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日本の美意識 4 花鳥風月をめでる

「自然を背景にうまれた日本の美意識」4
花鳥風月をめでる

はじめに、ここでいう「花鳥風月」はいわゆる、自然の万物のことです。そもそも自然の定義が、曖昧ですが、太古の昔から地球を取り巻くもので、人の手が加えられていないものとします。天地にあるもので、それは植物であったり、気候であったり、地形であったり、動物であったり、人が介入せずにあるがままのものを「自然」とします。
そして、「花鳥風月」は、自然の姿をあらわす時に、代表として挙げているもので、花イコールフラワーとか、鳥イコールバードとか、そういう限定的なものでは無いです。


 花鳥風月は花や鳥などの自然をあらわすもので、古くから絵画や和歌などの題材とされてきた。『万葉集』には、花鳥風月をとりこんだものが多くある。そこに詠まれる自然は、五感に感じたものを客観的に、美しい、素晴らしいなど、ストレートにうたったり、あるいは、感じた感覚と作者の気持ちをリンクさせた表現がみられる。

『古今和歌集』(醍醐天皇の勅撰和歌集 延喜5年(905年)~12年(912年))の冒頭
 やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思うことを、見るもの聞くものにつけて言い出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、たけき武士の心をもなぐさむるは歌なり。紀貫之

自然は感情や思考を表現する主な手段であるということがしるされる。
ここで注目すべきは、やまとうた(和歌)は人の心を種としているということ。そしてそれは、自然のものに心が触れたときに歌となるということで、感情の表現に自然から感じたことをあてることがうかがえる。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふるながめせしまに 
小野小町 『古今集』 春113

平安期に詠まれたこの歌は、花のうつろいに自分の老いなどのうつろいを例えたもので、花(桜)に、外観から得る感情だけでなく、作者の心情や時間の流れをうつしあらわしている。
花鳥風月をみたままの感想としてストレートにあらわすのではなく、自己の感情も投影したもので、そこには自然への主観的視点がみられる。

自然を題材に歌を詠んだものに、屏風絵と屏風歌がある。これは、屏風に描かれたものを題材に歌を詠む、あるいは歌が先にあり、あわせた絵を描くものである。現存する最古の屏風の《山水屏風》には歌を記した色紙形の形跡がみられ、恐らく屏風絵であったとみられる。

 ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは 
在原業平朝臣 『古今集』 秋294

この歌は、紅葉が描かれた屏風を前に詠まれたものと伝えられており、実際に紅葉の龍田川に出向いて詠んだのではない。
このころの歌が自然のものを題材とすることや、屏風などの装飾品に自然を描くことが、宮廷ではポピュラーであったことがうかがえるだろう。

 『万葉集』などに詠まれた自然は人の感情とリンクさせたが、逆に特定のものが特定の季節を連想させ、そこからさらに特定の感情を連想させるようにもなる。
例えば、花といえば桜、季節は春、咲きゆく花や満開の姿は心浮き立つ心情だが、散りゆく姿ははかなさや寂しさを感じる。あるいは、鹿は秋、そして赤く色づいた紅葉、どことなく悲しげな空気感などで、それらの季節を連想する文物は、のちに「季語」として定着する。おもしろいのは、これらの季語を、多くの人が共通して認識しており、今日でも日常的に使われることだろう。


 その後、自然の情景を歌にあらわし自らの心情をうつしこむ傾向は、和歌においても連歌においても主流のものとなる。

 願はくは 花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 
西行 『山家集』『続古今和歌集』

願うことなら春の陰暦2月15日(釈迦入滅の日)の満月の頃、花(桜)の下で死にたい。という西行の辞世の句である。この「満月」は、涅槃図などから釈迦の入滅は満月の夜であり、また、満月は、仏の涅槃は欠ける所がなく、円満完全にして万徳を成就するという表れであるとされることから、歌中に満月をいれたことは自然なことだろう。少し深読みするなら、西行は、月に人生を重ねており、満月は、人生における絶頂期のたとえとも受けとれる。願はくは、欠けて滅びへ向かう人生の衰退期ではなく、いちばん良いときに死にたいという、無常観が感じられる。
更にこの花(桜)は、満開のものと考える。はかなさを感じる散りゆく桜ではなく、満月と同じように、人生の満ち足りた時を思っているのではないだろうか。

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 裏の苫屋の秋の夕暮れ 
藤原定家 新古今和歌集 巻四 秋歌上363

三夕の歌といわれる定家の歌だが、この「花や紅葉もない夕暮れ」は、その後に鑑賞者が心に感じるものへの誘導材(造語。導入となるものへ誘導する素となるもの。という意味で使う)であり、この歌は、自然の景観を詠むより、人の心に重心が置かれているとみられる。

 このように、自然のとらえ方や趣意は変化を続けてきた。

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