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#13 仕事も居場所も自分でつくる。2拠点生活のはじめかた

データ整理をしていたら、むかし書いたエッセイが見つかりました。

2016年7月、この時の「2拠点」は鹿児島と東京。
思えばこの2拠点生活があったから、鹿児島とセブという決断もできたのだと思う。何事も練習しておくものだなあと思った話です。

(以下、当時執筆したものをそのまま掲載)=============


私はいま鹿児島に住みながら、夫が住む東京に通っている。つまり、2拠点生活だ。生まれ故郷ではない鹿児島で仕事を続け、夫の暮らす東京でも新しく仕事をつくり定期的に通っているところだ。

なぜそんな選択を?
何がそんな挑戦をさせるのか?

そこに至る経緯と決意はきっと誰かの支えになると信じて、少し振り返ってみたい。


2008年に夫の転勤で東京から鹿児島に来た。2〜3年で戻ると思い、パート勤めをしながら資格勉強をしたり地域の活動に参加したりしていた。
M字カーブに表されるように女性のキャリアは分断されやすい。20~30代のライフイベントである、結婚・出産・育児・介護。どうして女性ばかりが、という議論は置いておいて、私自身も大阪から東京、東京から鹿児島と移り住み、そのたびにキャリアがリセットされてきた。出産・育児・介護はまだ経験していないが、きっとまた思い通りにならない環境の変化が押し寄せ、思い悩み、立ち止まるときが来るだろう。

「どこに行ってもできる自分の仕事をつくりたい」
それは働き方に対する提言であり、今後また直面するかもしれないキャリア分断に対する私なりの防衛手段でもある。いつ何があっても自分の力で生きていけるように手に職をつけること、そして選択肢を持っておくことは人生のプラスになるはずだ。

ところが何年経っても転勤辞令はない。そうするうちに鹿児島の友人も増え、仕事も任されるようになっていった。パート勤めから正社員に登用されて新規事業を任され、ますますのやりがいを見出した時期に、うつ病になった。思えば兆しはあった。何度か突発性難聴を発症したことは、ただのストレスや過労ではなかったのだ。職場の理解が得られず、休職が認められることなく退職に至った。


私の人生どうなるんだろう?
自信も経験もすべてがゼロになる気がした。
しかし周囲の助けがあり半年ほどで快復し、2013年、独立開業。つらい過去もあったけれど、結果としてストレスやプレッシャーに耐えて働くのではなく、好きなことを仕事にする人生へと切り替えることができた。幸運なことに鹿児島以外にも人脈ができて、私にとって全国が職場だと思えるようになった。


縁もゆかりもない土地で知り合いもゼロのところから仕事をつくり、居場所をつくってきた8年間。私は転勤族の妻として夫の赴任先へ付き添う運命を引き受けつつも、ただ単にその「座」に落ち着いていたわけではない。ライフ&キャリアが分断される可能性を前向きに捉えていたからこそ、どこにいてもどこに行っても自分でできる仕事を生業にしたいと考えられたわけで、それはごく自然なことだろう。

「もうさすがに転勤はないかもね…」
そう言っていた矢先、2016年2月に辞令が出た。
その日の夜に開かれた家族会議の空気は重く、彼の生まれ故郷に戻れる喜びよりも、どんな選択肢を選ぶのか、2人の未来のために今と向き合う時間。
夫は開口一番「君は鹿児島に残るよね」と言った。
心の中では気付いていたが口にするのが憚られた言葉。私が鹿児島に残るということは、別居を意味する。おはよう、いってらっしゃい、おかえり、ただいま、おやすみを告げる相手は遠く、食卓を囲むこともない。


一方で、この地で私を必要としてくれる人たちの顔が浮かぶ。引き受けた仕事の責任もある。まだまだやるべきこと、やりたいことがここにある。蒔きたい種があり、育てたい人がいて、つくりたい未来があるのだ。


嫁としては失格かもしれないが、「あなたについていきます」という言葉は浮かばなかった。世間の理解は得られないかもしれない。実際、彼の両親は心底わかってくれているとはいいがたい。だけど、私たちの選択が「結婚や転勤で自分のキャリアをあきらめなければいけない」という神話をくつがえすささやかな事例になれば価値がある。
鹿児島と東京をつなぐ、という新しい使命も加わり、多様な働き方へのチャレンジは続く。

(おわり)

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今更ながらに、とても自立していて寛容で誰より私の可能性を信じてくれる夫のおかげで、いつも私らしい選択ができているのだと思う。
ありがとう。

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