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「集まるのが大事」第二回合宿勉強会の記録+(哲学的・哲学学的)自己紹介

 二〇二一年の四月二十九日から五月一日にかけて、緊急事態宣言下の大阪某所にて、「集まるのが大事」合宿勉強会の第二回が開かれた。
 昨年七月に行われた合宿勉強会の第二回である。

 主催者は松山さん(@dazaist69)、ああるまさん(@rmarminor)、加賀谷さん(@Jamai_kamen)、齋藤さん(@_satoketa)の四名。当日は三十名ほどが集まった。
 以下の記録は、講演の内容をおおまかに書いたものである。不正確な記憶や記述上の割愛などのため、実際の講演とは様々な点で異なるだろう。
 また、会場では発表後に質疑応答が活発に行われたが、今回は富永京子氏の発表について以外は質疑応答の内容に触れることができなかった。
 なお、本記録では、講演の内容をのみ記述しているが、この会の重要な要素は様々な人が「集まった」ことであり、講演の時間以外の交流もまた楽しいものであった。
 しかし、それらについて詳述することは控えておきたい。ただ、今回の会の帰宅直後のツイートから、なんとなくの雰囲気をつかんでいただければ幸いである。









四月二十九日
高木崇雄: 民藝という「抵抗」
畑中章宏: 革新思想(リベラル)の非西洋起源について

四月三十日
田中元子: 「ひと」「まち」「日常」のはなし
綿野恵太: みんな政治でバカになる(仮)
富永京子: 社会運動における男性中心主義をどう考えるか?

五月一日
大野左紀子: 「反抗 vs 反抗」の外へ 性的表現と性差別批判の弁証法
水野阿修羅: 「男らしさ」はどうつくられたのか

一日目

高木崇雄: 民藝という「抵抗」

 高木崇雄氏は二〇〇四年から福岡市内で工芸店「工藝風向」を営む人物である。
 「民藝」とは何だろうか。現在ではこの言葉は、さまざまな土産物や民芸調のレストランなどに見られるような、なんとなく和風で素朴なイメージとして受け取られている。だがこの言葉がはじめて柳宗悦らによって用いられたとき、「民藝」とは時代に対する抵抗でありまた挑戦でもあった。「民藝」とは単なる懐古的で保守的な趣味ではなく、高木氏に言わせれば「近代芸術運動」だったのである。
 では「民藝」は何に抵抗したのだろうか。それは当時の「帝国」の拡張に伴う社会の一元化に対してだった。その一元化の中で自らの言語、文化を奪われようとする朝鮮、沖縄、アイヌの友の擁護、「帝国」化のなかで地方固有の美が喪われてゆくことへの抵抗、それが「民藝」の根本的な問題意識であった。
 「民藝」は同時に当時の日本の「美術」―「美術工藝」―「工藝」というヒエラルキーに対する抵抗でもあった。一八七二年ウィーン万博以降、「美術」という翻訳語がつくられ、海外にも認められた価値のある「美術」と、それに準ずる「美術工藝」、そしてただ生活の用を足すものにすぎない「工藝」というヒエラルキーが出来上がった。そのヒエラルキーはさまざまな博覧会、帝展によって強化され、個々の作家さえも「帝展向き」の作品を作ることに腐心するありさまであった。「民藝」はその状況に対する抵抗だった。
 柳はこのヒエラルキーに抵抗するため、「工藝」というものに新しい意味を込める。彼は「工藝的なるもの」という文章のなかで、次のようなものを「工藝的」とみなす。

バスの車掌の声・床屋の鋏の調子・線路工夫の掛け声・銀行員のお札の数え方・物売りの声・トランプが上手な人の切り方・肉屋の主人の包丁さばき・芝居や落語や相撲の看板の字・中世活版の字・新聞書体・大津絵・グレゴリオ聖歌・天台宗で行われる論議・茶道・能楽・武術

 その一例として高木氏は次の歌をお能の調子で高唱した。

住吉の 松の木間より 眺むれば 月落ちかかる 淡路島山

 今の声は何だろうか。それは高木氏の口、高木氏の喉から出てきたものだが、単純に彼自身の声でその和歌を詠んだとはいえない。それは師と相対して稽古する時間のなかで生まれた声であり、また先人が受け継ぎ積み重ねていった時間のなかで生まれた声である。「工藝的」とは、このような「私」の身体、「私」の生活が「公」にふれる場所で削ぎ落とされ、暮らしのリズムが煮詰まったものなのである。
 このように拡張された「工藝」「民藝」の概念はもはや「美術」と「美術工藝」のヒエラルキーの下位に属するものではない。それはむしろあらゆるArtがそこから生まれてくるような「Normal Art」(この語は運動の初期に柳が用いた「民藝」の英訳である)なのである。

 では何故、「民藝」は現在、陳腐なイメージとして受容され誤解されつづけているのか。その原因は、「民藝」が、「~だから民藝」という、ある条件、規範に従ったものだから「民藝」だ、というものと誤解されてしまったことによる。だが柳らにおいて「~だから民藝」と言えるようなものは一つもない。むしろ「~にもかかわらず」という形で「民藝」は見出されたのである。
 「美を狙ったわけでもないにもかかわらず」「名を挙げるために作ったわけでもないにもかかわらず」「どこにでもありそうなものであるにもかかわらず」、それらは美しい(この「にもかかわらず」の考え方には、学習院で柳に外国語を教え、また彼を退学の危機を救った鈴木大拙と西田幾多郎が重視した「即非の論理」や「悪人正機」「不二」「他力」といった仏教思想の影響があるという)。
 「民藝」との関連でよく用いられるキーワード「無名」も、ここから捉えなおしたい。よく、「無名の職人が作ったから民藝」と言われがちだが、それは本当だろうか。そもそも「無名の職人」なるものは存在するのだろうか。何も知らない人からしてみればそうだから、それを作る側にはやはり名工として周囲に名の知れた者がいつの時代にもいたはずなのである。それゆえ高木氏は「折々の名工の積み重ねとその忘却が、「無名」として今にある」と述べる。こうした人と人のつながり、積み重ねがあえて「無名」という仮の名で呼ばれるだけなのである。

  なお、以上の内容は「わかりやすい民藝」(D&DEPARTMENT PROJECT)という本にも詳しく書かれているので、興味を持った方は是非参照せられたい。

畑中章宏: 革新思想の非西洋起源について

 畑中章宏氏は民俗学者で、『柳田国男と今和次郎』(平凡社新書)、『災害と妖怪』(亜紀書房)、『天災と日本人』(ちくま新書)などの著作で知られる。
 そんな民俗学者がまずはじめに語ったのは、一九四八年の柳田国男のご進講の話であった。「ご進講」とは、名が知られ功績のある学者が天皇の前で講義することであるが、柳田国男はここで「富士と筑波」伝説の話をしたという。その伝説とは次のようなものだ。
 昔々、御祖神(みおやがみ)という神が国々を巡っていたとき、日が暮れたので富士山に一夜の宿りを求めた。だが富士山は今夜は新嘗祭の物忌みで対応できないと断った。だが筑波山の方は、今夜は新嘗祭だが構わない、さあいらっしゃいと歓迎してご馳走を振る舞った。それで、筑波山は春も秋も木々が青々としげって、人が賑わう楽しい山になったが、富士山は雪ばかり多くて人のよりつかない、食べ物にも不自由する山になってしまった。
 そんな話である。柳田はこの話を昭和天皇にして何が言いたかったのか。畑中氏は「お高くとまらないで、筑波山のようになりなさい」というメッセージがあっただろうと語る。四月三十日、天皇誕生日(昭和の日)にちなんだ話である。

 さて、以上のように柳田が昔話を語って天皇を諭したように、昔のこと、民俗的なことを振り返ることは決して単に保守的で復古的なことではない。
 畑中氏はここで、市井三郎という哲学者の書いた『近世革新思想の系譜』(新NHK市民大学叢書)をひもとく。そして、明治維新以前の、日本で培われてきた「革新思想」(畑中氏はこれに「リベラル」とルビを付す)の萌芽、系譜を、つらつらと紹介しはじめた。
 天皇家の優位を説く本でありながら、儒教・仏教・神道を平等視し、なぜ武家が台頭しえたかを宗教・政治・文化を相対化する視点で論じた『神皇正統記』、権力者を否定する力を秘めた日蓮宗、真宗、非暴力的・合法的な仕方で商品流通の自由を勝ち取った摂津などでの国訴運動、そして、天明の大飢饉の際に起った御所千度参りの話などなど。

 畑中氏は現在、大日本帝国憲法発布前に民間で書かれた憲法草案、「私擬憲法」について研究している。それらは六十以上もあり、女性の選挙権や死刑の廃止、また国民投票によって天皇を廃立する権利を保証しようとするものなど、さまざまな内容で、しかもきわめて革新的で過激なものが多い。これらはドイツ憲法をモデルとした大日本帝国憲法とは違い、それまでの近世社会で生まれ暮らすなかで培われてきた「革新思想」の発露だったと言えるだろう。
 リベラルはよく「海外に比べて日本は遅れている」とよく言うが、むしろ「昔の日本に比べても今の日本は遅れている」と言うべきではないか。こうした過去の「革新思想」を掘り返すことで、今新たに考えてゆくべきではないか。そのようなことを畑中氏は最後に述べ、発表をしめくくった。


二日目

田中元子: 「ひと」「まち」「日常」のはなし

 田中元子氏は、株式会社グランドレベル社長、喫茶ランドリーのオーナーであり、また「パーソナル屋台」などのさまざまな活動をしてきた人物である。
 それらの活動はすべて「ひと」「まち」「日常」を元気づけるために行われたことだが、田中氏ははじめにこの言葉を用いる人に気を付けて、と注意する。「ひと」「まち」「日常」はあまりに自明に大切であるために、この美辞麗句さえ用いればどんなことも、どんな行政の施策もそれなりに有意義に見えてしまう。だが「ひと」「まち」「日常」が具体的な誰か、場所、時間と結びついていないところでは、それは誰もいない公園や寒々とした公共空地がいくつか出来るだけに終わるだろう。
 田中氏は具体的な「ひと」「まち」「日常」を「グランドレベル」に見据える。グランドレベルとは一階、道を歩く人の目の高さの世界のことで、建物と公道が接する、いわばプライベートとパブリックの交差点である。そこに「ひと」がいることで、「まち」はいきいきとした生気をやどす。田中氏はここでゴッホの絵、「夜のカフェテラス」を掲げる。ゴッホにとってこの景色は何でもない「日常」だった。だがこの賑やかさは何だろうか。
 日本では人がたくさんいるはずの街でも、道は人通りが少なく殺風景で、まるで過疎地のように生気を失っているということがよくある。人間はみんな高層ビルのなかに引きこもってしまって、そこで生活を完結させてしまうからである。それでもかつては家庭というものがあったから人が完全に孤独になることはなかったが、単身世帯がますます増えてゆく日本では、人間の孤独はますますつのってゆくだろう。しかし日本人はゴッホの「夜のカフェテラス」のように賑やかな街、単に「人口が多いだけのまち」でない「人の姿の見えるまち」をつくることができるだろうか?
 ここで田中氏は、デンマーク、オーフスの街並みの写真を掲げる。
 河畔に賑わう人々の姿。683人/平方キロメートルと人口密度がそう高いわけでもないのにこの賑わいである。だがかつてからこのような賑わいがあったわけではない。かつて、この川は暗渠になっていて、街は殺風景なビル街、みんな車で移動する社会だった。それを一九七〇年代頃から意図的に設計しなおしてこのような姿になったのである。このことは、日本でも、単に空疎な公園をつくるだけでない、本当の意味でいきいきとした「ひと」「まち」「日常」をつくる町づくりが可能であるという希望を抱かせる話である。

 田中氏のさまざまな活動は、それを単に希望にとどめるのでなく、実際の街に現実化しようとする試みであったと言えよう。そこには氏の強い願い、エネルギーがあった。だが氏は「田中さんだから出来たこと」と言われるのが一番の侮辱である、と述べる。事実、氏は「喫茶ランドリー」(コインランドリーを併設した、街の人々の憩いの場、「まちの家事室」としての喫茶店)をフランチャイズ化しており、複数のオーナーがそれぞれの支店でそれぞれの個性を発揮しているのである。こうしていきいきとした個々人の能動性が街に現れ出ることで、その人が幸せになり、その人の周りの人が幸せになり、そしてその周りの人の周りの人も幸せになり・・・・・・そして究極的には世界平和に至れるのではないか。
 「一階づくりから世界平和へ」。田中氏はそう発表をしめくくった。

綿野恵太: みんな政治でバカになる(仮)

 綿野恵太氏は『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)で知られる批評家である。氏は今回、刊行を予定している著作『みんな政治でバカになる』の内容をもとに発表を行った。

 この本は我々の「認知バイアス」と「政治的無知」に関するものになる予定である。
 その大前提となるのが、自律的に理性的に選択する個人という、かつての人間観の崩壊という「ポストヒューマン」の状況である。人間は容易に他者や環境にふりまわされるし、しばしば非合理な選択をする。このことは近年興隆するさまざまな学問動向——行動経済学に進化心理学、ケアの倫理、当事者研究、アーキテクチャ論などなど――のなかでも明らかになっていることだ。
 そうした動向のなかで、よく論じられるのが「二重過程理論」という話である。人間の心理には直観システムという、経験と習慣に基づいた、非言語的で自動的に判断するシステム(「システム1」)と、推論システムという、言語的で意識的な推論に基づいて判断するシステム(「システム2」)が共存している(たとえば、「1+1=2」と何も考えずに瞬時に判断するのが「システム1」で、複雑な数式を論理を組み立てて解こうとするのが「システム2」と言えるだろう)。
 そして、我々はこの二つを適切に使い分けることができない。自分が理性的に「システム2」で判断しているつもりでも、実は「システム1」で何らかの認知バイアスに流されて判断しているということは往々にしてあることなのだ。
 たとえば、自分は個人として理性的に判断しているつもりでも、実は自分の属する集団、仲間だと認めた者に対しては意識的・無意識的にひいきしてしまう。「内集団バイアス」とか「部族主義」とか言われるものだ(このことはきわめて容易に発生する。ある実験ではコイントスで集団を2チームに分けただけで「内集団バイアス」が発生したという)。自分は普遍的な道徳に立脚しているつもりでも、実は単に自分の所属する集団の道徳に直観的に従っているにすぎない(「道徳部族」)。また、客観的に情報を選択した上で判断しているつもりでも、実はその集団の信念に沿って情報を選択している(「確証バイアス」、「アイデンティティ保護的認知」)。
 「内集団バイアス」「確証バイアス」は、インターネットという今日の環境にてさらに強化され、「サイバーカスケード」とか「フィルターバブル」と呼ばれるような集団分極化を帰結する。同種の意見をもつ人々で寄り集まって、「感情」(とくに「怒り」)を共有する。
 このことはマイノリティの連帯をたすけるなど良い面もあるものの、集団の過激化、陰謀論の蔓延など悪い面も数知れない・・・・・・。

 こうした「認知バイアス」の問題に、さらに「政治的無知」の問題が掛け合わさる。
 今日において、政治はきわめて複雑化し巨大化した上に、もはや一国で完結したものでもない(今日きわめて重大な「安全保障」「軍事」「経済政策」「財政」の問題はどれも一国で完結して考えることができない)ため、一人の人間では到底全貌を把握することはできない。
 しかし、知らないからといって黙っていることはできない。ここに様々な形でポピュリズムが奔出する。
 綿野氏はここで丸山真男の文章を引用する。

現代の政治機構の複雑化とその規模の国際的拡大は大衆の無力感を強める最大の要因となっている。自己の生活に重大な影響をあたえ、場合によっては生死にかかわるような政治的決定がどこか自分たちの手の遠くおよばぬ処で、自己の到底コントロールしえないような何びとかによって、しかも自己の知りえないような複雑なメカニズムを通しておこなわれているという意識が大衆を深く捉えるほど、彼らはどうにも仕方がないという諦観と絶望の中に沈淪する。〔中略〕現代人のアパシーは伝統型のそれとちがって、政治を風雪雷雨のような一種の自然現象とみなすのではない。政治が人間の統制下にあることは万々承知しておりながら、しかも政治をコントロールしているのは「我々」でなく「彼ら」だという意識に、そのアパシーは根ざしているのである。〔中略〕それが伝統型のように静的な諦観でなく、焦燥と内憤をこめたいわば動的な無力感であればこそ、時あって非合理的激情として噴出し、いかなる政治的象徴とも無差別に結びつく可能性をはらんでいるのである。(丸山真男「政治的無関心」(1954))

 近年のポピュリズム運動の奔出は必然である。それは以上のような状況に加えて、人間の「システム1」によっても支えられているのである。
 この状況を憂える人は啓蒙をうったえる。だが、人間の「システム1」はきわめて強固であって、簡単にふり払えるものではない。
 だが人間のそうした脆弱性が不変であるとしても、環境や制度をととのえることで理性的な討議が可能になるのではないか、と考える人もいる。そもそも啓蒙とは、ある個人が賢くなることではないのである。

新たな啓蒙思想の発展には、理性は多様な個人にまたがる非集権的で分散的なものであるという認識が必要だ。自分だけ合理的にはなれない。合理性は本来、集団的なプロジェクトである。

 ジョセフ・ヒースは『啓蒙思想 2.0』のなかで以上のように述べ、理性的で時間をかけた討議、「スローポリティクス」を評価する。

 しかしそのような討議は可能なのだろうか。テレビ映えする決め文句と、はぐらかしが横行し、そもそも与党は四割の支持さえあれば政権を維持できてしまう。熟議は夢のまた夢である。このような状況ではポピュリズムは不可避である。
 そこで、左派の側からのポピュリズムの可能性を論じる者も現れるようになった(シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』、エルンスト・ラクラウ『ポピュリズムの理性』)。
 だが、ポピュリズム的な「感情」の動員にあたっては、やはり右派の方が有利なのではないか。左派のポピュリズムはラクラウが危惧するように単なる「倫理的糾弾」に陥って大きな運動につながらないのではないか。
 綿野氏は、以上のようなポピュリズムの問題を示して、発表をしめくくった。

富永京子: 社会運動における男性中心主義をどう考えるか?

 富永京子氏は現在、立命館大学の産業社会学部の准教授で、社会運動論、国際社会学を研究している。『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)などの著作で知られる。

 今回、富永氏は、民主的な意思決定や制度実行を志したはずの社会運動が実質的には一部の人によりリードされ、他の人は周縁化されてしまう問題について発表した。
 この「一部の人」というのは大概の場合、一般社会においてもマジョリティ(シス男性、英語話者、健常者、高学歴・・・・・・)であるため、マイノリティは社会運動の意思決定の場面でもまたマイノリティとしての処遇に甘んずることになってしまう。

 このことはFreemanという人がすでに「Tyranny of Structure-lessness」(構造なき専制)として問題にしたことである(1972)。社会運動は組織がトップダウン的でない「無構造」であるがゆえに、かえって専門家や知識人、見栄えのよいスター活動家が専制的に力をもつことになりがちである。
 また、「これこそが社会運動らしい運動」とか「俺こそが本当の活動家」という社会運動家としての自己意識が、運動内のヒエラルキカルな構造や、一部の参加者の抑圧につながっているという指摘もある。
 こうした「社会運動家としての自己意識」は、Alberto Melucciの言うところの「Collective Identity」(集合的アイデンティティ)——「女性」や「労働者」、「障害者」のような属性を共有するところに成り立つアイデンティティ――の一つとして、「アクティヴィスト・アイデンティティ」として、今日では広く論じられている。
 アクティヴィスト・アイデンティティにとって重要なのが「望ましいアクティヴィスト像」に自分がどれだけ合致しているかである。Chris Bobelは、これについて、「無私の精神」と「謙虚さ」が重要となり、活動家は自分の足りなさを自覚しながら、完璧を目指しながら活動しなければならないと感じていると指摘する(2007)。
 こうした価値観は、近年のフェミニズム研究によれば、女性活動家ほど内面化しやすい(Taft 2017, Craddock, 2017, 2019, 2021; Kennelly 2014 ; Luke et al. 2018: Lyytikäinen 2013)。また社会運動ではデモや座り込みといった「前線」での運動こそが模範とされがちだが、社会運動のなかでも女性が事務的な仕事を担いがちであるといったことから、アクティヴィスト・アイデンティティに合致できないという「罪悪感」「恥」を抱える事態に追い込まれやすい(Craddock, 2017, 2019, 2021; Kennelly 2014 ; Luke et al. 2018)。
 では「前線」での運動でないなら女性は有利になるだろうか。ライフスタイルを通じた運動——例えば食肉をしないとか電気を使わないといった運動の理念に即したライフスタイル——の場合はどうか。だがこれについても、実のところ若くて白人で中産階級の男性の方が有利であると指摘されている(Portwood-Stacer, 2013, Cortese 2015)。
 このように、女性の活動家は、運動を主導するのが男性であるという点で周縁化されるだけでなく、男性の活動家のつくった運動の「正しさ」の価値観を内面化し、その正しさに合致できないことに罪悪感を抱くことによって、さらに周縁化されるのである。

 以上が現在(二〇二一年)までの欧米での研究、議論である。
 しかし、このことをそのまま日本における社会運動の実践に当てはめることはできるだろうか。
 日本は、海外と比べて、社会運動の参加率がきわめて低く、また社会運動に参加している人への信頼感は、与野党の政治家、地方議員、ポランティア従事者、組合参加者と比べてみても、たいへん低い。
 ここで富永氏は、会場の聴衆に向けて、それぞれの実践の現場における実感や意見を求めた。様々な立場から、様々な関心にもとづいて質疑応答があったが、それらすべてを書くことはできない。ただここでは二点だけ、抜き出しておきたい。

 一、「女性活動家」が少ない、というが、女性の活動家が「運動家」と呼ばれていない、また「運動家」であるというアイデンティティ、「アクティヴィスト・アイデンティティ」を持っていないということも多いのではないか。
 近年の女性の多く参加する運動は、「ソーシャルアクション」や「NPO」といった形をとって、「運動家」であることにこだわりを持たない(あるいは既存のいわゆる「運動」から距離をとる)タイプが多いのではないか(たとえば仁藤夢乃?)。

 二、男性の社会運動は、しばしば不潔で、貧乏くさいことが多い(「だめ連」などの流れか)。このことが、女性の活動家の参入の妨げになっているし、さらに社会一般に対して運動が広がりにくい一因になっている。
 またこうした「運動」の貧乏くささにアイデンティティを持つ者もいる。だが、社会運動をする以上、社会からどのように見られているかにも気をつかう必要があるだろう。

三日目

大野左紀子: 「反抗 vs 反抗」の外へ 性的表現と性差別批判の弁証法

 大野左紀子氏は、『アート・ヒステリー』(河出書房新社)などで知られる文筆家であり、前回の「集まるのが大事」でも登壇した人物である。
 今回、氏が取り上げたのは、性的表現の問題である。性的表現と表現規制の問題は複雑である。一方では、表現規制という社会の側からの抑圧に反抗する性的表現という構図が成り立ち、他方では性的表現という性差別の横行に反抗する表現規制という構図が成り立つ。この「反抗 vs 反抗」の状況では、どちらも自分の側こそが真に「反抗」しているのだと主張するばかりで、堂々巡りになってしまう。

 この堂々巡りから抜け出すためには、ここで今一度「性の問題」を問い直す必要があるだろう。
 その手引きとして、大野氏はまず自身の経験談を紹介した。それはあるデザイン専門学校にてデッサン講師をつとめていたときの経験である。
 裸婦デッサンの実習のときのことである。裸の女性のモデルを囲んで生徒がデッサンするのだが、ある女子生徒が気分が悪くなって早退することを希望した。何故かというと、「男もいる中で、自分と同じ女性の裸を見るという状況が耐えられない」とのことだった。
 また、同じ専門学校のアニメコースでも裸婦デッサンが行われた。ここでも気分がすぐれないと早退するものが現れたが、今度は男子生徒だった。よく見ると、早退した者以外の者も、ヌードモデルから目をそらしてデッサンしている者が多く、完成した絵を見ると、モデルとは似ても似つかないアニメ調の絵であった。
 ここで大野氏は二つの図を掲げる。

 第一の図ははじめの女子生徒にまつわる図である。ここで女子生徒は自身を女性モデルと同じ女性であることから、その女性モデルに向けられる男性の視線の中に自分を意識し、耐えがたくなってしまう。
 第二の図はつぎの男子生徒にまつわる図である。ここでは男子生徒は、女性モデルを見ているつもりで直接見ておらず、理想的な「女性」像を通してしか見ていない。そのため、デッサンしているつもりでアニメ調の絵になったり、またあえて女性モデルを直視した場合には、その生身の身体のあまりの情報量に耐えがたくなってしまう。
 この二つの構図に、男/女の決定的な性の非対称性、両性の「出会い損ね」「すれちがい」があらわされている。そしてこの分断こそが性的表現の問題を解きがたくしているのである。しかし、性の問題について考えるためには、この分断から出発して考えるべきではないだろうか。

 以上のように問題提起してから、女性ヌードの美術史が辿りなおされた。代表的な十数名の画家の、それぞれの作品について、描かれた背景、人々の反響、そして絵に込められた寓意まで詳しく語られたが、その全てをここで紹介するのはよしておきたい。
 ただ、ここでは一作品だけ、先ほどの話との関連で、ベラスケスの「鏡のヴィーナス」を紹介したい。

 この絵はローマ神話の女神、ヴィーナスがこちらに背を向けて横たわって鏡を見ているところを描いたものである。キューピットを伴っているので、たしかにヴィーナスなのだろう。しかし髪の色は黒であり、ヴィーナスにかこつけて普通のスペイン女性のヌードを描いているようにしか見えない。
 鏡にはヴィーナスの顔が映っており、こちらにも見えるようになっている。それで、ヴィーナスが鏡で自分の姿を見ているところだ、と思いたくなる。しかしそうではない。このように絵の角度でヴィーナスの顔が見えるとしたら、実際にヴィーナスがじっと見つめているのは、彼女を描いているベラスケスという男性画家なのである。
 ここに先ほどの「男性の視線の中に自分を見る女性」という構図が重なる。
 なお、この絵には後日談がある。一九一四年、サフラジェット(女性参政権運動)の活動家の一人、メアリー・リチャードソンによって、美術館に飾られていたこの絵は刃物できりつけられてしまう(後に修復された)。

 メアリー・リチャードソンは後にこう語る。「男性客が日がな一日、大口を開けてあの絵を見つめているのが気にくわなかった」と。

 女性を描いた表現は以上のような困難さをかかえている。
 ここでラカンの言葉を参照すべきだろう。彼は「〈女〉は男の症候である」、「〈女〉は存在しない」と言明する。これはもちろん女性というものが存在しないということではない。ただ、〈女性的なもの〉を明示的にかくかくしかじかのものであると示すことが不可能であることを述べたものである。
 先ほどの二図を思い出していただければ分かるが、男性は「女性」を理想像を通して見ることで見逃してしまい、女性も「女性」を、男性の視線という間接的なものを通して見ることで見逃してしまう。このように謎めいたものこそが〈女〉なのである。
 それゆえラカンはさらに言う。「異性愛者とは、男であるか女であるかに関わらず、〈女〉を愛するものである」
 これゆえに、「女性」は好んで描かれ、また問題を巻き起こしてきたのではないだろうか。

水野阿修羅: 「男らしさ」はどうつくられたのか

 水野阿修羅氏は各地を転々とした後、一九七〇年から西成区の釜ヶ崎に住みつき、さまざまな活動を行ってきた人物である。
 往時の釜ヶ崎は、ヤクザが仕事の手配をしており、日雇い労働者は彼らに賃金の多くをピンハネされ、また暴力で支配されていた。水野氏はこの状況に、逆にみんなでヤクザを取り囲みボコボコにしたこともあったという。
 一九八八年からは釜ヶ崎に増えてきた海外からの出稼ぎ労働者を支援する組織、「アジアン・フレンド」を立ち上げた。当時、海外から釜ヶ崎に来る労働者の多くが女性であった。彼女たちとの交流から、氏はフェミニズム、またそれに付随する「男らしさ」の問題に気づき、一九九一年に「メンズリブ研究会」、一九九八年に「メンズサポートルーム大阪」を立ち上げた。
 男性はなぜ、買春やDVをしてしまうのか。水野氏はこれをコミュニケーションの問題だと考える。自分の感情を見つめ伝える能力が足りないため、コミュニケーションの必要のない買春や、暴力で自分の感情をぶつけるDVをしてしまうのである。

 自分の感情を押し殺し、他人に弱みを見せない「男らしさ」。こうした「男らしさ」は歴史のなかでつくられたものであるといえる。たとえば、かつては男性にも化粧の習慣があった。公家はいつも化粧をしており、明治天皇も化粧をしていたと言われる(明治天皇は写真が嫌いで、残されている「御真影」は天皇を描いた絵を写真に撮らせたもの)。
 今日につづく「男らしさ」は、明治期の富国強兵をめざす教育のなかで形作られた。もともと、日本の農民は日常のなかでほとんど走ることがなかった。何の訓練もない状態では、集団でリズムを合わせて行進することができないのはもちろんのこと、駆け足さえ困難である。この状態の改善のために学校教育のなかに体育が取り入れられ、文部省唱歌が導入された(行進の一、二のリズムに慣れるためには唱歌は有用だった)。また、教育勅語で、忠孝、滅私奉公、良妻賢母といった価値観をすりこみ、「男らしさ」「女らしさ」を形成していった。このように作られた「男らしさ」とは、つまるところ、兵隊になって戦って死ぬための「男らしさ」である。こうして、自分の感情を見つめられず、他人に弱みを見せることのできない男たちが生み出されていった。

 水野氏は会場で、DV加害者向けのワークショップを二つ、行った。
 一つは、じゃんけんで負ける役を決め、後出しで負けるというものである。「負けてはいけない」という「男らしさ」が内面化されている人ほど、これが上手くいかない。相手の手を見てからゆっくり負ける手を出せばよいのだが、上手く早くこなそうと、即座に負ける手を出そうとしてかえって失敗するパターンが多いという。
 もう一つは、片方が椅子に立って二人で話すというものである。DV加害者の会では、妻あるいは子供を上にして話し合い、自分がどう感じているかを見つめさせたという。
 「男らしさ」は身体的なレベルですりこまれているため、このように身体的なレベルで自分の感情、弱さを見つめ直す必要があるのである。

 水野氏の活動については、以下の二記事も面白い。興味を持った方は是非参照せられたい。

https://screen-life.jp/lifestory/story/person031/

https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/abe04


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(哲学的・哲学学的)自己紹介

 四月の終わりにあった合宿勉強会の記録を、八月のなかばになってようやく投稿することができる。
 前回は会の一週間後には書き終えた。それが今回はこうも長引いてしまった。
 その原因はまちがいなく、京都に帰った直後から日本学術振興会の特別研究員制度に応募するための申請書作成にかかりきりだったことによる。博士課程中の研究者を助成する制度なのだが、それに受かるためには申請書を書かなくてはならない。申請書とは、平たく言えば研究計画書なのだが、審査する人は専門外の人で、研究のもつインパクトを精一杯アピールしなくてはならず(と同時に、トガりすぎると審査員の心証を悪くするおそれがあるため、ある程度「無難」に・・・・・・)、その上「研究に関する自身の強み」とか「今後研究者として更なる発展のため必要と考えている要素」とかを色々書き連ねなくてはならない。要するに、就活のエントリーシートである。
 こういう書類を書くことになったのである。同じ大学院の先輩、同輩と何度も検討会を開いて、ああ書くべきだ、こう書くべきだと推敲したのだが、実は我が研究室にはこの数年来特別研究員制度に受かった人がおらず、実のところ誰もどう書くのが正解かを分かっていない。
 こういう非常に疲れる作業のために、本記事の執筆はまったく中断されてしまったのである。
 その作業の中で分かったことが二つある。
 私は就活向きではない。おそらくエントリーシートは、今回の申請書を書くにあたって最も私を苦しめた要素を純粋抽出したような書類であろう。そんな書類を作成した上で、面接ではそうした内容を顔を合わせながら臆面もなく語らなくてはならない。これはちょっと無理である。
 そしてもう一つ分かったこと。それはどうやら私は研究者であるということである。

 前回の「集まるのが大事」では、私は「お前はどのような者か」と問われて曖昧な答えをすることしかできなかった。かろうじて「新興宗教の家庭の子供」と、周辺状況から自らの「何者か」を答えてみたが、しかし私自身については、その宗教的立場も、政治的立場も、分からない、と言わざるをえなかった。
 だが、申請書を書いてみて分かったのは、私は少なくとも社会的には「研究者」であるということだった。
 しかし、「研究者」はある意味で微妙な立場である。政治活動家でも、宗教者でも、哲学者でもなく、ただそれを研究する立場である。要するに私は目下のところ、ある哲学者を研究する「哲学学者」なのである。
 今回の「集まるのが大事」でも、何度か自己紹介する機会があった。
 そこで「西田幾多郎を研究している大学院生」と自分を説明する。すると「西田幾多郎って?」と質問される。そうなるともう自己紹介でなくて西田紹介だ。そして、自己紹介をするよりは西田紹介をする方が楽だ、と思えるくらいには、私は研究者で、哲学学者なのである。
 それだから、私は自己自身が何者なのかについて説明するよりは、西田幾多郎について紹介したり、自分なりの考えを述べることで、自分自身を紹介したい。それによって、哲学学者としての自分を——もしかしたら哲学者としての自分も——紹介できたら幸いである。

 西田幾多郎とは何者か。彼の紹介は、去年のニセNFのとき、「集まるのが大事」ブースで一度発表させていただいた。
 近代日本、西洋の思想の摂取にあわただしい時代に、はじめて独創的な哲学を生み出したとされる哲学者である。「純粋経験」という言語以前の主客未分の経験を重視したことで知られる。
 今回の「集まるのが大事」の発表のなかでも、西田幾多郎は一瞬登場している。高木氏の「民藝」についての発表のなかでである。
 学習院時代の柳宗悦は、当時の校長乃木希典の教育に反発し、結果退学に追い込まれかけた。このとき、彼を擁護して助けたのが、英語教師の鈴木大拙に、ドイツ語教師の西田幾多郎だったという。
 私はこのエピソードを聞いたとき、西田らは柳に昔の自分たちを重ね見たのだ、と思った。
 西田幾多郎と鈴木大拙とは、同じ学校の同級生同士であり、親友だった。「我尊会」という文芸サークルをつくって数名の友人と活動した時期を、西田は後に「私の生涯に於て最も愉快な時期」(XII, p. 170)と回想する。
 しかしそんな中、学校が官立に移管され、校風が一変してしまう。西田らにとっての乃木希典は森有礼だった。

当時の文部大臣は森有礼という薩摩人であって、金沢に薩摩隼人の教育を注入すると云うので、初代校長として鹿児島の県会議長をしていた柏田という人をよこした。その校長について来た幹事とか舎監とかいうのは、皆薩摩人で警察官などしていた人々であった。師弟の間に親しみのあった暖な学校から、忽ち規則づくめな武断的な学校に変じた。(XII, p. 247)

 森有礼のもたらした教育とは、まさに今回の「集まるのが大事」で水野阿修羅氏の言う、兵隊をつくるための教育だった。そしてその教育にこそ、西田は強い反感をおぼえたのである。
 西田は当時、サークル内で用いていた自分のペンネーム「有翼」の由来を説明する文章で次のように書いている。

生亦嘗て放縦不軌、己の欲せざる所は寸毫も人に従わず、飄然去り飄然止る。唯我意之従うのみ。学校にありて校則を蔑視する糞土の如く、洋服は朽れども着ず、鉄砲は腐れども磨かず。厳命も「へ」を聞くが如く酷罰も遠所の火事を見るが如し。行軍あれば則去り、体操あれば則去り、奔馬出れば則去る等、苟も意に適わざるものあれば則必ず羽化して登仙し撓挑としてのぼり去る。忽焉として捕うべからず、恰も鳥の飛去るが如し。(XVI, p. 607)

 また「憲法発布式の日に、我々数人で頂天立地自由人という文字を掲げて、写真をとったこともあった」(XII, p. 248)とも言っており、その当時の写真も残されている。

後列右から二人目が西田。写真では見えにくいが、「頂天立地自由人」は手前右端の旗幟に書かれている。なお、後列左端の人の掲げている旗幟には「Destroy, destroy」と書かれているという。

 いずれにしても、学校、体制に反発していた彼らは、結局退学に追い込まれる。もっとも、正確には鈴木大拙の退学には経済的理由が大きく、また西田についても、退学させられたのではなく、こちらから退学してやったという意識だったらしい。西田は当時をこう語る。

我々が学校から出された様に伝える人もあるが、それは間違である。青年気を負うとでも云うべきか、当時我々の意気は盛んなものであった。かかる不満な学校をやめても、独学でやって行ける、何事も独立独行で途を開いて行くと云う考えであった。(XII, pp. 247-248)

 しかしその見通しは甘かった。同時期、西田の父は事業に失敗し破産。西田は西田で眼を病み独学もままならない状態になる。さらに、「我尊会」の友人の一人が自殺したとの報も入る。西田はその遺稿を編纂したのち、「節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った」(XII, p. 170)。この「選科」というのは、本科生と区別され、図書室で読書することができないなど差別的な待遇で、西田は「何だか人生の落伍者となった様に感じた。」(XII, p. 170)と回想している。
 西田は(そして鈴木も)、このような苦い経験を柳にしてほしくなかったのだろう。

 さて、そんな西田の思想だが、これについて正面から紹介しようとすると、このnoteはもう自己紹介とも、今回の第二回「集まるのが大事」とも関係のないただの西田哲学入門になってしまうだろう。
 そこで私は、今回のいくつかの発表について、西田の思想とからめつつ、自分なりの考えを語ってゆくこととしたい。

 綿野氏の発表のなかで、システム1とシステム2という話があった。非言語的で自動的な直観(システム1)と、言語的で意識的な推論(システム2)が人間の心理には同居しており、我々はそれを適切に使い分けることができない、という。ここでは非言語的で無意識的な直観は、認知バイアスの温床として、理性的な推論を妨げるものとして考えられていた。そしてシステム1の影響をふり払うことはできるのか、できないとしたらどうしたらよいかが様々な論者の意見とともに語られた。
 さて、「非言語的な直観」と言えば、それはほとんど西田幾多郎の「純粋経験」と同様のものではないだろうか。西田の最も有名な著作『善の研究』は次のようにはじまる。

 経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者も其実は何等かの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいうような考のないのみらず、此色、此音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。(I, p. 9)

 純粋経験は、非言語的な直観であるという点でシステム1を思わせる。しかし、システム1が認知バイアスの温床であったのに対し、純粋経験とはあくまで事実そのまま、経験そのままとされる。偏見の渦巻くシステム1に対し、純粋経験はあくまでもあらゆる偏見、「人工的仮定」から離れ、主観・客観の区別さえ「思惟の要求」にすぎないと疑うところにあらわれる、疑うに疑いようのない「直覚的経験の事実」なのである。
 システム1と純粋経験、この二つは共に非言語的な直観である点で同じだが、一方は認知バイアスの温床、他方は「事実そのまま」の経験と、きわめて対照的である。この違いは何によるのか。認知心理学者らと禅の経験をもつ哲学者の見方の違い、とだけ言っても説明にはならない。
 この点について考えてみたところ、システム1について「非言語的」というのは合っていないのではないか、ということに思い当たった。
 先にシステム1について「非言語的で自動的な直観」と言ったが、ここでは何が「自動的」だったか。判断が自動的だったのである。1+1=2、と瞬時にくりだすような自動的な判断こそがシステム1の領野なのである。これは「此色、此音は何であるという判断すら加わらない前」を言われた純粋経験と大きく異なる。赤色を見て赤色と判断する前の、判断する私も判断される対象の区別さえもない次元こそが、純粋経験である。そして、システム1は赤色を見て赤色と言う、というその瞬時の判断にあるのである。
 木を見て木と言い、犬を見て犬と言う。このような自動的な判断にこそシステム1の核心があるのだと考えるなら、これはきわめて言語的な――言語にとって本質的な――事態であるといってよい。思えば認知バイアスとはきわめて言語的な事態なのではないか。綿野氏が紹介した実験によれば、人をコイントスでAチーム、Bチームに分けるだけで彼らの間に内集団バイアス、身内びいきが発生するという。この恣意的な差異化は、きわめて言語的な事態ではないか。Aを見てAと言い、Bを見てBと言う。男を見て男と言い、女を見て女と言う。そして日本人を見て日本人と言い、○○人を見て○○人と言う。このように言葉が立ち現れるところに、認知バイアスはすでに宿っている。
 システム1は人類に原始時代から備わっていた本能的なものかもしれない。だがその本能とはあくまでも「言葉を持つ動物」としての本能なのではないか。
 さて、このようにシステム1が言語的であり、言語的であるがゆえに認知バイアスの温床であるとしたら、同じく言語的であるシステム2はどのように認知バイアスをふり払うことができるのか。結局一つ一つはシステム1の所産にすぎない言語、判断の組み合わせ重ね合わせで我々はいかに認知バイアスから解放されることができるのか。「スローポリティクスを!」と言うが、偏見に偏見の応酬を重ねたところで、そこにどのような議論が可能なのか。こうなると、非言語に対する言語の啓蒙、感情に対する論理の啓蒙というストーリーを単純に信じることはできなくなる。
 ではどうすればよいのだろうか。

 「Aを見てAと言う」というのがシステム1の根本的な形といえよう。この「Aを見てAと言う」が生み出す認知バイアス、もっといえば「妄念」をふり払おうとするのが、鈴木大拙、西田幾多郎が重視した「即非の論理」であった。そう言うことができるのではないか。
 高木氏の発表のなかで、二人の思想家は柳宗悦を退学から救うためだけに登場したのではない。「即非の論理」といった仏教思想によって、柳に影響を与えたことが発表では強調された。民藝は「~だから民藝」という仕方であるのではない。「~にもかかわらず民藝」という仕方で民藝なのである。そしてこの「~にもかかわらず」という考えに「即非の論理」の影響がある、という。
 だがそれはどのような影響だろうか。そもそも「即非の論理」とは何だろうか。発表では民藝への仏教思想の影響は「悪人正機」「不二」「他力」などから説明されたが、「即非の論理」は名前はあげられたもののあまり説明がなかったように思う。差し出がましいが、それについてはこちらで説明してみたい。
 鈴木大拙はこの論理を『金剛経』のなかに見出し、これこそが「禅の論理」であるとみなす。そして次のように公式化する。

AはAだというのは、
AはAでない、
ゆえに、AはAである。

 つづめて言えば「AはAでない、ゆえにAである」というのが「即非の論理」である。
 ここで起きているのは「Aを見てAと言う」という判断の切断である。システム1の「あれは木」「あれは犬」「あれは男」「あれは女」という瞬時の判断を切断し、その判断をその根底で成立せしてめいる「Aでない」次元、単に「木」、「犬」、「男」、「女」とも言えない、経験そのままの豊饒な事実に立ち戻り、そこから再び「Aである」と言う。「AはAである」という平板で、妄念のもとでさえある同一律から、「Aでない」というAもBも私も対象もない境位に立ち戻り、そこから「Aである」と言う。最後の「Aである」は、「A」が「仮の名にすぎない」ことが明らかになったところから言われる「Aである」であり、また「Aでない」次元におけるリアリティに触れるところから言われる「Aである」である。ここで「「Aでない」次元におけるリアリティ」というのは、単に「A」に対する「非A」という意味ではなく、「A」「非A」をその根底でなりたたせているリアリティである。それは西田でいえば、有でもなく、有と対立する無でもない、有と無とがそれにおいてある「絶対無の場所」にあたるだろう。
 そしてこの論理は『金剛経』ではとくに「仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是名般若波羅蜜」という形で登場した。
 「般若」とはサンスクリット語で「プラジュニャー」、「智慧」のことであり、「波羅蜜」とは「パーラミター」、「パーラ」が「向こう岸」の意で、「ミター」は「到る」「達する」を意味する。日本や中国の学者は古くから「パーラミター」を「到彼岸」と訳し、涅槃に移行すること、またそのための修行として捉えた。また、近代のヨーロッパの学者は「パーラミター」を「完全」の意の語と解し、「般若波羅蜜」を「完全な智慧」と捉えた。
 ここではそんな「般若波羅蜜」が、「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである」と言われるのである。ブッダの説いた「完全な智慧」が、ここでは即非の論理で捉えなおされるのである。
 この経典の一節は、「柳の説き給う「民藝」というのは、すなわち「民藝」ではない。それで「民藝」と名づけるのである」と読みかえることができるだろう。そしてそれはまさに柳宗悦の本意であったはずだ。彼は一九五八年の「改めて民藝について」で「民藝という言葉は、仮に設けた言葉に過ぎない。お互に言葉の魔力に囚われてはならぬ。」「この言葉によって一派を興した事にはなるが、これに縛られては自由を失う。もともと見方の自由さが、民藝の美を認めさせた力ではないか。」「民藝を見つめて、「民藝なし」とまでいい切る程にならねばならぬ。」と述べている(柳, pp. 333-334)。
 システム1の生み出す「妄念」を斥けるためには、このような「民藝なし」「Aでない」「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」に一度立ち戻ってみる必要がある。「男」でもない、「女」でもない、「日本人」でもない、「○○人」でもない、ただその誰か、汝と立ち会っているという現場に立ち戻る必要がある。このような現場がなければ、いかなる真摯な議論も成り立たないのではないだろうか。
 そして議論は言葉で行われる。それは「Aである」の世界に戻ってくることである。即非の論理は、「AはAでない、ゆえにAである」と「Aである」の世界に再び戻るのである。
 これと似たような構図を『十牛図』にも見ることができる。『十牛図』とは禅仏教でよく知られた図画で、悟りの階梯を十枚の絵に描き、詩を付したものである。牛が悟りの象徴として描かれ、牛を見つけ捕まえる階梯が描かれる。だが、図は牛を捕まえるところで終わらない。第六図は牛に乗って家に帰るところが描かれているのだが、第七図には牛の姿が描かれない。家の軒先でただ一人くつろいでいるところが描かれる。仏教では、「悟り」に執着してしまうこともまた迷いとされる。もしも人が牛が逃げ出さないかとずっと見張っていなければならないとしたら、そこに自由はないだろう。民藝が「民藝なし」というところの「自由な見方」にあったように、悟りもまた「悟りなし」というところの自由にある、といえよう。そして『十牛図』はそこからさらに自由な自己への執着も去って、第八図に至る。これは丸い枠線に何も描かれていない図であって、とくに「空円相」と呼ばれることもある。「Aでない」の究極の相である。
 だが『十牛図』はここで終わらない。第九図は自然の風景がただ描かれ「水は自から茫々、花は自ら紅」と詠われる。そして最後の第十図。町におりてくる男の姿と、彼に出くわす町の人が描かれる。「Aでない」の究極を通って、しかし最後は町におりてきて、人々と交わる。「Aである」の世界に戻るのである。

(第六図「騎牛帰家」)

(第七図「忘牛存人」)

(第八図「人牛倶忘」(「空円相」とも呼ばれる))

(第九図「返本還源」)

(第十図「入鄽垂手」)

 柳は「民藝なし」と言い切る。しかし「改めて民藝」と言う。「Aである」「民藝である」の世界に戻り、友人たち、民藝協会の同朋に声をかけるのである。
 宗教的なニュアンスを抜きにしても、「AはAでない、ゆえにAである」という考え方は重要ではないかと思われる。たとえば、今回の発表で言えば、田中氏ははじめに「ひと」「まち」「日常」という言葉に気を付けるよう注意した。よく口にされる言葉だが、空虚なおためごかしになっていないかと注意を向けたのだ。そしてその上で改めて「ひと」「まち」「日常」の話をしたのだった。これもまたある種の「AはAでない、ゆえにAである」といえるだろう。システム1の「Aを見てAと言う」を自明視せず、「Aでない」のリアリティに立ち戻り、改めて「Aである」と言うこと。こうしてはじめて真摯な議論が可能になるだろう。システム2も、ここから捉えなおされるべきだろう。

 しかし、具体的には真摯な議論はどのように可能になるのか。もっといえば、真摯な政治はどのように可能になるのか。
 綿野氏が問題にしたのは、あくまで政治の問題である。今日の政治は途方もなく複雑化し、どこに「Aでない」のリアリティを見定めるべきか――あるいは見定めるべきリアリティがそもそも存在するのかさえ――分からない。他方で我々は、どこまでも「Aである」の言葉を投げつけ合うことに特化した情報環境のなかで、「#AはAです!」「#BはBです!」とただただ「言葉を持つ動物」らしい生態をみせている。この状況に対して、「AはAでない、ゆえにAである」はどこまで効力をもつのか・・・・・・。

 私は西田幾多郎の研究をしていると自己紹介したが、より詳しく言えば西田の後期の思想をその対象にしている。
 後期の西田には、文体の難解さだけでない難しさがある。それは当時の時局、政治との関係である。つまり「戦争協力」の話である。
 この種の批判は戦後多くなされた。たとえば、『日本文化の問題』が日本精神の特殊性を讃えているとか、「世界新秩序の原理」が当時の軍部の方針に哲学的裏付けを与えて擁護しているとか批判されるのだ。
 しかし戦時下の日本に戻るなら、西田はむしろ右翼から攻撃される側であった。とくに天皇機関説事件にはじまる大学粛正運動を扇動した蓑田胸喜ははげしく西田を批判していた。また西田自身の考えとしても、当時の日本の行き方には反対だった。亡くなる少し前の西田は鈴木大拙に宛てた手紙のなかで「民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる」(XIX, p. 426)と述べている。
 それがどうして戦後こうも批判されるようになったか。それは、西田の時局に対する批判の戦略に原因がある。その戦略とは、西田の孫弟子、上田閑照の表現を借りれば「概念の争奪戦」というものだ。たとえば西田は『日本文化の問題』のなかで次のように言う。

真理に面するを恐れるものは、戦に臨んで敵刃を避けるものに等しい。自己を立つるに急にして他に耳目を蔽う如きは、由来我々の日本精神ではない。日本精神は何処までも正々堂々公明正大でなければならない。天地正大気、粋然として神州に鍾る、秀ては不二の嶽となり、発しては万朶の桜となると云う。東洋に於ては孔子以来、西洋に於てはプラトン以来、哲学は政治と離れたものではない。併し哲学が徒らに政策に追従する時、それは曲学阿世たるを免れない、イデーのない政治は真の政治ではない。イデオロギーはイデーを含まなければならない。(XII, pp. 288-289)

 ここで西田は単に日本精神を称賛しているのではない。そうではなく、非論理的で盲目的な従順さは真の日本精神ではない、と言うことで、当時の他の「日本精神」主義者を批判しようとしているのだ。精神論に突っ走り、ひたすらの忠孝を説く人々の手から「日本精神」という概念を奪還しよう、というのが西田の意図なのである。
 「世界新秩序の原理」は、軍部から分かりにくいとの声をうけて、西田以外の人が筆を加えたという複雑な事情があるが、これも単純に軍部の擁護とみることはできない。この文章は軍人らの前で行った講演がもととなっているのだが、その席での質疑応答のなかで、西田は次のように一喝したという。

何だそれは、帝国主義でないか。共栄圏である以上、皆が満足しなければ共栄圏ではない、勝手にこちらから決めて共栄圏だと、ああせい、こうせいというんだったら強制するんだから、皆他の自由意志を束縛するんだ、そんな共栄圏はないもんだ。(XII, p. 471)

  しかし、このような戦略は、戦後の批判者の目には、「「日本精神」だとか「共栄圏」だとか世迷言を抜かしているということは、こいつは所詮右翼で国家主義者なのだ」という印象しかのこさなかったのだろう。あるいは意図がどうであれ、「日本精神」「共栄圏」などという概念を肯定した以上、軍部や右翼と同罪、と片付けるのかもしれない。
 当時の西田の言動は「戦争協力」と単純に言ってしまうことはできない。それは西田なりの時局に対する抵抗であったと言えるだろう。
 とはいえ、その抵抗は実を結ぶことはなかったのだが・・・・・・。

 私がここで戦時下の西田の話を突然するのは、先ほどの「AはAでない、ゆえにAである」は実際の政治には効力を持たないのではないか、という問題と重なるからである。
 後期の西田は、歴史の問題、社会の問題について深く思索を向けるようになった。だが、それは「純粋経験」や「絶対無の場所」といった「Aでない」次元のリアリティについての思索から離れてなされたものではない。西田は、「Aでない」次元に目を留めながら、「絶対矛盾的自己同一」とか「行為的直観」といった難解な術語を用いつつ歴史や社会の問題を深く考察するようになったのである。
 私が研究しているのは、まさにこの後期の西田の思想で、正直まだ多くをつかめていない。だから以下は研究途上の考えである。
 「その抵抗は実を結ぶことはなかった」と言った。これはつまり西田の哲学に当時の時局、全体主義に抗する力がなかった、ということではないのか。さらにいえば全体主義に資するところがあった、ということではないか。このように考える者もいる。
 たとえばある学者は、西田の「私は我々の自己を歴史的主体として考えることはできない。」(X, p. 75)との言葉を引いて、西田は個人の主体性というものを否定している、それゆえ全体主義に資する哲学となったと論じた。これについて、そもそも西田の「主体」というのがいわゆる個人の「主体(subject)」とは違う独特な概念であり、その引用のすぐ後に「我々の自己は創造的世界の創造的要素と云うことができる。」とも言っていることから考えても、西田は個人の(いわゆる)主体性、創造性を否定しているとはいえない、といったことを論じたのが先月七月二十四日の西田哲学会での私の研究発表だった(今回のnoteが遅くなったのは、学振申請書に加えてこの研究発表の準備をしなくてはならなかったことによる)(具体的に西田における「主体」がどのような概念なのか知りたい方は研究室の紀要に載せた私の研究ノート「西田幾多郎における「主体」の概念」を参照していただきたい)。
 私もまだ研究の半ばだが、西田の哲学は全体主義的とはいえないだろう。しかし、だからといって単純に個人主義的でもない。このあたりが、評価のしにくいところだ。私見では、後期西田の「ポイエシス」「制作」を中心になされた歴史についての思索は、今回の発表で高木氏が「「公」と「私」がふれるところの暮らしのリズム」と説明した柳宗悦の「工藝的なるもの」の考えと通じるものがあるように思われる。西田は、個人の行為は単に個人の恣意、創意で可能になるとは考えず、「種」という「行為のパラデーグマ(範例)」を通してなされると考えた。しかし、一方的に「種」が「個」の行為を規定するのではなく、「個」はその一々の行為、制作を通して「種」を破り、変化させることができる。そしてそれでこそ「種」は生きたものとなるのである。
 いずれにしても西田は、個人を否定することは「社会の機械化」「社会が社会自身を否定すること」「社会の死」(IX,p.128)であるとする。そして「種」を破るような「個」があってこそ「不調和の調和として生きた社会というものがある」(IX,p.122)のである。
 このような考えを、当時の全体主義的風潮への批判と見ることはできる。だが逆に、当時の社会の現実を覆い隠し、現実の社会がさも「生きた社会」であるかのように描いたと批判することもできるだろう。当時の社会としても、自身を全体主義と自認するようなことはなかった。日本社会は、西洋の全体主義/個人主義という対立を生む「近代」を「超克」したものであるとされ、「共存共栄」というイデオロギーが現実を覆い隠した。もしも、西田の言う「生きた社会」というのが現実の当時の社会なのであれば、それは同様に、現実の隠蔽としてしか意味を持たないのではないか。
 あるいは「生きた社会」というのがあくまで理想であって、現実の社会がそうであるとは西田は言っていないと擁護することもできる。だがこの擁護はかえって問題含みである。「生きた社会」があくまで理想で、現実における対応物をもたないなら、そのような思弁は現実における社会の問題を論じるのに役に立たないとも考えられるからだ。「生きた社会」という理想を語るなら、それに対する現状の社会を論じ、そしてその現実の社会を「生きた社会」に向けかえる方法についても論じるべきではないか。そしてそのような方法についての思索は弱いように感じられる。
 要するに、「現実の社会がすでに「生きた社会」である」と言えば、西田批判者の言が当たってしまうが、「西田は理想として「生きた社会」を論じた」と言えば、現実の社会を「生きた社会」へ変える理論の欠如が目についてしまうのである。
 この問題についてはまだまだ研究する必要があるだろう。だが今の段階では、私は次のように考えている。
 西田の論じる、個々人が「種」を通して働き、「種」は個々人を通して生きたものとなるという構造は、いかなる全体主義的社会であったとしても存在するのではないか。たとえば、西田はマリノフスキーを援用して、いかに習俗にしばられているように見える原始的社会にも「罪」というものがある以上、個人というもの、自由というものはある、とする。また、当時の全体主義的風潮も、単純に個人が否定されたというだけではなく、軍人の独断専行や臣民の自発的行動によって支えられていたと言えるだろう。
 西田の「生きた社会」論は、個人の創造性と社会の創造性とが調和するユートピアを論じたものでなく、「不調和の調和」としてある現実の社会を論じたものであるかもしれない。西田は「堕落するものは、固、自由なものでなければならぬ。自己疎外に陥るものは、固、自己を有ったものでなければならぬ。」(VIII, p. 414)と言い、「歴史的現実の世界は無限なる混乱の世界と考えることができる(世界は嘆きの谷である)。創造的なればなる程、然云うことができる。」(VIII, p. 444)と言っている。「生きた社会」とは、まさにこのような意味で、現実の社会なのではないか。
 この考え方は、柳宗悦の「民藝の自由」の考え方とも通じるところがあるかもしれない。ある共産主義者の「ひどい封建時代に生れた搾取時代の民器に、何の美があり得よう」との批判に対して柳宗悦は次のように答えた。

私どもからすると、どんな圧迫も、民藝の自由には歯が立たなかった事をこそ、見つめたいのである。現に美しい数々のこの民藝品の存在は、少し位の圧迫には、屈しない別天地が、平の者にはあった証拠ではないか。これは圧迫に反抗して生れた自由ではない。同時に屈服した処から来たのでもない。ものを作る時、もっと素直に自然や伝統に和したところから来た美しさなのである。封建制と別にかかわりはない。封建制だから生れたのでもなく、封建制がなかったから生れたのでもない。封建だろうが何だろうが、そのままで生れてくる美なのである。ここがいとも面白い事実である。(柳, pp. 337-338)

 抑圧と圧迫がありながら、それでもなお息づく美、ここに「民藝の自由」がある。西田の「生きた社会」というのも、このような意味で、いかに抑圧、圧迫が激しくなろうとも、あると言わざるをえないものなのではないか。
 先に個人の否定は「社会の死」であるとしたにもかかわらず、いかに抑圧、圧迫があろうと「生きた社会」である、とするのは不合理に聞こえるかもしれない。だがそもそも西田にとって「生きる」ということは単なる「死」の否定ではない。西田はあるところで「普通には、唯、生の否定として生から死を考えるが、真の健康は病気を含み、真の生命は死を含むものでなければならない。」(VIII, p. 281)と論じている。西田にとって「生きる」ということは、そのような矛盾を含んだ「不調和の調和」としてあるのだろう。
 しかし、ここでやはり問いが残る。西田の哲学には結局、当時の時局、全体主義に抗する力がなかったのではないか。「生きた社会」というのがどのようなものであれ、社会をより抑圧の少ない方へ、圧迫の少ない方へいかに向けかえることができるか、という思索が弱いのではないか。
 そしてこれは柳の「民藝」にも通じる弱さといえるだろう。封建制の現実を無視して民藝の美をただ讃えるところにいかなる変革の契機があるのか。
 この問題は、映画『この世界の片隅に』にしばしばなされる「戦争美化」との批判とも通じるものをもつ。すずという主人公を中心に戦時中の「ひと」「まち」「日常」を描くことで、この映画は「戦時中は悲惨なことばかりではなかった」というメッセージを与えることになるのではないか。それは結局のところ「女文字」のプロパガンダ、「暮らし」のファシズムでしかないのではないか。
 こうした批判はある程度は正当だろう。
 だが、そう言えたとしても、戦時中にもすずのような人の「暮らしのリズム」があったのは確かだ。封建時代にも「民藝の美」があったのは確かだ。そして今回畑中章宏氏が発表したように近世日本にも自由への運動はあったし、今回の会が明らかにしたように今日の日本社会においても、さまざまな活動、運動はあるのである。この事実は単に無視してすませてしまうことはできない。
 「AはAである」というシステム1のかかえる問題をのりこえる道を求めて「AはAでない、ゆえにAである」という考え方、西田や柳の思想について考察した。少なくとも、現時点での私の考察、研究からすれば、彼らの思想は即座には今日の社会や政治の問題に対する答えにはならないだろう。だが、だからといってそれらが無意味であるということにはなるまい。むしろ、それらをふまえて深く考えることで拓かれる道があるのではないか。そういったことを今私は考えている。

 以上が、現時点での私の自己紹介である。

 参考文献
『西田幾多郎全集』(岩波書店) 一九六五年、六六年に刊行された旧版から引用。旧字旧仮名は新字新仮名にかえて引用した。巻数はローマ数字、ページ数はアラビア数字で示した。
鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道 新版鈴木大拙禅選集第四巻』(春秋社)
柳宗悦『民藝四十年』(岩波文庫)

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