ここではないどこかで、ここにいること〜荻上直子監督『めがね』(2007)感想(ネタバレあり)

荻上直子監督の映画『めがね』に出てくるもたいまさこ演じる「サクラさん」は、福の神かもしれない、とふと思った。

「めがね」あらすじ

『めがね』は、小林聡美演じるタエコという一人の女性が、何もない小さな島の民宿ハマダに滞在しながら、ただそこで過ごすお話。

この島でやることはたった一つ。「たそがれる」こと。

民宿のオーナーのユージ(光石研)、島の高校教師ハルナ(市川美日子)、春になると島にやってきて、民宿を手伝い、海辺の小屋で島の人たちに小豆かき氷をふるまうサクラ(もたいまさこ)。

民宿でみんなでご飯を食べること、毎朝海辺に集まって、サクラが考案したメルシー体操という謎の体操で踊る島の人たちに戸惑うタエコだが、徐々に島での過ごし方に馴染んでいく。

サクラとは何者なのか?

最初の数日間で、民宿「ハマダ」での過ごし方に戸惑ったタエコは、島にもう一つある宿泊施設「マリンパレス」へ向かう。

出てきた女将(薬師丸ひろ子)はタエコを宿の裏手の畑に案内し、鍬を手渡す。「ここではみんなで食べるものを作って、午後は勉強会をして過ごす」と嬉々として伝える。

「ハマダ」での過ごし方に戸惑ったタエコではあるが、「マリンパレス」は自分が求めているものではないと、すぐに引き返すことにする。

暑い日差しの中、重たいスーツケースを引きずり、ハマダを目指す。ハマダで朝ごはんすら断って出てきたことを後悔しながら、道に迷い、日は暮れていく。

途方に暮れて道端で座り込んだそのとき、サクラが愛用の三輪自転車で現れ、無言で荷台に乗るように促す。

タエコがスーツケースを持とうとすると、サクラはしかめ面でたしなめる。タエコは、スーツケースはその場に捨て去り、黙って荷台で運ばれていく。

サクラの自転車の荷台に乗るということは、誰もが望んでもできることではないらしく、タエコはユージやハルナに羨ましがられる。

このサクラという存在は、まるで福の神だ。

ほとんど言葉を発しないのは祀られる仏や神のようなものであり、日々の踊りは祈りや祭祀であり、かき氷はお供えと福の交換であり、はみだしものや困ったものへの施しだ。タエコが載せられた荷台は神輿であるゆえに、居場所を失って救いを必要とする選ばれたものだけが乗れた。

海辺の小屋は、祠であり、季節ごとにやってくる神様=サクラの居処になる。そのため地域の人が手入れしてサクラがいない間も綺麗にしておく。

人々はサクラを迎え入れ、尊重し、儚く短い春(それは桜に象徴される)を思うのである。

「ここにいる才能」は誰にでもある

民宿のオーナー、ユージの書く地図は、感覚的な地図だ。

目印などもなく、一本線で道が適当に引かれ、説明書きとして「しばらくずっとまっすぐいって、ちょっと不安になってきても、もうすこしまっすぐいったら右に曲がる」というようなもの。

そんな地図で空港から民宿にたどり着いたタエコに「ここにいる才能ありますよ」とユージは伝える。同じように3年前、ユージの地図で迷わずたどり着いたのはハルナ。それ以後、教師として島に暮らしている。

タエコが、島で過ごしているうちに、タエコを探しにヨモギという青年がやってくる。タエコのことを「先生」とよぶその青年は、民宿まで迷わず到着し、すぐにみんなとともに食卓につき、釣りをし、「たそがれ」て、あっという間に島に馴染んでいく。数日のんびりした後、タエコを連れ帰るでもなく、ただ満足して帰っていく。彼こそ、誰よりも早く「ここにいる才能」を発揮している。

タエコは、携帯電話のつながらないどこかであればどこでもよかった、とこの島に降り立った。「たそがれる」が分からずにいたが、「ここではないどこか」を求めてたどりつき、過去の持ち物も捨て、ただ「ここにいること」をもう一度引き受けると、「ここにいる才能」が現れてきたのだ。

「かもめ食堂」から「めがね」へ〜スーツケースは、いらない

「ここにいること」の確からしさを求める女性の物語は、荻上直子監督のめがねの前作『かもめ食堂』(2006)から引き継がれている。

フィンランド・ヘルシンキの片隅で小さな「かもめ食堂」を開くサチエ(小林聡美)、人生が煮詰り、目を瞑って地図を指さし、フィンランドへやってきたミドリ(片桐はいり)、親の介護を終えて人生を再出発することにしたマサコ(もたいまさこ)。

シンプルな暮らしを大切にする北欧は、女性たちを中心に憧れの旅行先となっている。作品は、そういった北欧のイメージをうまく利用している。「かもめ食堂」に出てくる3人の女性たちはそれぞれが抱えてきた日本での重荷を忘れ、フィンランドは、現実のものというよりは、軽やかに存在できるそれぞれの夢想の居場所として描かている。

『めがね』においても、「携帯電話のつながらない場所に行きたい」ほどに疲れてしまった現代の一人の女性は、逃げ場所として「どこか」を求めてやってきている。

「めがね」では、場所の意味はさらに抽象化され、かもめ食堂に描かれたような「店が満席になる」という主人公に起きる小さな達成感すら存在せず、「ただここにいること」以上のものがなくても、人は満たされて生きていけることを感じさせる。

『かもめ食堂』と『めがね』両方に登場するスーツケースは、過去の自分の比喩になっている。『かもめ食堂』では、マサコのスーツケースは空港で行方不明になりなかなか戻ってこない。マリメッコ(フィンランドの世界的ファブリックメーカー)の新しい服を纏い、森に出かけキノコ狩りをするうちに、スーツケースの荷物がなくても全く問題がないことに気がつく。

やがてもどってきたスーツケースには森で拾ったはずのキノコが光り輝いて詰まっている。光り輝くきのこは、過去の重荷は捨て、ゆったりと時を過ごす中で新しい自分へと変化した心象といえる。

一方、『めがね』ではスーツケースを捨てることが、タエコが島での過ごし方を心得え、たそがれて過ごすことへの対価となっている。

「ここにいること」の意義の純化と土着性

島を出ることにしたタエコは、車で空港へ向かう途中、めがねを窓から飛ばしてしまう。

次のシーンでは、海辺の小屋を開けるユージ、ハルナ、そしてタエコの姿。3人は、春になってやってきたサクラを迎え入れる。

淡々と、季節の神を静か迎え入れるだけ。

『かもめ食堂』が遠くの憧れの地の夢想であるのに対し、『めがね』は「ここにいること」の意義の純化と、日常に織り込まれた祈りとつながる土着性が描かれているように思う。

「ここではないどこかで、ここにいること」

それはサクラという福の神のような存在を介して、居場所を自分のものにしていく、心のありようを映し出している。

おまけ:地に足のついた女性の風来坊としてのサクラ

サクラという名前で思い出すのは、男はツライよの寅次郎の妹である。季節季節でどこかにひょっこりでかけ何かをもたらしては、ホームである葛飾柴又へ戻る寅さんを、つねに迎え入れるサクラ。

もし反対に、サクラが寅さんのように風来坊だったとしたら、『めがね』に出てきたサクラさんのように、地に足のついたお地蔵さんのような福の神になるのかもしれないなあ?