとのことだった。

それからの私は、最寄り駅に着いて降りたら
イヤホンを外し、3分に一回は後ろを振り返るようにしていた。
気付けば、周囲を威嚇、牽制するような目つきをして
辺りを見回すようになった。

それでもやっぱり怖かったから、
家から一番近い信号まで弟に来てもらい
一緒に帰ってもらった。

そのうち、弟は面倒くさがって
来てくれなくなった。




母親は前もって部屋探しをしていた。
兄と父と母で、いざこざが絶えなかったから。

私は強制的にそれに付き合わされていた。

理由は、
母は難しい日本語が分からないから。

保証人のシステムや不動産の賃貸の契約にあたり難しい単語がたくさんあり、それを私がかみ砕いての母親への説明を、
母は私に。求めた。

そして母親はとりあえず賃貸を契約の手続きを始めた。


私は、その頃に、これから先に起こるだろう出来事を予測して
中学から付き合ってきた男性とお別れすることを選択した。

巻き込みたくないというより、
余計な感情を持って行きたくなかった。

これから起こるであろうことに、
彼に対して構っていられるほどではないだろうと思った。

2年半付き合っていた彼とはそうして別れた。




ーーそんな、高校2年生に進級した年

ある日の部活終わり。
着替えを終えて携帯を見てみると、
母親から大量の不在着信が入っていた。

部室を出て私は折り返し電話を掛けた。

すると。

母親から
「兄から包丁を投げられた。怖いから今夜出ていく。」
そう、突然に言われた。


私は呆然とし、同時に呆れた。

‘‘母親が包丁を持ち出して喧嘩をしていたのはよく見ているから知っているし、それを見てきた子どもが同じような行動に出ることは自然なことじゃん‘‘

そう思った。

また、あの時と同じか。
家に帰るのが嫌だった。

前々からずっと母親は離婚の話を
事あるごとに私に相談してきた。

痺れを切らした私は、
‘‘だったらさっさと離婚すれば良いじゃん。‘‘

何度も何度も。
相談される度に私はそう言った。

どれだけ酷な相談をしているのか
まるで分かっていない。

挙句の果てには、
兄をあの父のもとに置き去りにして
弟は絶対に連れていく。
と、母は言った。

その上で。母は、私にこう聞くんだ。
「あなたはどっちにつく?」

その時の私の心情を誰が分かってくれようか。
いや、分かられて堪るか。


私は正直、どちらにも着いて行きたくなかった。
もう、1人が良かった。

でも、私が離婚を勧めたことと、
まだ守れる弟を守らねば、という思い
それだけの思いで母に着いて行った。

ーー結果的に言うと、私は弟を守り切れなかった。
何も成しえられられなかった私だった。


飼っているインコを連れていくのにあたり、
私の大好きな自分のアルバムは持って行くことが出来なかった。

後に、そのことをすごく後悔することになる。


とりあえず、契約した部屋に入れるまでは
母親の友人宅に避難した。
荷物を持って行くのに、3往復くらい
歩いて荷物を運び出した。


そして、部屋に入れるようになってから
母の友人の旦那さんに協力してもらい、
車を出してもらい、荷物を移動させた。

新しい家は、間取りが珍しく、アパートではあるが
中に入ると一階にリビングやキッチンがあり、
階段を登るとフリースペースが間にあり、
それを挟むように一部屋ずつあった。

共用部分に面する2階の部屋には窓がついていた。
その部屋は母と弟が使うことになり、
私は逆側の部屋に入ることになり、1人部屋になった。


ーー家へ引っ越しを終えてから
ずっと入ってきていて、でも出られなかった父からの着信に出た。

すると、
「お前は恩すら言わずに出ていくのか。」

そう言われて切られた。
何も言葉を発せず、冷や汗をかいたぐらいしか
記憶がない。多分その記憶には蓋をしている。


家が変わったことで、学校への行き方も
使う路線も変わった。

後から知ったのだが、その路線は朝の通勤時間帯に
痴漢が多発する路線だった。

勿論、私は何度も被害にあった。
すし詰め状態で手も何も動かせない。
怖くて何も声が出せない。

そんなことが何回かあった。
何回か被害に遭う内に、

私は自分の中で何かがキレた。

気付くと、私はあの時のように
周囲の威圧、牽制の目。
先に片方の手をお尻の傍に添えた状態で乗車した。

それでも、穢い欲求を満たすために手を出してくる奴は居た。

私は、遠慮なく。
その手を確認したうえで
思いっきりつねるようになっていた。

その時は、まだ警察庁が痴漢対策の為のアプリなんてものは作っていない時で、そもそもスマートフォンの普及もまだ全然進んでいない段階だったから。

自分で己の身を守るしかなかった。
そして私はそれを自分の力で会得した。
そう、せざるを得なかった。

私は、そう成るべくして、こう成った。




引っ越しが完了して落ち着いてから、

しばらくは平穏な生活が出来ていた。

たまに兄がこちらの家に訪れるようになっていた。
どうやら、兄はあの後父のところを出て、
一人暮らしをしているらしかった。

明らかに様子がおかしく、母は兄を精神病院に連れて行こうとしたが、
兄は頑なに行かず、生活保護を利用しながら1人で暮らしていた。


私はバイト探しを始めた。
人見知りで緊張しいで真面目な私は
面接の応募の電話を入れる前に
言う言葉を文字起こしして
それを見ながら電話していた。

最初に応募したのは最寄り駅の近くにある
居酒屋。

そこは電話の折り返しの時点で
募集の定員を満たしたとのことで断られた。

次の候補で決めたのは、とある宅配寿司にて
お寿司を握るキッチンの募集。

電話を掛けて、面接日程を決め、
履歴書というものを初めて100均で購入した。
自分で色々書き方を調べて書いた。
休みの日に制服を着て店舗に向かい、面接を受けた。

事前に予想される質問を考えたり調べたりして、
自分の中で回答を用意した。

つくづく、私は人に自分の考え方や思いを
話すことが苦手なのだ。

そこで、バイトは受かって採用してもらえた。

最初は覚えることだらけ、
周りには大学生からフリーター、同い年の高校生までいる。
キッチンは主に女性ばかりだった。

早速、私の人見知りが発揮された。
でも、手持無沙汰にならないように
先輩に聞いて指示を仰いだりしていた。

一番緊張したのは、お客様からの電話受注の際の対応。
言葉遣いや、声のトーン、
気を付けること、こちらから聞くことを
マニュアルに沿って頭に叩き込んだ。

練習として、営業時間後に休憩室から電話をかけてもらい
模擬練習として何度かやらせてもらった。

最初から上手く出来る人間なんていない。
でも、褒められたり、アドバイスを頂く上で成長していくことがとても。私にとっては嬉しかった。

女性の先輩が怖くて、一々ため息や挙動にビクビクすることもあった。
やはり私はバイトに行く前にお腹を下した。

それでも、辞めなかった。


それを
反面教師として、私が上に立った時に活かした
結果的に6年も勤めた私を褒めてあげたい。
その中での出来事は、またこれから綴っていく流れの中で。




引っ越してから私は部活の人たちや顧問に状況を説明して、
バイトに専念することを伝えた。

母親からそのお金を貸してくれと要求されたこともある。
7万円。
そのお金は返ってくることは無かった。

そのバイトを始めて1年後、私はバイト先で知り合った
11歳年上の男性とお付き合いを始めた。

母親は、離婚の原因の1つとして、
父との10歳の年齢差を挙げていた。

だから、私は付き合っていることを言えなかった。
言いたくなかった。
どう、言われるかなんて分かっていたから。

私はバイトに明け暮れた。
たまに部活に顔を出す。

多いときは14連勤とか平気でやっていた。
私にはお金が必要だった。

大学に行きたかったし、
お小遣いも貰えていなかったから
全て自分でやるしかなかった。

彼とは何度か出かけたり、退勤後に食事に行ったりしていた。


ーーそして高校3年生の夏休みがあと1週間程で終わる頃。

バイトを終えて私は彼と軽く食事に行った。


母は、何度も帰りが遅くなる私の事を怪しいと思ったのか、
母は私の部屋をくまなく漁り、
引き出しの奥にしまってあった1枚の写真を見つけたのだ。

私が大事にしまっておいた写真は、
私と彼が笑顔で写っているシーパラダイスで撮ってもらった写真だった。

23時頃に帰ってきた私に、
母はその写真を見せながら詰め寄った。
諦めた私は全て肯定した。付き合っていると。11個歳上だと。

母はヒステリックに叫び始めた。夜中だというのに。
「嘘ついていたのね!?」と。
そして叫びながらも尋ねてきた。
「セックスは?もうしたの!?」と。
それに私は肯定した。

ーー瞬間。

母は更にヒステリックになり叫び、
私にとって大事な写真を握りつぶし、
その辺に投げながら「汚い!!」と私に向かって大声で叫んだ。

そして、床に落ちている服や物を私に投げつけた。殴られた。
椅子も投げつけてきた。

何度も何度も「汚い!汚れている!」と叫びながら。
そして、
「もうあなたのこと見たくない、お父さんのとこに置いて行けば良かった。」

そう言った。
その時、偶然家にいた兄が間に入ってくれたおかげで、
それ以上殴られることは無かった。

後から知ったのだが、キリスト教(カトリック)では結婚する前に男女が交わるのは禁止とされているようであった。
私の母は礼拝にこそ忙しくて行っていなかったが信者であり、
私も洗礼(信者となる事)を受けていた。
だから母は結婚もしていないのにセックスすることを
「汚い。」と言ったのだ。



ーーでもね。ここで可笑しな笑っちゃうような事実があるんだ。

私の母と父は所謂、デキ婚。

正に、自分のことは棚に上げといて、
平気で言葉と実際の暴力を、
振るってくる。


あの時の母が、私をみる
あの眼は忘れられない。
母は自室へと閉じこもり、
私は何度も呼びかけるも、

私の話に聞く耳を持たなかった。
そのうち、
夜中であるにも関わらず‘‘ピンポーン‘‘
とチャイムが鳴った。

母は自室で警察を呼んでいたのだ。
そして母は勝ち誇ったような顔をして警官に尋ねた。
「これは犯罪でしょ?」と。

警察はそれに対してこう返した。
「いえ、犯罪にはなりません。」

母は頭を掻き毟ってその場に座り込んだ。


私もまた、交際している彼に連絡をいれて、
警官を交えての最悪な彼と母の邂逅となった。
その場に居合わせた兄が意外な事に1番冷静でその場を取り持ってくれた。私はほぼ放心状態だった。というか何も感じないようにしていた。

私のいつもの、癖。
母が散々投げて当たったところが、
身体が痛いはずなのに、心の方が痛かった。

その場は兄のおかげで一度おひらきとなったが、
翌日からが1番辛かった。
私の自室には母の洋服などが置いてあり
顔を合わせる度に毎回暴力を振るう。
私には分からないタガログ語(フィリピンの言語)で小言を言ったり、時には私がいないかのように無視をした。

その時私は食事できていたかどうかさえ覚えていない。
母がいない隙を狙ってむさぼり食べていたかもしれない。
ずっと布団の中に潜り込んで隠れていたかった。
流石に堪えた私は
「家を出よう。少し距離をとらなければ駄目だ、しんどい。」と思った。

私は助けを大人に求めた。

求めた先は、母が繋がっていた
主に日本在住のフィリピン人のサポートをするNPO法人

私も連絡先を知っていた。




私は布団に潜り込んだまま母に聞かれないように
電話を掛けて小さな声で事情を話した。
手助けをしてくれるとのことで、日時を合わせた。

私はとりあえずの荷物を詰めて、
近くのマクドナルドで協力者と合流した。

私はとりあえず家を飛び出した。
まずNPO法人の事務所が敷地内にある、

都会の、教会の方が管理している部屋に少し滞在できる事になった。

彼の家に逃げ込む選択肢も私の中にはあったのだが、
大人に諭された。
「それは得策ではない。」と。
更に火種を増やしてしまうかもしれない。
まだ冷静さがあった私は教会の方にお世話になった。

それから、法人内のフィリピン人の方が母を説得し、
間に入って通訳をしてくれながら、
法人の事務所内で何度も話し合いの場が設けられた。

今思うと母子の間に通訳が入るなんて笑える話。


話し合いの最中に母が感情的になってくると、
間に入ってくれている方が
私には分からないタガログ語で話して母をなだめていた。
母もタガログ語を話しながら、時折私を指差す動作が見られた。
私は何を言われているのか分からない事が不安だった。

母との話し合いは難航した。気付けば夏休みが終わっていた。
私は教会で滞在させてもらっている部屋から学校へと通った。
勿論、電車の定期の範囲外。自費で払った。

管理者から「いつまでも教会の部屋には滞在できない。」と言われ、
法人から児童相談所に行って話を聞いてもらい、児童養護施設に入るか、
高校生でも入れるライトハウス
(DVを受けた人などが逃げ込めるシェルターのような所。保証人が居なくても良い。)
で一人暮らしをするかの2択を迫られた。

やはり私は彼と一緒に居たかったのだが、
それを口にすると法人より
「母子の関係のことだから。」と説得され
私はライトハウスに入る事を決めた。

当時の私は児童養護施設に対してよく知らず、
入所すると自由に携帯を使えなくなってしまうのではないか、
と思っていた。
それに、入所したとしても居れるのは高校卒業までだと思っていたのだ。(大体はそうであるが…)

それなら、とライトハウスを選択した。

高校に通いながら、土日を利用して私は都心部にあるライトハウスへ場所を移した。
保証人が不要な分と立地的にも、家賃はそれなりにかかる。月々8万ほど。プラスで水光熱費も自分で支払う。私はライトハウスを出た後でも返済する事を約束し、入居した。(後に大学生の時に全て支払いを終えた。)

学校へ行くのに随分遠くなり、通うのに必死だった。
何より今までのバイトが出来なかった。
たまに金曜の夜に彼の家で寝泊りし
バイトをして日曜にライトハウスに戻る、という生活を送った。

初めての一人暮らしだが、自分のことは全て自分で出来た。
洗濯・掃除は勿論、食費の事も考えて自炊もした。
都心部のスーパーは何処もかしこも何かと物の値段が高かった。

初めて水光熱費をコンビニで支払った時には
「生きるのってこんなにお金がかかるんだ。」と感じ、
大人になった気がした。この経験は今の私を形作っている一つの要因。





気付けば季節は秋になり、冬に差しかかりそうになっていた。
夏休みに家を出た時はまさかそんな長丁場になるとは思っていなかったので、冬物を一切持ってきていなかった。
NPO法人でバザーの売れ残りで何とか長袖は持っていたが、
それだけでは凌げなくなっていった。

私は何とか勇気を出して母に電話し、冬物を取りに行きたい旨を伝えた。
そして指定された日時に私は自分の家に鍵を差し込んだ。

が。ドアチェーンが掛けられていて入れなかった。
母が私が来たのに気づき、少し開いたドアの隙間越しに
何かを言ってきたが、聞こえなかった。

私は一旦ドアを閉めた。

ドアを閉めて、母がドアチェーンを外してくれるかと思いきや、
共用部分に面している2階部分の窓が開いた。

ーーそして。

あろうことか母は2階から共用部分の廊下に向かって、
私の荷物を投げて落としていった。
私は、最初何が行われているのか理解できなかった。


ボトボトと私の物が落ちてくるのを見ながら、
何とも形容しがたい絶望感を感じた。

持っていくのに実家からライトハウスまでかなり距離がある為、
必要最低限のみを厳選したかったのに。
母はほぼ全ての私の荷物を落としていった。

私には家に入る資格さえ与えられなかった。

そして、私はこう感じた。
”私の帰る場所は無くなった“
のだと。

見捨てられた感覚。一番頼りたい保護者からの拒絶。

私は、母との関係修復の先が見えなくなった。



私はとりあえずリュックや袋に無造作に突っ込まれた服たちを
実家の駐車場の隅へ運んだ。
量がありすぎて2回に分けて往復して運んだ。

そして、彼に頼み車で来てもらい、彼の家まで運んでもらった。
そこで私は荷物を厳選し、残りは彼宅へ置いておいてくれることになった。


さすがに私がいつもと逆側のホームから降りて
学校に向かう姿を見られて、友人に聞かれた。

友人たちは絶句していた。
部活の先輩で、卒業して農学部に行った方からは
野菜を送ってくれたこともあった。

ライトハウスの住所は教えられないので、彼の家へ。

幸いなことに、友人応援してくれて
私は周りに恵まれていた。

担任の先生にも事情を説明した。




高校卒業間近頃になって、
やっと母は話し合いの場で前向きになってきた。
私の話を聞いてくれるようになってきた。
私は大学に進学したいが、手続きにあたって必要な書類の中に、
母の印鑑や署名等が必要なものもあり、それも応じてくれるようになった。

私は進学にあたり、入学金30万円など自分では払えなかったので、
免除してもらえるよう、必要な書類と小論文を書き送付した。
それが通り、免除された時にはホッとした。
奨学金の手続きや申請も自分で行った。
母は私の進学にあたりお金を1円も出してはくれなかったし、
私も頼りたくはなかった。


進学前に、私は母の家に仕方なしに戻った。
当時の母の世帯は生活保護を受けていて、
その扶養内にはいると大学に進学することはできないので
世帯分離を行い、私は母の家に居ながら
私は個人で世帯主になった。

家に戻ると、私が大事にしていた
インコ達が居なくなっていて
空のゲージがベランダに置いてあった。

母に理由を尋ねると、
弟が羽毛でアレルギーが出ていることと、

「あの子たちだって、狭いところより自然の広いところの方が良いでしょう?」


何を、
何を言っているんだこの人は。

自然に逃すことが
飼い鳥だったあの子たちにとって
どうなることか。
分かってないのか?
分かっててやっているのか?

私は、発症したような、気がする。
でもその記憶にも蓋がされている。


—高校の卒業式。
私はそんな頭もなく、当たり前かのように
卒業式の日程を母親に伝えなかった。

式を終えた数日後、気づいた母に怒られた。

私としては、そんな時だけ出席して
変に母親面なんてしてほしくなかった。

それは言えなかったので、
‘‘あー、ごめんごめん。忘れてたわ‘‘
とのみ伝えた。

そうして、私は高校を卒業した。







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