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【コラム3】フィレンツェの片隅で その③ 私の初めてのチェロの先生 Laraの想い出


コラム最終回です。

Laraの家は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のある大広場から、3本ほど道を中にはいったところにあって、中心街なのに静かな住宅街にあった。レッスンの時はいつも、アパートの部屋番号が書かれた玄関のボタンを押すと、部屋から鍵をあけてくれて、私は薄暗い、木のらせん状の階段を上っていった。レッスンに行くときは必ず緊張していた。

このフィレンツェ滞在中に、Laraが、フィレンツェの大広場で、弦楽四重奏を弾く演奏会があって、聴きにでかけた。こんな仕事ができていいな、と私は漠然と考えていた。

最後のレッスンの時、Laraが、イタリアの音楽で、クラシックのみならず、ポップスなど、聴いたらいい音楽家の名前をあげてくれた。ズッケロなどはLaraのおかげでその存在を知ったのである。最後の日は、写真を撮って、今も私のアルバムの中にある。

その最後のレッスンから、2010年にアメリカ人のシャロンに出会うまで、約8年間、私はチェロのことを思い出すこともなく、もうきっと弾くこともないだろうと思っていた。Laraが選んでくれたチェロも、いずれは処分するのかな、とおぼろげに考えていて、実家の母親が私が帰国したたびに『あれ、どうするん?』と訊いてくるのを少し負担に思っていた。

しかし、2010年に、私のチェロへの情熱が再燃し、それから毎日欠かさず練習することになり、実家にあったチェロも、ついに、日の目をみて、実家から、遠く海をわたり、私と一緒に赤道直下のアフリカに旅することになった。

Laraとは、2002年にお別れしてから、たまーにメールでやり取りをしたりしていたが、新年のあいさつ程度だった。

それが、2012年、私が赤道直下のアフリカで、私がアメリカ人のシャロンとチェロのレッスンを再開し、少し曲が弾けるようになった頃、休暇をとって、イタリアに行くことになった。私は、イタリアに行くなら、ひさしぶりにLaraに会ってレッスンを受けたいな、と考え、メールをしてみた。10年ぶりではあったけれど、昨日会ったような気軽さで、Laraは私が来るのをとても喜んでくれた。

その日、私は旅行中で、もちろんチェロは持ってきておらず、Laraは、『本当なら誰にも弾かせないんだけど、、、』といいながら、オールドの自分のチェロを私に弾かせてくれて、10年ぶりのレッスンをしてくれた。まだ大して弾けない私に驚きながら、これからオンラインでもレッスンしてあげられるわ、と言った。猫のフォッギはもう居なかった。

アフリカ暮らしの私の生活に興味を持って、楽しそうに私の話を聴いていた。私は、またLaraにチェロを習って、イタリアに1年くらい住めたらどんなにいいだろうと思った。

友人と一緒の旅で、長居はできず、1時間半くらいで、懐かしいアパートを去った。去り際、どうせまた私はイタリアにすぐ来たくなるから、また連絡するね、と言って別れた。

それが、2012年の11月だったのだが、それから、何度かLaraとメールのやり取りをして、Laraはそのたびに次はいつイタリアに来るのか、と尋ねてくれた。

年が明け、2013年になり、春になる頃、メールをしたらすぐ返事をくれるLaraから、何度メ-ルしても返事がなく、最後には、このメールアドレスは存在しない、というメールが来た。

メールアドレスでも変更したのかな、と思い、そうだ、Laraが使っているFacebookで連絡してみようと思った私は、彼女のページにアクセスした。なぜか、2月の初旬で更新がとまっており、Laraのお母さんのFacebookも、なぜか同じ日に、更新が止まっていた。

なんとなく、嫌な予感がして、グーグルで、Laraの名前で検索していたら、Youtubeで、Laraの友人が投稿したらしい、『Laraの想い出に』という動画を見つけた。想い出にって??


そのまま検索し続けたら、Laraの名前がヒットした、フィレンツェの地元新聞社のデジタル版がみつかった。そこには、懐かしい、アパートのある通りに、消防車が止まっている写真があって、記事には、そのアパートに住む、Laraとお母さんが、ボイラーの誤作動による二酸化炭素中毒で亡くなった、とあった。

Laraはまだ30代半ばだった。

Laraが選んでくれたチェロは、その後、やはり物足りなくなって、もう少し良いチェロを買った。そのチェロは、アフリカを去る時、地元の音楽学校に寄付しておいてくることも考えたのだが、Laraが選んで、あのフィレンツェの楽器店の店先で2人で握手した日のことが今だ忘れられず、どうしても処分する気になれず、また海を渡って、私と日本に帰ってきた。

音大にまで入学し、チェロが私の生活どころか、人生そのものの大部分を占めている今日という日が、なんとなく、自分でも信じられない。

はじまりは、HMVで、あの日、もし、HMVの試聴機が、ちゃんとフジコ・ヘミングさんの「ラ・カンパネラ」を再生して、間違って溝口肇さんの「Rose」を流してくれていなかったら、もし、フィレンツェで、Laraに出会わなかったら、もし、アフリカで、シャロンが、大して仕事もしない現地のだんなさんに懲りることもなく、滞在し続けていなかったら、今の私はいなかったはずなのだ。

亡くなってからも、すでに8年がたとうとしているけれど、いまだに、チェロがうまくいかないと、私は、Laraとの日々を思い出すことがある。

フィレンツェの片隅で、チェロを背負って、古いアパートの木の階段を上っていた日の記憶がいまだに頭の中で再生されて、なぜか、悲しいような、懐かしいような、不思議な気分にたたずむのだった。


(コラム終り)


チェロで大学院への進学を目指しています。 面白かったら、どうぞ宜しくお願い致します!!有難うございます!!