悪魔のささやき
悪魔は、人の弱点をついてくる。
弱い心につけこんでくる悪魔のささやき。
どのような悪魔かは、人それぞれであるが、生涯を通して乗り越えなければならないものだと私は思う。
例えば、「儲かる」というニュアンスが含まれるとついつい横道にそれてしまう人にとっては、それが悪魔のささやきだ。
「楽しい」とか「自分らしさ」とかそういうポジティブなものであっても、その言葉の奥に悪魔が潜んでいることがあるだろう。その言葉があるだけで「素晴らしいもの」として疑うことなく妄信してしまうような場合だ。
私にとっての悪魔は「助け」を求める声。
物心ついたときから、困っている人を見ると放っておけない体質で、親切心が仇となり、トラブルに巻き込まれることがたびたびあった。
人に親切にすることは、それだけを見たらよいことのようにも思える。
しかしながら、親切心につけこまれトラブルに巻き込まれることは案外おおいものだ。
人助けをしていて学校や会社に遅刻するといった、テレビドラマなら美談として語られるようなことであっても、度重なると人生が狂いっぱなしだ。いい加減対策を講じなければと自覚したのは20歳代なかば。
親切にしたことで「困った人につけまわされる」というトラブルが重なり、人助けという名前の「問題行動」ではないかと思うようになったのだ。
そこから自制心のもと悪魔のささやきを判別する心の目を養うことにした。
「今目の前にいる人は、本当に私が助けるべきなのか?」といった類の自問をしてから助けるようにしたのだ。
つい先日も悪魔のささやきに遭遇した。
台風の影響でバスが運休しているときのこと。
「バス運行はこちらで確認してください」というQRコード付きの掲示物がバス停に貼ってあり、スマホから接続して情報を集めていたとき、ふと生あたたかいモヤッとした気配を感じて振り返ると、幸薄そうな女性が立っていた。
その人は「バスが止まってるんですか?」と私に聞いてきて、やたらとスマホを覗き込んでくる。
馴れ馴れしさなのか、モヤッとした気配のせいか、私はその女性に対して生理的に受け付けない何かを感じた。
遅れてしまうのは困ったなぁと怪訝そうな顔をするので、これからどこに行くんですかと尋ねてみると仕事に行くのだという。
自分が通勤する立場となったら、バスが運休していることを知らず、バス停に向かうということをするのだろうかと疑問を感じたので、さらにいくつか質問をしてみた。
会社に電話をしたほうがよいのではという流れになり、その人は自分の携帯をカバンから取り出すのだが、なぜか電話が通じないという。
バッテリー電池のカバーを外して、電話が通じないのはおかしいなぁといって、私の様子を伺っている。電話を貸して欲しいと暗にいっているのだと感じた。
20歳代の私は間違いなく携帯電話を貸していただろう。小銭がないというのならテレホンカードや10円玉数枚を無償で提供するなど喜んでしていたはずだ。
けれども、「ここは断りどころだ」と判断し、バスの運行が再開されたという最新情報を告げ、私はその場を立ち去った。
一見「助け」を求めているようであっても、助けの必要のある場合ばかりとは限らない。
親切心を巧みにあやつる狡猾さは悪魔のささやき。
その誘惑に負けず、自らを守っていきたい。