見出し画像

車中

 遠くへ行くと思います。
 人の少ない電車に射し込む斜陽、知らない大通りの喧騒はいつまでも心を捉えて離しません。降りなければならない駅でいつまでも座席に身を預けて、夜が空の端からやってくるのを、窓から眺めていたい気分になります。
 遠くへ行くとき電車は必ず、どこかの田舎を走ります。鎮守の森へ通じる畦道、水の入った田んぼが映す晴天、夏を待つ若葉。私は私が知らない小道を歩くことを想像します。
 木陰のにおいはどんなだろうか。梅雨の蛙は喧しいだろうか。遠く稜線にかかる白雲は、発達してどんな雨を降らせるのだろうか。夜空の星はいくつあるか。工場の煙突から煙はたなびいているか。体を吹き抜ける、風の温度。
 遠くへ行っても同じにおいがする春の夕暮れ。湿った夜の気配。知らない場所へ行きたくなるのはどうしてでしょうね。私は安心したいだけなのかもしれません。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?