中心帰納とは何なのか?探究(3)

※この記事の内容はだいぶ筆者の独自研究が含まれます。まあ、この記事に限る話でもないけど。。。

1.私は誰?

自己言及のパラドックスという言葉がある。
「この文は偽である」という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。(wikiより引用)

自分の在り方を問題とする成田伝合気道は、ある意味で自己言及の哲学とも言えるかもしれない。
しかし、例えば瞑想や禅とは「無心」を目指すものと思うのですが
「無心になろうとしている自分」は既に「無心」ではないという先ほど紹介した文と同じ構造の矛盾が発生します。
また「(私)は○○である」をいう[私]は(私)なの?という話も発生する。では、じゃあ(私)を言及するさらに上位の<私>を用意すれば、問題が解決するか?というと問題は解決しない。

自己言及のマトリョーシカ


「あ」という文字をどんなに分析しても、それがどういう音を示しているか?はわからないし、
自分とは何なのか?という問いを論理的に解こうとすると、その問いは無限に続くということです。


2.皇帝の新しい心

ところで、「皇帝の新しい心」という本はご存じでしょうか?

この本は、イギリスの数理物理学者ロジャー・ペンローズが著した本でして、この本の中で私が非常に重要だなと思ったところは

人間の思考は機械的手続き(アルゴリズム)には還元できない

という主張である。
他にも氏の主張は広範にわたり、量子力学や宇宙、量子脳理論etc…とあり
もう果てしなく深く果てしなく広い本である。
実は私、この本を買ってから14年経っていますが未だに読み切れていないのですが、その読み切れてない私が、中心帰納の合気道という体験を通して、そういえばこんなこと書いてあったなーというところを抜き出して、自分の考えを書いていこうと思います。なので、この本を詳しく解説するとかそういう話ではないので、この本の内容に詳しい人は厳しい突っ込みとかは勘弁してください💦

3.計算と言うものの限界

アルゴリズムと言う言葉がある。

要は非常に機械的な手順を指すんだけど、このアルゴリズムと言うものを無限に羅列したら、すべての問題に答えを与えてくれる神的なものが作れると思わないだろうか?
そこまでいかなくても、あらゆる人間の思考パターンをマニュアル化即ちアルゴリズム化してすべて羅列すれば、もうそれは人間を再現したと言えると思わないだろうか?
この話について、上記の本では大真面目な考察が書かれており、まあ結果から言うと無限にマシーンのスペックを上げようとも、人類の思考パターンは再現はおろか、すべてに答えを与えてくれる神的なものは作れないとしている。

※これらの考察をこの記事で詳しく触れようと思ったが、ちょっと話が脱線しすぎるので別記事に書くことにしました💦

さらに、この本の考察で重要なのは、どうも計算手続きでは自己言及はなしえそうにないということである。

では何が人類に自己認識を成しえさせているのだろうか?
そうそれはクオリア即ち質感である。

4.ペンローズの三角形と「意識」「イメージ」「身体遣い」

さて、どうも人間には「概念」と言うものを理解する力があるらしく、しかもその「概念」は必ずしもこの世に存在するものでなくても、なぜか人間はイメージできてしまう。
例えば完ぺきな三角形も、完ぺきな円もこの世に存在しないが、そういったものを概念としては理解している。それによって数学と言う分野が成立している。
人間が持ち得る概念の中で完全性を持つものをイデアと言い、これを論理学的に扱う分野を数学と言う。
つまり、イデア世界の一部が数学も言えるかもしれない(ここら辺突っ込みくらいそうで怖いところ)ちなみにイデア世界とはプラトン世界ともいう

さて、現代物理学は数学と言う言語によって記述されているのは皆さんご存じかと思いますが、もっと大きなことを言うと
どうもこの宇宙はある種の数学的法則に従って動いているともいえるのです。
関係としては

イデア世界の一部である数学的法則→物理的世界

です。さらにこの物理世界の一部たる人類のさらに一部たる脳は今のところどういった仕組みでそれが生じさせるかは全くの謎なんですが、意識つまり心と言うものを生じさせるようなのです。

つまり、関係としては
物理的世界の一部の脳→心の世界

さて、この心は「概念の理解」ができます。イメージをつけると言いますか、、、それはどうもこの私たちが観測しうる宇宙には存在しそうにない完全性を持つものであったり、あるいは成立しえない矛盾を抱えた図形↓

だったり。色々あるんですが、ともかく、どうも我々が知りうる宇宙つまりは物理的世界を超える概念、あるいはそれを司っている数学的法則以外も人間はどうも認知可能である

ここでまとめると
心の世界→プラトン的世界(物理世界を超えている)

となる。
ここで今までの関係を図としてまとめると以下のようになる。

ペンローズの三角形

Aの一部がBを内包してさらにそのBの一部がCを内包しその一部がAを内包するという不可能図形的関係である。

この「心の世界」「プラトン世界(概念)」「物理世界」なのですが、

まったくの偶然だと思うが成田伝合気道の三要素「意識」「イメージ」「身体遣い」とも相同な感じがあり興味深い。

ともかくペンローズは自著の中で、我々人類が宇宙を理解しようとするとき、上手のような不可能図形的関係が顕れるとしている。

5.計算を超える

我々は宇宙の一部なので、宇宙の一部たる人間が何かを感じようとしたり、何かを理解しようとしたとき

それは宇宙そのものの自己言及

と言えるかもしれない。話がでかすぎるって?

あれ?そういえばもともと何の話してたっけ?あ、そうだ武術の話だった。
いさかか強引に思えるかもしれないが、武術の話に戻ろう。
武術においては、基本的には相手と言うものがいる。
そこで、人体の仕組み、技の原理など詰めていって、技を研鑽する。
物理的技術の研鑽には、物理世界と言うものが数学的法則で動くことから計算的な手続き要素があるかもしれない。
いや俺理系じゃないしと言う武道家の意見が聞こえてきそうだが、物理的な技は物理で解析可能だとは思う。
だが、厄介なことに相手の行動は心と言う物理では還元できないものをもとに動いている。そこで、今度は相手の心理を読もうとしたり、あるいは動かそうとする。でもこれは難しい。

何故か?

自分と相手が分離しているからである。

そこで、相手と自分を含む宇宙が自己を理解しようとするときに起きるハタラキが技になる

と考える、、、まあと言うことにしておこう。

しかし、これをまじめに論理的に解析しようとすると、先ほどのペンローズの三角形的な不可能図形的構造が表れてしまう。

ではどうするのか?

ただその様子をあるがまま感じる

を実践するのである。すると無意識の思わざる何かが、非計算的なハタラキをする。そこに身を任せるのである。すると動画にして見てみると
先を捉えていたり、いい角度を捉えていたり、いい位置取りをしてたりするが、

これをあらかじめ計算的に
1.例えば、誘いをかけ、
2.相手に仕掛けさせ
3.後の先、あるいは先の先を取ろうとする
などしようとすると、相手もその思惑を読むので、

あらかじめ考えた計算通りにはいかないのである。

二つ以上の脳がある場で、片一方が両方を操ろうとするのは、自分の足を上に引っ張り上げて跳ぼうとするものである。

むしろ相手は自分の脳に写るものとし、自分の一部と考え、さらに自己の働きは計算的には絶対追えないので、

感じることに努めるのである。

すると

辻褄は後から合うのである

いやーしかしこのブログ、だいぶエキセントリックになってきたな💦

ちょっと締めが強引かもしれないが、この記事はここで締め
今後この記事は改定もするかもしれない。

続きはあるかもしれないしないかもしれない。。。。

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