地震の記憶

 令和6年能登半島地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。
 元旦の大地震はお正月を寿ぐ気分をなぎ払いました。お正月のひとときを奪った大地震。胸が詰まる思いです。そして自分の地震の記憶もよみがえりました。

初めて遭遇した大地震

①地震にあったとき

 小学校入学前でした。隣の友だちの家に遊びに行っているときに地震がきました。
 揺れがきてすぐに
「早く外に出て!」
と友だちのお母さんが叫びました。勝手口から外に出ましたが、出るときに私は靴がなかなか履けずにモタモタしていました。
「何しているの!」
「靴が履けない」
 たぶん私は少しべそをかいていたかもしれません。
「はだしで外に出なさい!」
 友だちのお母さんに言われて、弾かれたように外に飛び出したことを覚えています。

 今思えば、私は突然の地震にパニックになっていつも履いているズック靴も履けなかったのでしょうね。

 私を迎えにきた母に友だちのお母さんが
「ごめんなさいね。怒っちゃって」
と話していました。私は怒られたとは思いませんでした。私を守るための声がけだと、なんとなくわかったからでしょう。

 家に帰ると、台所の冷蔵庫がいつものように立っていたので不思議に思いました。友だちの家の冷蔵庫はドアが開いて倒れたからです。今思えば、冷蔵庫の置く位置が違ったからですが。

②断水と停電の夜

 断水になって、母がコーラを買ってきました。飲み物を探したけれどコーラしか売っていなかったのです。初めてコーラを飲みました。父は薬臭くて飲めないと言いました。

 停電にもなりました。その頃は台風が来ると必ず停電したので、また停電か、としか思いませんでした。父がろうそくの灯りで影絵遊びをしてくれました。手を使ってキツネやハトの姿を壁に作り出してくれました。それが楽しかったので不安は感じずに地震の夜を過ごしました。

 このときの地震の記憶は当日のことしか覚えていません。後日、母が
「地震は震度5だった」
「町内の学校の自転車置き場がつぶれた」
と話していたのは覚えています。

③気象庁の記録(験震時報)より

 気象庁の『験震時報』(気象庁職員の研究・調査、解説などの記事)を調べると、子どものころの大地震のことがわかりました。

 当時居住していた町の震度は5。これは母の話していた通りでした。しかし最大震度は6。これを見たとき、そんなにも大きな地震だったのか、と驚きました。震度6とか7なんて、阪神淡路大震災の以前は聞いたことがなかったからです。

 現在は震度5や6には強弱がありますが、半世紀以上も前なのでそれはありません。

 さらに地震の被害ですが、亡くなった人は3人。建物全壊が300戸以上。半壊はその3倍ありました。鉄道の脱線事故や橋の支柱の損壊など多数あり、甚大なものだったようです。

 子どものときからこういう地震を体験していたんだと思うと、今まで無事に過ごせたのが不思議な気がします。これからも大きな地震に遭遇するでしょうし、それを覚悟して生活しないと、と改めて思うのです。

 

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