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雪原の桜(3)

穂村2

 穂村は九州の筑豊地方の出身である。昭和初期から高度成長の時代にかけて発展した炭鉱の街だ。
 穂村が物心ついた頃には、もう現役で採掘している炭鉱はなかったが、周りには人が住まなくなってもぬけの殻となった炭鉱住宅や、稼働を止めたまま何年経っても処分されない工場や設備が廃墟と化して点在していた。
 近所の子供たちは、この廃墟を遊び場としていたが、あるとき廃工場の壁が崩れて、遊んでいた子供が足に怪我をするという事故が起こった。これを期に自治体がこの辺りの廃墟を立入禁止地区に定め、そこに入れる人間はいなくなってしまった。撤去したり土地を整備するのにも、そこそこのお金がかかるのだろう。結局それから数十年、その辺りの土地は放置されたまま、街の人間からも忘れられる存在となった。廃墟となったかつての事務所棟の脇に一本だけぽつんと残った桜の木がある。その桜は立入禁止になった後でもまったく悪びれることもなく、毎年春になると立派な花を咲かせていた。

 五年前、そこらの土地が宅地と農地に分けて造成されることになった。その情報を父親から聞いた穂村は真っ先に「あの桜も抜かれるんやろか?」と尋ねた。「さあ……でも抜かれるっちゃなかろうか。あれも一本だけあってもしょうがなかしな。それより、この辺も活気が出てくるかもな、ニュータウンの建設と並行して福岡に行く鉄道もちゃんと整備されるらしかし、大型のショッピングモールっていうとか? あんなんもいっぱい出来るとげな。もう福岡の方も土地の高うなってしもうたけん、この辺ば福岡に通勤する人間のためのベッドタウンにするとやろうなあ」
 発展するのが嬉しいような、静かで穏やかだった暮らしを奪われることに対して怒っているような、そのどちらとも取れる口調で父は話した。電話ではその真意は汲み取れなかったが、そのどちらでもあり、どちらでもないのだろう。両親にはあの場所で暮らす以外の選択肢はない。良きにしろ悪しきにしろ、変化は全て受け入れなければならないのだ。

 父親から話を聞いた穂村が、妻と娘を連れて地元へ戻ろうかと考え始めたときだった。竹本が突然「俺、農業やるから九州に帰るわ」と言い出した。あの桜があった辺りの土地を買って、そこに有機栽培の畑を作るんだという。そのときの竹本は、東京の田町に本社を持つ大手電気メーカーで、営業課長として働いていた。
 驚く穂村と綾野に対して「実は脱サラして農業をやりたいというのは前々から考えてたんだよ。筑豊のあの辺りは気候も有機栽培に適してるし丁度良かった。ちゃんと土地の造成が終わるまでに、色んな勉強したり研修に通ったりして農民になるための準備しておくよ」と笑いながらさらりというのだった。綾野には分からなかっただろうが、穂村に気を遣っているのは見え見えだった。そこまで言ってくれる竹本に、当時娘が生まれたばかりだった穂村は「ありがとう」という感謝の言葉ではなく「がんばれよ」という間の抜けた言葉しかかけられなかった。「おう!」と答えた竹本のまなざしは「何も心配することなんか無い。お前は自分の人生を謳歌しろ」そう鼓舞しているようでもあった。
 それからの竹本の動きは早かった。桜があった土地の一画を本当に購入し、造成の工事業者に「この桜は残しておいてほしい」とお願いした。二年間の研修を終えた後は、サラリーマン時代に培った営業能力を存分に活かし、着実に規模を大きくしていった。そして去年、新農地の全てを手に入れるまでになり、かつての廃墟には、竹本以外の人間が入ることはなくなった。また以前と同じような状況を作ってくれたのだった。

(つづく)

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