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好きの引力

「好き」には、引力がある。気付けば「好き」な場所にたどり着いているし、気付けば「好き」なことをしているし、ふと「好き」な人のことを考えている。

それってコントロールできるものではない。好きになろうと思って好きになることはないし、気付けば好きになっている。好きの引力に吸い寄せられて。

僕は家族や友人が好きだ。旅に読書に映画、それにサウナが好き。ボーとする時間も、雨に思いっきりうたれるのも、ふと素振りをする時間も。あてもなく、森の中をさまようのも好き。

自分の中にさまざまな「好き」があって、好きによって思考し、行動している。「している」というよりも、気付けばしていた。といった方が正しいのかもしれない。

僕はそんな引力にすいよせられながら、日々生活している。好きは気まぐれで、突然やってきて、気付けばそこにあって、天気のように変化していく。

好きは自分の外からやってきて、いい意味で「自分を失う」ものだ。自分でコントールできるものは、そもそも好きじゃない。

1日中韓国ドラマを観る日もあれば、家族と夜な夜なボードゲームを楽しむ日もあれば、カフェでパソコン片手に仕事する自分も好き、友人と喫茶でひたすらに語り合う好きもある。

その日、その瞬間の「好き」がある。

どの瞬間にも確かな「好き」があって、過去の好きをふと思い出す瞬間も「好き」だったり。

それは、「誰かに言われたから」とか「コスパがいいから」とか「生産性が高い」とかそんなことはお構いなし。ただ好きで、好きで好きだからやっている。それだけなのだ。

好きになってしまったのだから、しかたがない。もう好きに従うしかないのだ。好きな人と一緒に過ごしたくなるだろう。そこに計算は一切ないはず。好きだったら、ただ同じ空間にいるだけで、幸せいっぱい。

僕の「好き」は他人の「嫌い」かもしれない。でも、そんなことは関係ない。自分の中で「好き」であれば、それだけでいい。「好き」は絶対的だ。他人と比べる相対的な「好き」は存在しない。

今日も好きな場所で好きな人と好きなことを好きなだけしていたい。愛おしい、「好き」でいっぱいの日常。好きには引力があるのだから

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