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信長の野望とイエズス会~支配とは②

前回は戊辰戦争時の欧米列強の動きを例に、国内の混乱に乗じて、
海外勢力が影響力を強めてくるケースをご紹介しましたが、
今回はそれよりもさらに昔に同じようなことが起きていたかもしれない、
という説をご紹介したいと思います。

◆戦国のスーパースター

日本の歴史上の人物でもっとも有名と言っても過言ではないのが、
織田信長で、知らない人はいないと思います。

元々は尾張という小さな国の大名だった(最初は尾張の統一すらできていなかった)のが、最終的には足利義昭の後見人として畿内(京都を中心とする地域)を掌握し、(足利幕府が倒れるまでは、畿内を収めることが天下を取るという事だった)全国統一の1歩手前までいった、戦国のスーパースターで、現在でも最も人気のある歴史上の人物です。

◆織田信長は何故実質的に天下を取る寸前までいったのか?

信長がそこまで活躍できた理由としては、様々な理由が挙げられますが、
一番の要因としては「経済力」を重視して、財力によって強大な軍団を形成した事が大きいと思います。
そして織田家が元々、新興商人、流通・運送業者、農業開拓民などの独立性が高かった新興勢力を巧みに取り込みながら勢力拡大を図ってきた事が挙げられると思います。
信長が大量の武器を手に入れ、農夫と兼業ではない職業兵士を雇用して、物量で圧倒する事が出来たのは、その影響が大きいと思います。

ですが、その前に立ちはだかったのが、当時の宗教勢力の一つである、
一向宗でした。

◆一向宗との対立

信長の育った東海一の港町、津島は、一向一揆が盛んであった伊勢長島と川を1つ隔てたところにあり、当時、津島も長島も新興勢力が活躍した地域でした。
同地域において勢力を伸ばそうとしていた一向一揆は織田家にとってはその生命線である商業、流通を中心とした経済権益への大きな脅威でした。
また、新興勢力の囲い込みという面においても一向一揆とは真っ向からぶつかっていきました。

その中で、信長は「宗教」の怖さ、特に「来世利益」を求心力とする死を恐れぬ一向一揆集団の怖さをいやと言うほどに思い知らされたのでしょう。
その原体験が、その後の石山本願寺に対する徹底的な残滅戦略につながっていきます。

◆その後、石山本願寺とも対立する

その後、足利義昭を連れて畿内を抑えにかかった際に、最後まで抵抗したのが石山本願寺でした。

石山本願寺もまた、新興勢力を取り込み巨大な経済力を誇っていました。
また、当時の寺社周辺は市場(流通)形成の場となっており、特権商人、職人による座の形成に伴い、その許可証を寺社が発行することが一般的で、信長にとっては一向一揆の際の苦い記憶もあり、畿内の経済圏を手中に収める意味でも絶対に倒さなければならない相手でした。

そんな中、信長はある宗教勢力と急速に関係を深めていきます。

◆信長とイエズス会の出会い

信長がイエズス会の宣教師のルイス・フロイスに会ったのは、1569年(永禄12年)の事。
その前年、信長は15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛しており、まさに天下布武の実現に邁進している時期でした。

信長は彼らを通じて、東アジアで貿易を展開するポルトガルの存在、さらに西洋文明のことを知ることになります。

そして、ポルトガルと交易すれば、天下布武への軍備を強化するだけでなく、国を豊かにすることができると信長は考えたのでしょう。

しかし、ポルトガルと交易するには、ポルトガル政府の許可が必要となります。
それは、イエズス会を通じて交渉しなければなりません。

これをきっかけにイエズス会と関係を築いた信長でしたが、
この関係は、両者にとってとても都合が良いものでした。

◆ポルトガルとの交易、キリスト教の優遇

信長は、海外から輸入される生糸を国内で売ることで経済的利益を得るだけでなく、火薬の原料となる硝石、弾丸となる鉛といった軍事物資を手にすることができました。

一方、イエズス会は、ポルトガルとの関係を重視する信長から、京都在住や教会建設を認められ、その庇護下で布教活動をすることができたのです。

もっとも、こうしたキリスト教への優遇措置は、貿易による利益を得るためだけではなく、信長は仏教勢力に対抗するうえでも有効であると考えたのだと思われます。

◆信長の本当の狙い

信長が敵対する大名には、朝倉氏や武田氏のように仏教勢力と結ぶ者もあり、天下布武のためには、その力を削いでいく必要がありました。

また、一向一揆を擁する石山本願寺の力は強く、彼らとの戦いは1570年~80年の約11年間にも及び、ここに風穴を開けたいという狙いもあったのではないでしょうか?
現にその狙いは決して外れていたわけではなく、一向宗からキリスト教に転宗する者も多かったようです。

ところが、信長が順調に版図を拡大していた天正8年(1580)、西洋で大きな動きがありました。

スペインによる、ポルトガル併合です。

◆イエズス会との関係悪化

ポルトガルという後ろ盾を失ったイエズス会は、存亡の危機に陥り、新たにスペインとの関係を深めることで活路を開こうとします。
そこでまずは、スペインと信長を仲介しようと、この頃、イエズス会から派遣されてきたのが、宣教師のヴァリニャーノです。

信長にしても、海外貿易のうまみから、スペインと親交を結びたいと考えていて、信長と面会することになったヴァリニャーノは、1581年(天正9年)、京都で行なわれた天皇臨席の馬揃えに招かれ、主賓といっていい待遇を受けます。

その後、両者は舞台を安土に変え、交渉に臨みます。
ヴァリニャーノは5カ月近く安土に滞在しますが、その間、どのような交渉が行なわれたかは日本側の史料に残っていません。

しかしその後、信長は安土城内の摠見寺に自分を神として祀らせ、家臣や領民に参拝させていることでからも、イエズス会と訣別したことを天下に知らしめるような行動をとっています。

では、そうした信長の決断をもたらしたものは何か。
それはイエズス会が提示した、スペインからの要求、
「明国を征服するための出兵」だった可能性があります。

◆スペインによる明国制服計画

ポルトガルを併合し、世界中に植民地を得たスペインは、「太陽の沈まぬ国」となっていました。

もともと、1494年に結ばれたトルデシリャス条約によって、スペインとポルトガルの勢力圏を東西に分けることが決められていて、それが、ポルトガルを併合することで、スペインは世界帝国となったのです。

スペインが次に征服したいのは、日本の隣国である明国だった可能性が高いです。

その根拠として、天正10年(1582)、ヴァリニャーノがマニラのスペイン総督に送った手紙にあります。
そこには、将兵の強い日本を征服するのは難しいが、明国征服事業に役立つだろう、という趣旨が記されています。

スペイン本国から遠方にある明国まで大量の兵を送るのは難しい。そこで、その肩代わりを日本に求めたのでしょう。

◆信長がスペインの要求をはねのけた理由

もし信長が、そのスペインの要求をはねのけたのだとしたら、それはスペインとの貿易が失われようとも、日本の水軍をもって海外へ乗り出し、自らの手で貿易をやっていく自信があったからかもしれません。

当時国内では、信長と互角に戦える勢力はもう存在しなくなっていて、いずれ天下を統一した暁には、毛利家が独占している石見銀山を手に入れて、銀を海外に輸出することを考えていたかもしれません。
そうすれば、当時の世界通貨は銀ですから、売り手として大きな利益を上げ、それを元手にさらに貿易を拡大できます。

しかし、1582年(天正10年)6月、本能寺の変により、
その夢は潰えてしまうことになります。

◆信長の暗殺の裏にはイエズス会が・・・?

信長を明智光秀が暗殺した理由についてはよくわかっていない為、
様々な説がありますが、よく囁かれているのが、イエズス会の策略だったのではないか、という説です。

もはやイエズス会にとっては信長は邪魔な存在となっていました。
そこで、当時信長に何かしらの理由で不満を抱いていた光秀に目を付けた。
とはいえ、例え暗殺が成功しても、反逆者である光秀に同調する勢力はほとんど期待できず、また光秀はキリスト教にあまり興味を示さず、宣教師に対してもどちらかというと冷ややかでした。
なので、暗殺の実行犯として利用価値はあっても、信長の後釜としては考えていなかったように思えます。

◆イエズス会の意向を受けて

その証拠に、光秀は当時日本にいた宣教師のオルガンティーノに、キリシタン大名の一人だった高山右近が味方してくれるように依頼してほしいと手紙を書いていますが、オルガンティーノは光秀に味方するようにという日本語の手紙と共に、一方で味方にならないようにというローマ字の手紙を送ったと、後にルイス・フロイスの書いた本国への報告書には書かれているのです。

信長の後継者として名乗りを上げたのは、羽柴(豊臣)秀吉でした。

日本を統一したのち後に秀吉は、明国を攻める事になります。
それはかねてからイエズス会及び、スペインと示し合わせた事だったのかもしれません。

その後、秀吉は亡くなり、その後に天下人となった家康は、
諸大名の軍事力を削減させる目的もあり、築城や城の改築などは原則禁止、また、1609年(慶長14年)には、500石積以上の大船建造が禁止され、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は大きく制限されました。

その後、江戸幕府によるキリシタン弾圧が激化し、
カトリックと対立するプロテスタントの国であるオランダとだけ交易を許可するようになるなど、イエズス会との明らかな対立姿勢を見せたのも、過去に介入があった事を警戒してのことだったのかもしれません。

スペインと密かに交流のあった伊達政宗をけしかけて、政権を奪取させる計画もあったとも言われていますが、寸前で発覚したようで、頓挫しています。

◆混乱に乗じ、海外勢力の影響下にあった日本

戊辰戦争だけでなく、戦国時代においても、日本は海外勢力の影響を受けていた可能性が高いことがこれでわかると思います。

本当の意味で我が国が独立し、自分たちの意思で振舞えるようになるためには、こういった介入をいかに防ぐかというのが大事となるでしょう。

しかしながら、今のこの国が今も海外勢力の影響を受けている事は、
日本が敗戦後から80年経っても、アメリカの意向をはねのけられない事からも、まぎれもない事実だと言えます。


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