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昔のWワーク

あけましておめでとうございます。拙い文章ですが、筑前國続風土記を中心にぼちぼちやっていきますので、今年もよろしくお願いします。

少しでも生活を楽にと昨今は副業も珍しくなくなってきました。今回は筑前國続風土記に記載されている副業と善行の様子を紹介します。

筑前國続風土記 巻之十八 糟屋かすや郡 表 尾仲村おなかむらより (意訳)

この村は、昔、太宰府天満宮の神領だったといいます。
老松大明神の社があります。昔は大社で、3箇所に鳥居、反橋そりはし、直橋などがあったそうです。毎年9月29日の祭礼には、神輿みこしが仮殿に渡ります。猿楽さるがく流鏑馬やぶさめなども執り行われたそうです。神領も多かったそうです。この村の境内に大麻の池という大池がありました。とても水深が深かったようです。旱魃かんばつにも水が枯れず、この下の敷村の田に水を供給していました。

この村に近年、九郎左衛門くろうざえもんという農夫がいました。その父は太郎左衛門たろうざえもんといい、この人もこの村の農夫でした。九郎左衛門は、元和げんな4年(西暦1619年)戌午つちのえうまの年に生まれました。幼い時、博多の魚商人の養子となりました。
養父が早くに亡くなった後、元の父の家で商人となり、いろいろな村や港にいろんな物を持って行って売り、また、(農夫として)耕作も勤めました。

いつも倹約して家業もよく勤めた上、雑穀を食べて、米を食べませんでした。衣服も極めて質素で古い綿布鹿布を着ていました。
いろんな贅沢への興味も極めて薄いようです。自分の村やほかの村に米や銀を貸し置いて、年末に簡単に返すことができる者には、しきりに催促し、元利共に返済させました。しかしその者がまた借金を申し込んできたら貸していました。
困窮している者には催促をせず、(債権を)捨て施しました。先年、寅の年が凶年だったため、自分の村や他の村で飢えた人に、もみを30俵余りを与えて救いました。道を通ると、五穀の落穂おちぼがあれば、溝をへだてて泥の深いところにあるのも拾い集めて置いて、貧しい人に与えました。
また、目の不自由な人が夕方、宿を借りることができず困っている人に道で会えば、我が家に連れて帰って宿を貸し、食べる物を与えました。唄を聞くためではありませんでした。
普段は財産を使いませんでした。無用なことに1銭も使いませんでした。

先年、お参りして歌仙かせん(歌仙の和歌と絵が描かれた板?)を数多く調達してきた時、尾仲村や外の所々の社にかけましたが、自分の名前を書きませんでした。社の人にも告げず、こっそりかけました。お参りの時、大神楽かぐらの費用を納め、末社にも銀を多く納めました。

高野山に登り、実父母、養父母のために太陽を拝む施しを行い、また、親戚十人ぐらいの為に、月を拝む施しを行い、銀を多く納めました。山を下りた後、他の人に向かって最後までこの事を語りませんでした。後に、高野山より来た使いの僧侶が、そのことを村民に告げました。
博多石堂の選擇寺せんちゃくじは、養父母の墓がある寺です。かの寺を造営の後、天井を張り、畳を敷き、仏具などいろいろ寄進する旨を住職に告げて後、それらの品々の代銀を施したが、自分の名前を告げなかったため、住職は誰とも知りませんでした。衣服なども極めて下品で見苦しかったので、不審に思いましたが、後日にそれらを行った者の名を知りました。養父母の為という事を、人に向かって少しも噂にしないので、誰も知りません。後日に、人は自然とこれを知りました。
すなわち、(糟屋)郡中の諸々の村の寺社に、財産を使って寄付していることが多いのでした。

年々、衣服も作って置いていますが、自分自身にはいつも古い破れた服を着ていました。家が貧しく、衣服がとぼしい者がいれば、秋冬は取り出して貸しました。春に暖かくなって返却してもらい、洗濯をして、また秋冬用として使いました。その中でも、とても貧しく衣服がない者がいれば、そのままに与えて、返却させませんでした。

篠栗ささぐり(現在の糟屋郡篠栗町)へ通る大きな道、または村中の道にも水たまりができて、往来の人が困っているのを見ては、人が知らないうちに飛び石を据え置いて、ところによっては古い板を渡して置きました。
そのほかこのように人を救って助けている事がとても多いのですが、善事を行って、今まで人に告げることがない人なので、詳しくは知られていません。

元禄げんろく4、5年(西暦1691年前後)の頃、正月26日、大風が吹いて尾仲村の甚九郎じんくろう三七さんしち?という二人が家を壊され、困っているのを見て、米を1俵ずつ与えました。堅粕かたかす村(現在の福岡市博多区堅粕)庄屋の農民の家も倒れてしまったので、米を送りました。
一通りの貧窮している者に米を少しずつほどこし与える事は、年々多くなっていましたが、自分の善行を語らない人なので、詳しくは知られませんでした。
自分や他の村に年々貸して置いていた銀や米について、近年、凶年なので返却ができないと考え、銀一貫500目、米50俵余をほどこしました。これもまた人に語りませんでした。

元禄9年(西暦1697年)、尾仲村の農民34人、他の村の農民23人、冬の頃に衣服が乏しい者に、綿入の綿入れを1つずつ贈りました。飢えた者を見ては食べ物を与え、その上銭銀を少しずつほどこしている事は、年々多くなりました。
尾仲村の産土うぶすなの社が造営の時、銀150もんめを奉納しました。

いつも昼夜家業をよく勤め、かつ倹約していたので、財産はとても多く蓄えていました。しかし、実父並びに養父の古い借物や掛け払いなどの負債が多かったので、いろいろなところで借り主売り主を聞き出して、財産を出して残らず償い返しました。その中で既に亡くなっている人がいれば、ゆかりの者を尋ねあて、(金銭)を与えてすべて返しました。

九郎左衛門が、村中の若い人に告げました。耕作の合間、また雨天大雪の時、ことに夜中、外で働くことができないときは、縄を作って集めて置いて、売って少しでもお金を稼ぎましょう。私は若い時よりこのようにしてきました。今は年老いましたので、外で働くことができなくなりましたので、特にいつも縄ばかりを作って、小遣いにすることしかできません。皆さんもこのようにしなければならないです、と言いました。
これを聞いた村中の人たちは、もっともであると考えました。
九郎左衛門はすすめます。老いた人も若い人もともに、空いた時間は縄を作り、博多に縄問屋を決めて置いて売れば、生活の助けとなります。村中で身分の良い百姓を取りまとめるリーダーの子供も、その下の人も同じく、博多や福岡に出てこやしを買って持ち帰り、耕作を丁寧に行いなさい。私も若い時はそのようにしたものです、と語りました。
これを聞いた人々は、九郎左衛門がお金持ちになったのは、そのように精を出したからなのだ、と思いました。

百姓を取りまとめるリーダーの子供を始め、その下の人と同じく博多や福岡に行き、こやしを買って戻り、耕作の肥料としました。九郎左衛門に倣って、そのほかのこともよく働きました。そのため、元禄の中頃より、この村中の百姓は、昔より各家がうるおったようです。

九郎左衛門には息子はおらず、娘が3人いました。婿も3人いましたが、日頃、婿のところにいって饗応きょうおうを受けることは珍しいことでした。見物のためいろんな人が集まっている事が時々ありましたが、このようなところにいって見物することは一切ありませんでした。いつも食を控え、美食をせず、身体を軽くして家業を勤めて怠らなかったので、若い時より元禄11年(西暦1698年)、80余年になるまで、薬を一度も飲まず、無病にて健康でした。2、3里(3~15km)の道は、1日のうちに簡単に往復できました。
この話は、元禄11年、尾仲村庄屋頭百姓の郡吏ぐんりに書き出したところです。
九郎左衛門は元禄14年(西暦1701年)84歳で尾仲村にて病死しました。


人知れず行う善行のことを陰徳といいます。「陰徳陽報いんとくようほう」という言葉があり、陰徳を積むと、必ずはっきりとした良い報いがあるという意味です。
九郎左衛門はまず自分の生活基盤を作り、その後、自分の稼いだお金で支援をしています。決して他人のお金を当てにはしていないのです。


寅の年が凶年について
元和の次は寛永かんえいです。寛永といえば、「寛永の大飢饉だいききん」が有名です。しかし、この飢饉は寛永19年(西暦1642年)で壬午みずのえうまです。
直近の寅の年は寛永15年(西暦1638年)です。島原の乱が収束した年で、この時、九州では牛の疫病が発生しています。農業には牛が必要でしたので、収穫にかなり影響が出たものと思われます。

唄について
この当時、目の不自由な人は、家々を回って唄を謡い、宿に泊めてもらい、金銭や食べ物をもらって生計を立てていました。

縄について
藁で作る縄は昔の人にとってなくてはならないものです。草鞋から草履やロープ等、当時は万能の材料だったのでよく売れました。

尾仲老松神社について
尾仲老松神社の主祭神は菅原道真公です。元は太宰府天満宮の神領で右殿に斎世親王ときよしんのう(宇多天皇うだてんのうの第三皇子)、左殿に三位中将さんみちゅうじょう源英明みなもとのひであき(斎世親王の長男で、道真公の孫)が祭られています。斎世親王も源英明も昌泰しょうたいの変で道真公に連座れんざした二人です。
社説によると上古では生田森いくたのもりと称し鎮座の産土神の神社だったようです。
生田の森といえば、兵庫県神戸市に生田神社があり、その鎮守の森は同じ名前をもっています。たまたま同じ名前だったのか、それとも元は、生田神社と同じ姫神様が祀られていたのか、この神社の縁起書等は失われているため現在は不明です。


用語解説
老松大明神の社…現在の福岡県粕屋郡篠栗町尾仲にある「尾仲老松神社」
反橋…中央が高く、弓状に曲線を描いている橋。 太鼓橋。
直橋…河川に対して直角に横切る橋。
元和…西暦1615年-1624年
元禄…西暦1688年-1704年
1里…距離単位。 1里=36町。 メートル法換算で約3.93km。
郡吏…その郡の農政を預かった役人
選擇寺…福岡市博多区呉服町にある寺
昌泰の変…昌泰4年(西暦901年)、左大臣さだいじん藤原時平ふじわらのときひら讒言ざんげんにより醍醐だいご天皇が右大臣うだいじん菅原道真を大宰府へ左遷させんし、その係累けいるいを左遷または流罪るざいにした事件


2024.01.09 読みにくい漢字等にルビをつけました。

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