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G.ガルシア・マルケス「コレラの時代の愛」 木村榮一訳

愛は不定形便しかないことを本書で知ることになった。本の冒頭から半分くらいまでは、突拍子もない暮らしの知恵とか

うれしさのあまり舞い上がったフロレンティーノ・アリーサは、午後の間中バラの花を食べながら手紙を一語、一語、何度も読み返した。読めば読むほど食べるバラの量が増えていき、真夜中ごろにかると何度も読み返し、あまりにも沢山のバラを食べたので、母親は子牛にするように彼の頭を抱えてヒマシ油を飲ませてやらねばならなかった。_p106

比喩の美しさに惹きつけられた。

明かりを煌々とつけた真っ白で巨大なその船は、柔らかく煮込んだシチューと茹でたカリフラワーの航跡を残して航行していた。_p140

主人公の一人であるフロレンティーノ・アリーサは文書をどんなに努力しても叙情的にしか書けない。愛するフェルミーナ・ダーサへの想いが溢れてしまうからどう処理していいかわからないというのだ。読後に思い返せば、美しい比喩が地の文で生かされているというのも、アリーサの想いが表現されているということだろうか

さて、あらすじにも書いてある「52年にわたって愛を貫いた男女の話」というのを字義通りに受け取っていたので、生半可な心構えだったと半分を過ぎたあたりから確信していった。その内容の理由をここでくどくどと書いてしまうのは野暮だと思った。

一ついうならば、ひとが一般的に知ったり、望んだりする"愛"を、アリーサの目の前に起きていることに演繹しようとしたら不倫になったり、姦淫だったりするのかもしれない。でも、起きていることの周りの諸関係の意味をもっとくだらないことと同じように引きずり下ろしたら、たちまち起きていることは愛になる。

いや、まあ本当はわれわれがその関係を了解できるんなら、愛とよばなくたっていい。でも、アリーサでさえも「一体どちらが本当の愛なのか?」と思うことがあった。腰から上の愛と下の愛と呼んだ、サラ・ノリエーガのような女性もいた。

結局その問題を集約してしまうとこういうことだ。

つまり、人は同時に何人もの人と、それも誰1人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができると言う教えを学んだのだ。桟橋には人が大勢いたが、その中でも孤独な思いにとらわれていた彼は激しい怒りに駆られてこうつぶやいた。人の心には売春宿以上にたくさんの部屋があるんだ。_p391

宿に入る人間と、宿で待っている人間が分かっていればいいんだ。

さて、これだけいわゆる「浮名」を流してしまうと、アリーサのダーサへの愛は都合のいい愛のようにも思えてしまう。でも違うのだ。本を読んでいても、悲しい別れがあって涙を流しても、その次にはダーサの思い出を考えてしまう。

吃驚したことは、80代になりお互いの愛を確認するなかでアリーサが全くありえもしないのに「あなたの愛のために貞操を捧げた」といった趣旨の発言をダーサにする。そしてダーサも、そんなことがありえないと知りながら、その愛が本当のことだと確信する。

人生を何度繰り返せばこの境地に達するのか全く見えない。僕はそんな深遠な愛よりも、気になっていたことがある。フェルミーナ・ダーサはアリーサとの若かりし頃の思い出がつねにちらついてはいたけれど、決してアリーサのことを愛してきたわけではなかったことということ。喉元に刺さる魚の骨みたいに気になっていた。
慎重に慎重を重ねて、アリーサは改めてダーサに、しかるべき時を待ち、愛を重ねて伝える必要があった。10代の頃のような過去の焼き直しのようなことをすると、ダーサにたちまち突き放された。

愛は確固たるものではない。過去は、愛の手がかりにはなっても基盤にはならない。不定形で現在形の綱渡りみたいな真実がぼくは本当に恐ろしい。

追伸
コレラの時代の愛を読み始めたのは、この世相が理由に他ならない。でも結局「コレラ」は「チェーホフの銃」のような扱いを受けていた。われわれの時代におけるコロナをこんな形で利用したら、、、愛を前にすれば権威も年齢も陳腐なのだ。

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