見出し画像

手をつなぐ二人の距離は 第2話


「おはよう、朝だよ。よく眠れた?」

 次の日の朝一番に見たものは、制服を着た那由の、どアップだった。
 那由はベッドの横に立って、僕の顔をのぞき込んでいた。僕は内心の動揺を悟られないように、ゆっくりと体を起こした。
「……起こしに来てくれるのは嬉しいけど、できれば勝手に僕の部屋に入るのはやめてほしい」
「なんで?」
「なんでって……。プライバシーってもんがあるだろ?」
「でも、私は晴ちゃんの保護者だもん」
 僕が我慢をするしかない、という事だ。

 朝ご飯は、母さんが作ってくれていた。トーストとオムレツ、かりかりベーコン、そしてキャベツと人参のコールスローを、紅茶で流し込むように食べた。
 薬も飲んでおく。忌々しいけど、今はこれが命綱だ。
 自分の分の食器を流しの洗い桶につけて、洗面所に向かった。那由がまだ朝食を食べ終えないうちに歯と顔を洗う。共同生活における、僕なりの気づかいだ。
「ごちそうさまー、美味しかったです!」
 那由の声が聞こえてきた。タイミングは狙い通り。洗面所に来た那由と入れ違って、僕も制服に着替える。
 それぞれ身支度と片付けが終わったのは八時五分。学校に行くにはいい時間だ。
「行ってきまーす」
 母さんに挨拶をして家を出た。僕の鞄は学校に置いてきてしまったから、今日はサブバックに教科書やらなにやら入れて登校する事になる。

 外にでて、マフラーでもしてくれば良かったと軽く後悔した。昨日の暖かい陽射しとはうって変わって、吹き付ける風が冷たい。ちょっと耳の奥が痛くなる。一方那由は山の子のせいか、平気な顔だ。
 さすがに今日からは、「ちゃんと自分で歩けるから」と手つなぎ登校を断った。那由は僕の横に並び、なぜかニコニコしている。
「晴ちゃん、今日、おばさんが作ってくれた弁当のおかず、何だったと思う? 私、びっくりしちゃった」
「ヒント頂戴。『凝ったもの』とか、『高級なもの』とか」
「シンプルな高級食材だよ」
「わかった、牛焼き肉弁当?」
「惜しい! 正解は牛ステーキ弁当でした!」
 肉、ご飯、以上か。母さんの弁当は美味しいが、豪快だ。
「それが一番じゃない? シンプル・イズ・ベスト。でも、夕飯は晴ちゃんの繊細なメニューが良いな」
 何がいいだろう、と那由は考え始めた。
「朝から、もう夕飯の心配?」
「うん、美味しいご飯に感謝してます」
 学校に近づくにつれて、歩く生徒の数が増えてきた。相変わらず胸の動悸は収まらない。早く今朝の薬が効いてくれる事を祈りつつ、那由との会話に集中した。極力周りを見ないようにするためだ。幸い、僕らに話しかけてくるような物好きはいなかった。
 校舎に入ってからも、廊下の隅で立ち話を続けた。ギリギリまで、飯山たちのいる教室には入りたくなかった。
 始業の予鈴が鳴った。
「じゃ、また来るね」
 那由はそう言って、自分の教室に向かった。ちょうど先生が朝礼に来たので、僕も教室に入り、席に座った。
 驚いた事に、僕の鞄は昨日のまま、机の横にかかっていた。中を確かめてみても、ちゃんと筆箱も入っているし、中に異物を混入された形跡もない。僕の自意識過剰だったかもしれない。飯山も、昨日のようにこちらにちょっかいを出してくる事もなかった。ちょっと違和感を感じつつも、表面上は何事もなく復学生活二日目が始まった。

 一時間目が終わると、教室の前、つまり僕が座っている前から二番目の席に(ちなみに一番前は、相羽さんという女の子だ)一番近い扉から那由が顔を出して、「晴ちゃん」と教室中に聞こえるような声を上げて、僕を呼んだ。
 クラスメイトは、そんな那由を見て見ぬふりしている。 あえて僕は「どうしたの」と、那由と同じように大きな声を上げて、廊下に出た。
「どうしたのって、放課だから来たんだけど」
 放課、とは愛知県の方言らしい。『らしい』というのは、僕たちは方言だと意識してないからだが……一般的には休み時間の事だ。
「次の放課も見に来るよ、私」
「それは遠慮してくれないか。三時間目は体育だから、着替え中だよ」
「そっか。じゃ、次はお昼休みね。お弁当、一緒に食べよう」
「一緒にって、どこで?」
「晴ちゃんの教室でいい?」
「いい訳ないよ!」僕は即答した。
「あ、だめ? じゃ、どこが良いかなあ」
 那由は、どこまで本気なんだろうか。
「じゃ、お昼までに考えておくよ」
 そう言って那由は、教室に戻っていった。

 その三時間目の体育でのことだ。
 今日の課題は苦手な器械体操、それもマット運動での側転だった。
 先生が見本を見せた後、クラスメイトが一人ずつ挑戦する事になった。成功した奴には「おおーっ」という歓声、失敗には「ギャハハハ」と笑い声が上がる中、僕の番が来た。
 できる訳がない。また飯山なんかにからかわれるんだろうな、と思いながら、マットの前に出た。
 案の定、失敗した。側転どころか、手をついて四つんばいの形に跳ねただけ、というみっともない物になった。
 しかし、皆はノー・リアクション。僕と視線すら合わせないままだった。
 次の番の奴が前に出て、綺麗な横回転に喝采をもらった。そのにぎやかさが胸に刺さった。そういう事か。その時になって初めて、クラスの中で、自分がどう扱われているのか、はっきりと気が付いた。

 どうやら昨日のうちに、クラスメイトにこんな情報が流れたらしい。
「明石はうつ病だから、下手に関わって自殺されたら、大迷惑。無視するのが一番」
 きっと飯山が、名星中の友達とやらから聞いたのだろう。しかし、そんなことはどっちでも良い。
 みんな、この手の情報には敏感だ。僕がどうとか、そんなコンテンツの内容よりも、「情報が回ってくる、情報を共有している」ということが大事なのだ。「情報を知らない奴は『ぼっち』」、つまり、仲間ではない人間だから。
 みんな、『ぼっち』になることを最も恐れている。そして、そうならないための努力を、勉強と同じくらいの熱心さで続けている。当たり前の事のように。

 たかが無視だ。物理的にいじめられるより、よっぽどましだと自分に言い聞かせてみるが、体は正直に反応する。動悸が激しくなり、息が苦しい。ただ立って待っているだけの時間が、つらい。そしてこういう時、神様は時間の流れを遅くするのだ。
 次の国語の時間になっても、動悸は収まらなかった。体の不調につられるように、不安がわき上がってくる。教科書をめくると、夏目漱石の「草枕」が収録されているのに目がとまった。
「とかくに人の世は住みにくい」その有名な一文に僕の気持ちが代弁されているような気がして、授業も聞かず読み進んだ。不安になったときは目の前の事に集中するといい。僕の主治医の先生が教えてくれた対処法の一つだ。
 四限目終了のチャイムが鳴り終わった直後、
「晴ちゃん、お弁当持ってきて」と声がした。
 僕に向けられた声を聞いたのは二時間ぶりだ。那由が、戸口から顔を出して微笑んでいる。
「ママのお迎えかよ」
 そう聞こえよがしにつぶやく飯山の声を無視しつつ、僕はサブバッグの中から弁当袋をつかみ、立ち上がった。
 那由はそんなことも意に介さず、
「校庭に降りていく階段がいいと思うんだよねー。あ、でも、雨が降ったらどうしようかなあ」
とか言いつつ、のんきに歩いて行く。

 家に帰れば、家庭学習の時間だ。
 学校に行けなかったあいだ、僕はほとんど通信教育だけで勉強していた。
 母さんは家庭教師を薦めてくれたが、断った。気心の知れない人と一対一で数時間を過ごすのは、考えただけで恐ろしかったのだ。中学一年生の時の挫折で、僕はすっかり対人恐怖症に陥っていた。
 一方那由も、偶然同じ通信教育を受けていた。那由曰く、「村に塾はないし、寮では時間はいくらでもあるし」だそうだ。
 同じテキストをやってるなら一緒に助け合おうよ、と言いだしたのは、那由だ。確かにその方が能率は良いだろう。でも、一緒にと言っても、どちらかの個室で二人きり……というのはあり得ない。そんな訳で、僕たちはリビングで課題を広げるのが習慣になった。
「いやー! 楽しいねえ、数学!」
「特に楽しくはないけど…… 那由、この③番、これってわかる?」
「えーっと、三角形ABCと、その中の小さい三角形DBFの面積比、だよね」
 母さんが大学で理系の先生をやっているのにもかかわらず、僕は数学が苦手だ。問題文に指示されたとおりの図形をノートに書いてみたつもりだが、そこからどうやったら正解にたどり着けるのか、まるで見当がつかない。
 那由は、僕の書いた図形を、手に持ったシャープペンでなぞった。
「Dは辺AB上、EはAC上の点。CからDに、BからEに線が引かれて、交点がF、と。ABとBD、ACとCEの長さの比だけ書かれてて、肝心のCFとDFの比が書いてないのよね。だから、この出し方がこの問題のポイント、ということかな」
 一人でテキストを解いていたときは、メールで通信教育の本部に質問をしていた。それでもわからないときは母さんに訊いていたが、母さんは教え方があまりうまくない。
 那由は、「D」と僕が書いた点をシャープペンで指した。
「まずDはAB上の点だから、ABCと、底辺が共通なDBCの面積比は、なーんだ?」
「そこまでは何とかわかるよ。底辺が共通な三角形の面積比は、高さの比に等しくなる、だよね? だからABとBDの比と同じ」
「それそれ! 同じように、DBCはDBFと一辺が同じだから、CDとFDの比が分かれば勝ったも同然」
  那由は、僕がうなってしまうような問題でもすらすら解いていく。一緒に勉強するようになってから、正直驚いた。村の中学ではダントツの一番だったと聞いていたが、村と街ではレベルが違うと、僕は勝手に思いこんでいたのだ。だから助け合うどころか、僕が那由に一方的に教わるばかりになってしまった。
「CDとFDの比っていっても、手がかりがないな……」
「こういう時は、補助線として平行線を引いてみるといいよ。そうすると見えてくるから」
「え、どこに?」
「ほら、こうやって、Dから、BEに平行な……」
 那由が一本の線を書き加えると、魔法のようにAB:BDを元にしたもう一つの比がAEの間に現れた。そこから跳ね返るようにして、求めたい比は簡単に計算できる。
「おー」
「メネラウスの定理でも良いんだけど、こっちのほうが、公式を丸暗記しなくても使えるから好きなんだ。やっぱり平行線って、いいよね!」
 那由はにこにこしている。いや、その定理は知らないし、平行線の良さも僕には分からないけれど。でも那由は楽しそうに問題を解いて、その楽しさを僕と共有しようとしてくれる。
「数学の問題はね、ヒントは必ず全部書いてあるんだから。あとはそれを組み合わせるだけだよ。一緒にがんばろうね」

 そうこうしているうちに、夕方が近づいてきた。
「晴ちゃん、そろそろお腹すかない? ご飯作ってよ」
 もうそんな時間か。勉強用具の片付けもそこそこに、那由にせき立てられるようにしてキッチンに向かった。
 那由は冷蔵庫の中から、玉ねぎ、人参、ジャガイモ、豚コマを取り出し、テーブルの上に並べ始めた。
「さて、問題です。この食材を使って、私の喜ぶメニューを考えてください」
なんてのたまっている。
 那由の気持ちは分かっている。でも、料理ともなれば僕のフィールドだ。勉強での劣等感もあって、少し意地悪をすることにした。
「えー、那由先生、問題の立て方に疑問があります。本当に、この材料だけでよろしいのでしょうか。他にも冷蔵庫の中には有用な食材がありますよ。このままではただのカレーになってしまいます」
「私はそれでオッケーです」
「僕はオッケーではありません。昼がステーキ弁当だった、という既存の条件から考えて、まだまだ野菜が不足しています。」
 僕は冷蔵庫からゴボウと小松菜を出した。「例えばゴボウには繊維質、小松菜にはカルシウムやカロテンが多く含まれています。食べない手はありません。あと、何でもカレーにすれば何とかなる、というのも短絡的過ぎます」
「では、どうすればいいんですか」那由は、ぷっとふくれた。
 話し合いの結果、野菜たっぷりの豚汁に、冷凍してあったカレイの干物というメニューになった。
「ふむ、『カレー』から『カレイ』、華麗なる転身、なんちゃって」
「何かしょうもないこと言っているし」
 僕がつっこむと、那由はニッ、と笑った。ご機嫌は、直りつつあるようだ。

 豚汁の大鍋にこうじ味噌をとき始めた時、外から母さんのジムニーのエンジン音が聞こえてきた。軽自動車だけれど、ターボ車だからか中古車だからか、異常にエンジン音がうるさい。
「タイミングばっちりだ! 私、お出迎えしてくる!」
 いつものように僕の後ろでちょこまかしていた那由が、キッチンから小走りで出て行った。ぱたぱたという足音が、遠ざかっていく。その音を聞きながら、予熱しておいたガスレンジにカレイを並べ、豚汁用のネギを小口切りにした。冷蔵庫から漬け物も出しておこう。
「おかえりなさい、おばさん、お疲れ様! お夕飯は寒い日にぴったりの豚汁ですよ、早く食べましょう!」
 あんなにぶつぶつ言ってたのに。僕は苦笑する。
 那由は、どんぶりによそった豚汁を、二杯もおかわりしてくれた。 

 こんな調子で、僕と那由の、新しい学校で過ごす最初の週は過ぎていった。 相変わらずクラスメイトからは空気扱いされているけれど、僕にとって一週間に一日も休むことなく学校に通えたのは、中学一年の二学期以降、初めてだ。
 交換日記も続いている。

四月七日(火)
 やっぱり男女で一緒にいると、なんだかんだ問題があるのかな。僕たちがいとこだって知ってるクラスメイトや先生は、ほとんどいないけどね。そこまで関心を持たれていない、とか考えるのは、自虐的に過ぎるか。

 初日記、とりあえず思いつくまま書いてみた。返事よろしく。

四月八日(水)
 はいはい、晴ちゃん、お疲れ様。
 いやー、今日は暖かくて嬉しかったねえ!
  今も「THE・春の宵」って感じで、窓を開けていても気持ちいいし。ハナミズキも、もうすぐ咲くよね。私、あの花好き!
 ……まあ正確には、花に見えるところは花じゃないらしいんだけど。

 晴ちゃんはいろいろ気にしすぎなんだよ。手芸とか、それだけに集中できる趣味を持ったらいいかもね。最初はかぎ針とかどう? アクリルたわしなら実用的だし。あ、それか、台所で使えるように作ってあげようか?

 クラスメイトの事は、どうだっていいじゃん。何言われたって、関わってこないなら関係ないない♪

四月九日(木)
 あったかくなってきたね。ハナミズキって、僕は知らないや。
 とにかく、目の前の事に集中する事。嫌いな授業でも、苦手な体育でも、全力で。
 那由の集中力がヒントになった。集中していると気にならないね、クラスの空気。今まで余計な事、考えないように考えないようにしてたんだけど、逆だったんだな。

四月十日(金)
 集中するって楽しいもんねー♪ 私も、編み物や難しい問題に集中するの好きだよ。ぐわーって、なんか頭から出てるような気がする。
 徒然草だったかな、「あやしうこそものくるおしけれ」って、きっとああいう境地だよね。しらんけど。(しらんのかい)
 さてさて、明日から、土日だ! 2日間学校がお休み。この間まで春休みだったけど、やっぱり「週末」ってなんか特別な感じがする。
 いっぱい遊ぼうねっ!

「いっぱい遊ぼうね、か」
 僕は、書かれたばかりであろう、今日の那由の日記を読み終えた。当の那由は、にこにこと僕の前に立っている。
 これまでは、その日の日記を書いたら相手の部屋に持って行き、渡された方は次の日までに読んで返事を書いておく、という形が、初日以来何となく決まっていた。しかし今日は、ここですぐに読んでくれ、と那由が僕に頼んできたのだ。
「そういうこと! だからしっかり休んでおいて!」そう言って那由は、自分の部屋に戻っていった。

 『休んでおいて』と言われるとかえってプレッシャーになって休めない、というのが、僕の性分なんだけど。

(続く)


次の話はこちらです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?