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ザット ヒーリン フィーリン/ホレス シルバー後編


ザット ヒーリン フィーリン/ホレス シルバー 後編
ブルーノート4352
1970/4/8、1970/6/18

これをただ宗教に走ったと決めつけ、人心連合などと無神経な命名をした日本のジャズメディア。一切聞いてみることも調べてみることもなく面白半分に適当に訳して、おまけに「人類皆兄弟」なる事を言い出してホレスは終わったと皮肉っぽい薄笑いで話していた当時のジャズ喫茶族とブラック ライヴズマターの嵐が吹く2020年代にそんなジャズ喫茶の間違った教えを押し付けて来る信奉者にはホレスファンとして全身全霊をかけて嫌悪感を抱かせていただく。
僕の人生で人心連合と◯◯◯◯◯◯◯を口に出すのは頭に拳銃を突きつけられてもこれで最後とする。

この1970年という頃は日本のジャズファンは自分の好きなジャズがどんどん時代遅れの保守的なのを絵に描いた様な音楽になって行き、考えてみれば可愛そうな時代ではあった。すっかり過去のものになってしまった音楽を頑なに守り続けてるジャズ喫茶の常連だといっても滑稽なだけで女の子の興味も引けなっかたのだから僕なんてとっくに他のチャラチャラしたものに興味を移していただろうな。
しかし、その約2年後、幸か不幸かそんなジャズ原理主義者に希望の光が当たり出すが、これがたいそう厄介なことになる。
ステイプルチェイスというデンマークの新興ジャズレーベルがかつての忘れ去られたバップスターを使ってハードバップリバイバルなどという「あの素晴らしい愛よもう一度」的なムーブメントがやって来るのである。
これに日本のジャズ関係者は大喜びで飛びついた。まずステイプルチェイスのレコードを救世主と崇めあげて、こうでないといけない!、そっちが間違っているのだ!ジャズミュージシャンがヒット曲や8ビートや自分の理解できないものを演奏するのは何が何でも演らされているのだ!と発言し出し、それが正義となった。赤信号みんなで渡れば怖くないという開き直りの様な心境だったのだろう。ただし、それはいいが、黒人アーティストが反差別をうたい同胞に命がけで黒人意識を煽り自立を促せた、偉大だからヒットした音楽までもを無用で「演らされている」というのも正義になったこと、そして2010年代になってもそんな常識をDoodlin’に押し付けて来る人間がまだ生存している事実が元町Doodlin’を閉店させた。僕はこういう人達を、とにかく頑なな点からナニガナンデモ族と呼んでいる。
そしてこの頃にはちょうど日本のレコード会社も外国アーティストを使ってレコードを製作するノウハウを覚えたので、ニューヨークで仕事が減っていたジャズミュージシャンのレコードを次々と製作して行った。これらはもちろんハッとさせられる素晴らしいものもあるが、正直に言うと大半は懐メロを演らせてナニガナンデモ族に購入させようとしたものだ。ハードバップリバイバルはミューズ、ザナドゥーなどのアメリカのレーベルも同じ路線のレコードを制作して大いにジャズ界を賑わし、さらに幻の名盤ブームが追い打ちをかける。70年代はジャズ喫茶族にとってはさぞ楽しい毎日であったろう。どうでもいいけど。

その結果、なんでか知らんのだけど、日本ではスタンダードがやたら正当化され、日米問わずかつての偉大なジャズミュージシャンに大人のお金がかかる音楽としてのジャズを演らすのが常識になり、そのスタンダードジャズを奏でる大人のムードが一般的なジャズのイメージとなった。ピアニストならハンク ジョーンズ、ケニー ドリュー、ウォルター ビショップ jr.、トミー フラナガン、レイ ブライアント、シダー ウォルトン、リチャード ワイアンズなどが担ぎ出されたものだ。このイメージは絶大で、いまだにジャズのイメージとして老人から金を巻き上げている。

しかし、ホレスだけはついぞそんな懐メロブームには乗っからず、自分の信じる音楽を演奏し続けた。彼のことだ、きっと誘いには首を縦に振らなかったのだろうな。乗っていれば懐かしのスター復活としてジャパンマネーを稼げたのに。

この頃のホレスはブルーノートではUNITED STATE OF MIND3部作の後にアコースティックピアノには戻るものの、相変わらずかつて人気を博したファンキージャズ路線からは一変した壮大なるHORECE SILVER ‘Nシリーズを発表する。これはホレス アンド~という意味で、ホレスと毎回違うテーマの音楽性を聴かすものであり、’N BRASS(1975)’N WOODS(1976)’N VOICE(1976)’N PERCUSSION(1978)’N STRINGS(1980)と連作する。どれもが尖りに尖り、ホレスらしく自己主張の塊のような一聴するだけで鳥肌が立つほど恐ろしいまでの音楽性を持った傑作であり、特に全編にコーラスを配して作られた’N VOICEはとんでもないクオリティーを持ってオシャレで洗練されているため、今回のホレスの最高傑作というテーマで取り上げるのにどちらにするか最後まで迷ったものだ。これらは日本を除く世界のリベラルな国々のジャズファンに絶賛された様であるが、流行りの懐メロ路線ではないので、無用という烙印を押され日本のファンには見向きもされなかった。
ホレスはその後長い付き合いであったブルーノートに別れを告げ、自身のレーベル、シルベルトを創設して88年まで5枚の作品をリリースするが、これらも自身のメッセージを込めたものだったうえに、販売ルートを確保できず苦労をした様である。当たり前だけれどエディ ハリスやビル コスビーを招くなどどれも素晴らしい内容であるのでファンとしては悔しいの一言だ。

つまり日本でのホレスの評価はジャズ喫茶の好みに逆らったという理由で、評論家と談合してファンキージャズのトッププレイヤーから過少評価のアーティストに落ちてしまったのであるが、可愛そうなことにホレスと行動を共にし、ホレスの哲学を歌い続けたアンディー ベイも全くと言ってもいいほど評価されない状況を作ってしまった。
1939年ニュージャージー州ニューアークに生まれたアンディーは、50年代から二人の姉妹とアンディー & ザ ベイシスターズとして音楽活動を開始、ブルームーンやプレスティッジにアルバムを吹き込んでいる。その点から見ても本国ではかなりの音楽的才能は早くから認められていたと思われる。
そして1970年にホレスのザット ヒーリン フィーリンに参加するのだが、二人の共演アルバムは
That Healin' Feelin' 1970BN
Total Response 1971BN
All 1972 BN
Continuity Of Spirit 1985 SILVETO
Music To Ease Your Disease 1988 SILVETO
It's Got To Be Funky 1993 COLOMBIA
と合計6枚が残される。もっと数ある様に思われるが、なにぶんインパクトが強いのでそう感じるだけだろう。

この中では1988年の傑作から僕はリアルタイムで聴いている。そして忘れもしない1989年、僕と同級生はホレスシルバーグループの大阪道頓堀のセントジェームスというジャズライブハウスでのライブを観に行くことになる。
シルベルトの作品もしっかりと聴いているファンの間では常識なのだけれど、この1980年代のホレスは生涯を通して最も強いタッチでピアノを弾き込んでいた時期なのだが、それを物語る様に生で観たホレスの凄みはそれは凄まじいものであった。なにせあの特徴的なバッキング中は一切鍵盤を見ずにソロイストに向かって煽り立てていて、その姿は、まるで競馬の騎手が馬に乗って一心不乱に鞭を打ち込んでいる様であった。
そしてそこにアンディーはいた。
考えてみれば僕らはこの時、生まれて初めて本物の黒人の歌声を聴いたのだと思う。ブレイキーとジミースミスでジャズを知った身からすれば、バブス ゴンザレスが史上最高のジャズシンガーと認識していたけれど、アンディーの持つ全ての要素はレコードで聴くバブスの要素に肉迫していた。
この日のグループは新譜であったシルベルトの内容と、これまでのホレスの作ったナンバーで構成されていて、僕らを幸せの絶頂にまで押し上げてくれたものだ。アンディーが歌っている時のバッキングとソロイストのバッキングが全く同じテンションで演じられていたのも、PAを通さずともホレスのピアノの音がお馴染みのヴァン ゲルダー サウンドと全く同じだったのも驚異的であった。断っておかなければいけない事は、そのかつてのホレスナンバーというのは、ほとんど思想が固まったソング フォー~以降に発表されたものばかりで、ブレイキーやモブレーやミッチェル&クック時代のナンバーは1,2曲、しかも申し訳程度にしか演奏されなかった。当時のホレスにとっては、そんな過去のもので喜んでもらおうなんて気は1ミリも無かったのだろう。僕らは損得感情が無く自分を貫くホレスのポリシーに共感の拍手を惜しまなかったのは言うまでもない。
しかし、知的を絵に描いた様なアンディーの歌は全く場違いとして観客に白い目で見られていたのは、この来日がほぼ話題にもならなかったことと共に非常に辛い現実とやるせなさを感じさせられたものだ。
と言うのは、関西だけではないと思うが1989年当時はジャズヴォーカルといえばスタンダードを歌うもので、それを歌うシンガーさんがやたらもてはやされた時代であった。アンディーがいくらホレスの音楽をソウルフルに代弁しようが、本物のバップシンガーの伝統を感じさせてくれようが、知らんものには容赦ない仕打ちをしても当然という時代だったのだ。みんなホステスみたいな女性がスワンダフルを歌えば大喜びするくせに。
僕らの近くにいたおっさんなんかアンディーが歌い出すとまるでニガ虫を噛んだ様な形相(元町Doodlin’でちゃんとジャズを聞かせろと言ってきた同い歳のジャズ喫茶信奉者にクリフジョーダンの「ソウルファウンテン」を聞かせた時と同じ形相)をされていたが、このおっさん、多分ホレスだと聞いてプリーチャーやシスターセイディやフィルシーマクナスティーを期待したのだろうな。僕らはシルベルトの新作をしっかりと聴いていたので、ダイジョウV!
この様にアンディーの歌は、近年の関西で人気のある中堅のジャズミュージシャンらによるハードバップとして演奏されるホレスの音楽(また喜ぶ老人が多い)とは無関係なものになってしまった。そのミュージシャンのうちアンディーベイの名を知っているのは何人いるのだろうか。

少し話は戻るが、ルース ライオンの手記によれば、ホレスは1983年に、ASCAP(米国作曲家作詞家出版社協会)という団体に依頼されてデューク エリントンに捧げる3部作からなる組曲を作曲し、ニューヨーク2回、ロスアンゼルス1回の公演を行って、どこも大喝采を受けたという。そして当然そこにはアンディーもいた。
NYではブルックリン フィル、ロスではL.A モダンストリングス オーケストラとの共演であり、特にLAでは大手の新聞でも大賛辞を受けたという。この頃、ハリウッドも大手マスメディアも有して金を稼げない音楽など相手にする価値もないとされたLAでである。これなど、日本ではホレスが過去のものとされ、エレクトリックに走った懐メロを演らない裏切り者であると常識になっていた頃だ。このLAの時の音楽は2年後にContinuity Of Spiritとしてシルベルトから同じオーケストラを得てスタジオ録音され発表されているが、これとて日本のジャズメディアは一切無視した。日本のジャズメディアはホレスを無いがしろにすることに成功したが、なまじジャズ喫茶に出入りしていたので、天才音楽家の最も輝かしい時を紹介できなかったのだ。本来それをするのが評論家やジャズ雑誌の仕事だと思うのだが。

ところが、僕がこの章の冒頭から噛みつきまくっているジャズ喫茶族がホレスを見下す日本の状況に、嬉しいことに一旦終止符を打たれる時代が訪れる。
1980年代末、ロンドンでジャズをもう一度ヒップで踊れる音楽として見直し、オシャレでカッコいいクラブ音楽として人々に浸透させようというムーブメントが起こる。その発端はジャズメッセンジャーズとホレスも参加した「アフロキューバン(BN1535)」だったが、当然ホレスのUNITET STATE OF MINDも若者にもてはやされたのだ。理由は簡単、カッコ良かったからだ。これにより再びホレスシルバーがカッコいいジャズのレジェンドとしてレアグルーブの象徴となりDJらがターンテーブルに乗せ、訳わからんくらいに可愛い女子を吐くまで躍らせた。これらが日本に上陸した年代としては1990年代を迎えた頃であり、僕も20代だったし、すでに月刊プリーチャーを通してジャズ喫茶文化に鼻息荒く反旗を翻していたので、旧式ジャズ喫茶族にはざまあみろという心境であり、吐くまで飲んで踊って楽しんだものだ。この時代は本当に思いもしないものにスポットライトが当たり、次から次へと新しい面白いものが出てきて、もの凄い楽しかったなあ。
そしてそれらが全て新しいジャズの聞き方となり、ジャズ喫茶族があの狭い空間で訳のわからんチャラチャラした奴らが我々の大事なジャズをむちゃくちゃにしてしまっていると大いに嘆かせた要素となる。そして70年代ホレス シルバーの評価!本当に本当にあの頃ほど痛快だった時期は無い。日本のジャズ評がジャズ喫茶族や評論家ではなく、彼らに嘆かわしいとされるチャラチャラした連中によって国際的に正常化されたのだ。そのチャラチャラした奴らはジャズ喫茶の親父が言うから、とかジャズの名盤ガイドに載ってないから、とか自分が聞くべきカテゴリーのものでは無いから、というしょーもない概念は一切無くて、自分の考えでカッコいいものは聴くというジャズ喫茶族には絶対に無い感性でホレスのUNITET STATE OF MINDを楽しんだのだ。

このホレス再?評価はホレスにシルベルトを諦めさせ、 メジャーレーベルであるコロムビア、つまりCBSよりかつてから野望を持っていたものの実現されていなかった、大編成によるコンボでの音楽を創造して It's Got To Be Funkyとして作品化され実を結ぶ。プロデュースにあのジョージ バトラーを迎えているは、アンディーは参加しているは、サックスに偉大なるレッド ホロウェイに大スターのブランフォード マルサリスがゲストだは、ソング フォー マイ ファーザーが再演されているはとホレスファンには許される範囲で大贅沢を味わえるものであり、おまけにホレスの書き下ろしナンバー(特にアンディーが歌うもの)が迫力充分で楽しいとあって、当時これ以上何を求めることがあるねん、という快作であった。

そしてこれが輝けるホレスシルバーの最後を記録したものになる。

この後、同じコンセプトの続編がリリースされるのだが、そこでは往年のヒット曲「セニョールブルース」が再演されているものの、何よりアンディーが不参加で、正直二匹目のドジョウを狙ったのがバレバレのつまらないものだった。
そしてその勢いでマウントフジ ジャズ祭に出演。テレビでは鼻水を垂らしながらソング フォー~を演奏してる様子がオンエアされた。その後ディーディー ブリッジウォーターがホレスの作品集を製作して、それにゲスト参加したが、いい作品だったこともあり割と売れる。しかし健康状態は決して良くなく、当時マウントフジジャズフェスとブルーノートへの出演ツアーがキャンセルになる。しかしジャズ喫茶の原理主義者に至っては自分の考えは一切なく、手のひらをひっくり返した様に周りの再評価に合わせて、ホレスの復活を喜んでるのはいいが、元々ずっと音楽を創造していたのを自分達が寄ってたかって無いがしろにしていたのでは無いか、それを何が復活だと僕の中では何か煮え切らないホレスの再評価であった。

そんな心配はやがてホレスが再興したインパルスに新作を録音、リリースしたのを聴いて思った通りに悪い方へと出る。インパルスでは結局2枚のアルバムが製作されるが、その最初のものはニューヨークでそこそこ名の通っている中堅の名手を従えたセプテットかオクテットのもので、しかもアンディーがいないとあって、シルバーのファンキー節は楽しめるものの、正直に言うとシルバーに絶対に演らせてはいけない昔とったキネヅカみたいなもので、とてもじゃ無いけど褒める気にはならないものであった。
もっと悲しいのが、2枚目。何とかつてのシルバーグループのOBである、マイケルとランディーのブレッカー兄弟にルイ ヘイズ、ロン カーターを呼び、まるでオールスターメンバーと銘打って発売してしまったのだ。もちろんアンディーはいない。オールスターなら絶対にいなくてはいけな人物を省いてしまったのだ。
そして僕は恥ずかしいことにこれを購入して聴いてしまったのだけど、内容はあのマイケルにスタンレイ タレンタインの真似をさせて昔を懐かしむという後ろ向きなものであった。悲しい。

この後、どういう訳か同じく再興したヴァーヴにもう1枚レコーディングして発売されるが、こちらはライアン カイザーなど、当時の新進気鋭を使っていたので、少しはホレスの現在を知らしめてくれるものだったかも知れないものの、アンディーはいないし、どうせかつてのファンキージャズ路線を演らされたものだろうから今だに未聴。

ホレス同様、絶対に過去に戻るのを拒否したマイルス デイヴィスは最晩年、ジャズフェスティバルのために50年代の音楽を再演して観せ、おかしいなあと思わせたが、案の定その後ポックリとあの世に旅立って行かれた。
ホレスもまた日本のジャズファンの思惑通りの昔を彷彿させる数枚を発表した後、全く音楽を創造せぬまま2014年逝去。

本物のジャズアーティストが昔に戻った時、そのアーティストは終焉を迎えるのだろうか?

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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