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日本の美意識6 無常観

 「自然をもにした日本の美意識」6 無常観

 平安末期には末法思想が広まり、「無常」を意識するようになる。末法思想は、仏滅後2000年にあたる末法が永承7年(1051年)になることと、平安時代末期に災害や戦乱が頻発した事から、終末論的に捉えられた。そして、特に死後の極楽浄土への往生を願うといったことが流行り、浄土教が広まった。極楽に導く阿弥陀の信仰は、もちろん外来のものであるが、日本ではその外来の文化を昇華させ、独自の姿をみせることになる。
例えば、極楽浄土へ生まれ変わる思想は、日本において「来迎図」という独自の変化をみせる。極楽浄土に往生する方法は『観無量寿経』にも説かれており、大陸でも図像などが残る。それらは、人間側が極楽へゆく様を表現したもので、「来迎図」のように、あちらから迎えに来るという都合のよい解釈は日本独自のものだろう⒄。阿弥陀が迎えにくる考えは、日本古来の神々が、見えないものであったこととも無関係ではないのではないか。日本の神は、みえないため、人々は神のおとづれを、気配として感じるのみであった。そのため、神が訪れるための鳥居を用意し、神がいる森や山を祀るのだが、この「おとづれ」の考えが、阿弥陀の来迎という考えにむすびついたのではなかろうかと推測する。

(※ 平等院鳳凰堂及び、そこに座す阿弥陀如来は、大陸から渡来した浄土の世界を経典のままに表現しているようだが、細部においては密教との融合がみられるなど、日本独自の解釈がみられる。
『観無量寿経』にある十六観には浄土へ往生する様を視覚化したものがあるが、それらは、人間側が極楽へゆく様を表現したもので、「来迎図」のように、あちらから迎えに来る様子をあらわしたものではない。「来迎図」は、更に「早来迎」へと変化するが、二菩薩を伴った阿弥陀と奏楽菩薩天人らが舞うという浄土の基本形と来迎という設定は変わらない。)

「無常」は仏教用語である。浄土教では死んだ後、阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれ変わることを説くが、死後の世があるということは、今生きているこの世は仮のものであり、いつか己はこの世からは消えてしまう。そのような、この世に生をうけたもの全ては、いつかは死に滅びる。現世におけるすべてのものが「常にそのままで無く」、移り変わりゆくことを「無常」とあらわす。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。鴨長明『方丈記』」は、まさに無常をあらわす文であろう。そしてそこには儚さや虚しさが生じるという考え方が無常観である。
(※観は「仏語。物事を細心に分別し、観察すること。また、心中で深くみきわめて、ものの本質を悟ること(コトバンク)」である。無常観は無常感とするものもあるが、感は「感じること」の意なので、本文では観を用いる)

無常は平安末ごろから仏教用語として使われるようになったが、自然の中にその考えを見出す傾向は古来よりあった。それらは、『万葉集』にもみられ、鈴木貞美は「『万葉集』の天地景物の感受に、仏教的無常観を受け取る<素地>として「過ぐ」「移る」を指摘し、すでに「はかなさ」に向かう傾向があった」と述べる。


草薙正夫『幽玄美の美学』で、植木寿蔵「禅は美術に影響したか」の論文における「禅が美術に影響したと考えるのは誤りである」に賛同し、逆に、「日本民族に固有な無常観的感情(もともと日本民族が本来的にもっていた世界感情や人間的感情と述べる)や慈悲としての「やさしさ」などという民族的感情の素地がすでに存在していたということ」が、仏教が日本で根をおろした理由のひとつになるのではないかと述べる。そして、それらの意識が、渡来した「無常」という言葉で哲学的に自覚されるようになったと述べる。



 平安時代の文学には、死を意味する「はかなくなる」がみられる。それが変化し、虚しさや頼りないといったニュアンスの「はかなし」となったと考えられるが、そのはかなしが無常観へつながったのではないだろうか。
 無常観は、はかなしや、もともとあった自然観とともに、戦乱が多くなった時代的背景も大きく関わっているだろう。平安後期から鎌倉時代は、優雅な生活をおくる貴族にかわり、命のやりとりが身近にある武士が中心となりつつあった。そのような、死と隣り合わせであった世においては、みやびな生活から感じる「をかし」や、「あはれ」のような時間を要する情緒より、はかなしの方が時代に合致したことだろう。


無常観は、絵画にもみることができ、花鳥風月の姿に、花々が散りゆくさまや、四季の移ろい、月の満ち欠けなどとしてあらわされる。
《おいのさか図》鎌倉時代人道不浄相図)には人物が生まれたころから老年までの姿を、山をのぼりおりして描かれる。その人生を四季になぞらえて春の幼少期、夏の青年期、秋から冬の老年期までを描き、山に生える木も、若木から成長し花を咲かせ、やがて老木となる様をあてはめている。このように、人生を四季になぞらえて描くものは、アルチンボルトの《四季》など、世界中でみることができるので、特段珍しい表現ではないだろう。



《おいのさか図》はその後《熊野歓心十界曼荼羅》のような図へと変化する。そこには、地獄道や修羅道など六道と、浄土へ生まれ変わるべく阿弥陀が描かれる。そして、その図は、熊野比丘尼によって民衆らに絵解きされ広められたが、その中で民衆らは仏教を学ぶとともに、無常観も感じたことだろう。

四季を描くものとして、《人道不浄相図(六道絵のうち)》鎌倉時代には、女性の死体が腐乱して朽ちるまでを描く。そのかたわらに描かれた木に注目すると、遺体の経過に合わせるように、満開の花が散り、夏となり秋の紅葉、そして最後は枯野という四季になぞらえられている。

このように、無常観は日本人の自然観と調和させるところがみられ、常に変わりゆく自然の姿に、儚い世のあり様や滅びゆく己を投影した。そこでは、満月より欠けゆく月や散る花など、消滅へ向かうものが多い。日本人は根本的に滅びゆくものに美を感じる傾向が強いのかもしれない。あるいは、平安の頃のように華やかで前向きな世界観ではなく、中世という殺伐とした時代においては、人々の心情にも無常観があふれており、消極的なものに心を寄せたのだろう。

追加として
平安貴族の愛た自然は、つくられたものであった。特に、屋敷の中で暮らす者たちにとって、触れる自然は、つくられた庭、描かれた襖絵、和歌の中にうたわれる自然、など、現実の厳しさとは離れた、美しい部分だけを切り取った自然であったろう。シラネハルオは、これら、持ち込まれつくられた自然を「二次的自然」という。その二次的自然からは、無常観を伴うような、はかない ものは生まれにくかったと思われる。
平安期においては、無常観につながる、「はかなさ」は、二時的自然からより、人々の感情から発する方が多かっただろう。末法思想が広まったころや中世においては、はかなさの誘導材となるものがグッと増えたことも、無常観が広まった要因のひとつと考える。


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