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賢者の石l朗読劇「Equal–イコール-」感想

10月10日 17時 
DDD青山クロスシアター
脚本 末満健一
演出 元吉庸泰

染谷俊之×細貝圭

ワタナベの上演から気になっていた本作。
韓国でのロングランとともに日本でのリーディングでの上演、おめでとうございます。
韓国版もとっても気になりますね。

本当はお芝居で見たかったのですが、この状況下ということもあり朗読劇でした。
同じ末満さん戯曲が、同時期に3つ上演されるという(黑世界、韓国版equal、本作)という凄まじい勢いを感じました。
黑世界で行っているモーションリーディングとはまた別のしっかりと言葉を聞かせる朗読劇でした。

久々に行った青山クロスシアター、前回は絢爛とか爛漫とかでしたね。
地下にある小さい劇場ということで赤坂REDシアターを彷彿とさせる劇場ですね。

本編の感想に入る前に、私が見た日は細貝さんのお誕生日でした。おめでとうございます!いろんな組み合わせがあったので誰のをみようか悩んだんですが、私が末満さん演出脚本で演じる染谷さんが好きなので、このお二人になりました。
細貝さんは私が自分のお金が溜まって、自由にいろいろ観劇に行くようになったとき初めて見た作品にいらっしゃいました。何かと気になる作品によくいらっしゃる感じです。

そんな面白い組み合わせの2人。
TRUMPシリーズが好きな人ならダリちゃんとドナテルロって思いますね。
そんな2人の、永遠に続く自己定義の話です。

聖書の一文を用いたはじまりと場面転換。
徐々に明かされていく神に背くような行いの話に、聖書を用いてなぞり物語進んでいく。

旧約聖書に天地創造ですね…。
大学の時に読んだきりなので、ちょっと間違ってるかもですが大体こんな感じ。
1日目が日曜日説とか月曜日説とかいろいろあるそうです。

1日目 神様が昼と夜を作る。
2日目 神様が空を作る。
3日目 神様が陸と海を作って植物を生やした。
4日目 神様が太陽と月と星を作った。
5日目 神様が魚と鳥を作った。
6日目 神様は四つ足の生き物を作り、神様に似せた人間を作った。
7日目 神様のお休み。

医者のテオと、テオの親友ニコラ。
彼らの話の始まりは必ず仕事からテオが帰ってくるところから始まります。
毎回変わらずに、婦長さん(名前が出ない…)に代わりがないかを確認する。
ニコラは肺の病を患っていて、家の中にる。
その日あったこと、過去の思い出、テオとニコラとニコラの妹と3人で行った時計台の話、幽霊の話、そしてテオがニコラの妹が好きだった話。
そして、ニコラの妹はもう結婚している話。テオが向かいのパン屋のマリエッタが気になっている話。
取り止めのないような話の中に、少しずつ違和感が広がっていく。

月曜日にテオは染谷さん。
火曜日は細貝さん、水曜日は染谷さんと、2人が入れ替わるので、どちらがテオでどちらがニコラなのかどんどん分からなくなっていきます。
ネタバラシがあった時もどちらが本物のテオなのか分からず…多分細貝さんかな…。(永遠の捉え方がこうくるかー!って考えてたら余計混乱しました)

亡くなってしまった親友を生き返らせるために錬金術に手を出したテオが、自身もニコラと同じ肺の病にかかっているとわかってから、方針を変換させる。
自信が永遠にあり続けることで、ニコラを生き返らせる方法を探し続ける。そのためにテオは死んではいけない。不死でなければいけない。でも自身も肺の病にかかってしまったから、自身の分身をホムンクルスを作り自分に代わりに生き続ける自分を作り出した。

ざっくり言ってしまうとこういうお話ではあるんですが、テオという存在を自分自身を曖昧にさせてまで、根幹にあるのはニコラへの思い。

テオにとってニコラはどんな存在なのか…。

僕は君であり、君は僕だ。とは直接言ってないのですが、まぁそういうことです。
僕はテオで君もテオだ。僕たちはニコラのために存在している。
僕たちの親友であるニコラを生き返らせるための、存在としてテオを定義する。そのためにテオは永遠でなくてはいけない。

どちらかがどちらかによって作られたホムンクルス。
どちらもオリジナルであることを主張し、どちらもオリジナルでないかもしれない。
もしかしたら初代が2代目を作ってる最中かもしれない。とか色々考えさせられますね。
特に後半は2人の目的がだんだんニコラを取り戻すから、どちらがオリジナルのテオなのかを、正しく実験に成功したテオの行動とは何かを突き詰めることに変わっていくので、ずっとお前は誰だ!を突きつけられます。

わたし末満さんの「お前は誰だ?」の問いかけがうっすらと見える話が大好きなのですが、equalはもろその問いをぶつけてきてくれてとっても良かったです。

永遠に延々と続く自分は、お前は誰だという自己定義。
どちらもテオで、もしかしたらどちらもテオでないのかもしれない。自分が自分であることを証明できるのは、きっとニコラだけ。だから互いに記憶の混乱の中でテオとニコラの役割が入れ替わるのかなと思いました。

ある意味で世界中でたった2人きり。
だからこそ、自分の存在は相手によって成り立つものになってしまうのかもしれないですね。

そう考えたとき、序盤の賢者の石が切なく思いました。
ニコラをなんとしてでも取り戻す。賢者の石を見つけ出す。そのためにどんな手を使ったていい。

鉛などを金に変えるときに使われるとされる賢者の石。
とあるものを違うものに変える=そのもの存在を塗り替えることができる石。死んでしまったニコラという存在を、生きている存在のニコラとして塗り替えることができるかもしれない。
テオにとってのニコラはそれほどまでに大きな存在だったんでしょうね…。

二人のテオだからこそ、女性の好みも、趣味趣向も似ている。
だからこそ自分たちの存在の秘密を知ってしまったマリエッタに対してどう動くか。

すごく試される部分でした。
だって、好意を持っている人なのに、自分の秘密を知ったからどうするかと考えるんです。
ようするに、ニコラとマリエッタを天秤にかけてニコラを選んだんですよ。

もしかしたらマリエッタを選んでいたら、親友の死を乗り越えて自分の生を最期まで全うできるかもしれないということをかなぐり捨てて、ニコラを生き返らせことを選んだ。
でもそれって、必然だなとも思うんです。
だってテオの存在を定義するのはニコラなので。

このお話の面白くて残酷で切ない部分は、自分で自分のことを肯定できないんです。
自分は自分だ!僕は僕だ!と言い切れないんです。目の前にいるテオが本当のテオかもしれない。そしたら自分は偽物(ホムンクルス)かもしれない。そのかもしれないの疑惑につきまとわれて、自分を肯定できない。
だから自分の存在を定義するためにニコラが必要なんです。

苦しいなと思いました、自分存在を他者に預けるのは。とても苦しい。
でも自分を自分だと自分で肯定するのはすごく恐ろしいことなので、テオの気持ちもわかるなと思います。

もしもの未来を全て断ち切って、ニコラともに未来へつなぐことを選んだテオの永遠に続く自己定義の物語。
わたしが見たequalという話はそんな印象でした。

相変わらず、末満さんのお話は好きです。
山浦さん演出のやつ見たかったな。末満さん演出版はそのうちDVDを買おうと思います。
三上さん気になりますね…!(静岡県民だと土曜夜のグルメの番組の印象です笑)

こんな状況下で朗読劇という形での上演でしたが、言葉の重み、言葉遊びの中で見え隠れする真実を探すのがとても面白い作品でした。少人数作品はずっしりと重いものが多くて見応えがあって好きです。
またいつか、今度は朗読劇でなくお芝居として見れる日が来ますように。