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機械じゃないから

ここ数試合を見ていて物足りなさを感じるのは、
やはり香川真司選手がいないからだろうか。
いくらサイドに強烈なタレントがいたとしても、
そこだけですべてが完結するとは思えない。
それでも負けずにいられるのは、きっとあれだ。
そんなことを考えながらの90分でもあった。

こんなふうに落ち着いてセレッソ大阪を見るの、
いつからなんやろうなと時々思うことがある。
ゴール裏を離れてから、たぶん20年は経っている。
40歳になってからか、それとも50を超えたからか。
俯瞰して見るのも悪くはないけど、物足りない。
心の底から湧き上がる感情のままサッカーを味わう。
そんな日々がふと懐かしく蘇ったりするのだ。
最近では、ブログとかSNSとかの影響もあるのか、
達観したかのような投稿が多いなと感じてしまう。
それも時代なのだと言ってしまっていいのだろうか。

毎日、Generation AIとおしゃべりをしている。
今朝、なんだか思い立ってAIに問いかけてみた。
「面白い小説のプロローグを書いてほしい」
「幕末にタイムスリップしたサポーターの話」
あっという間にAIが文章を書き上げていく。
ふむふむ、ほうほう、へええ、面白い!
人間よりも情緒たっぷりに書いていくやないか。
手元に流れるテキストを見て素直にそう思った。
人間のほうがよっぽど機械のように見えてくる。
感情が筆を走らせる文章は本当に美しいものやなあ。
とりあえずちゃんと保存をしておこうと思った。

AIにできて人間にできないはずはないのだ。
そう考えて筆をとる(いちいち表現が古いなあ)。
…なにも浮かんでこない。これはマズイなと。
喜んでみる。
怒ってみる。
哀しんでみる。
楽しんでみる。
なにかを書くのって、この、喜怒哀楽が必要だ。
人間の心の持ちよう、人間が人間たらしめる能力。
人間だからこそ書ける文章がそこにはあるはずだ。
少しの気持ちを込めるだけで素敵な言葉に変わる。
機械になりきるなんて、サッカーには似合わない。

その点、言葉は、言霊は、感情の行き着く先だ。
二週間ぶりに開催したウダウダだってそうだ。
機械に支配されない、人間の素の一面を垣間見る。
シナリオもなく、言葉合わせなどもしていない。
それでも感情と感情は対話を生み出していくのだ。
言葉は、人と人を、つないでいくものなのだ。
もうすぐ150節を迎えるというときに気づくとか。
まだまだ大人になりきれていないなあと感じる。
感情だけはあの頃のままかもしれないけれど。

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