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やっぱり「ありのままの姿をみせて、ありのままの自分になる」ことは、少しも寒くないし何も怖くないのだ。

去る11月下旬の肌寒い日だった。

朝の出勤ラッシュ時に、なるべく重力に引っ張られないように背筋をピンと伸ばして、膝を曲げないように平行移動で会社に向かうオトコがいた。

道行くリーマンは、常軌を逸したその姿に事態が全く飲み込めず、パニックに陥りワナワナと面食らったことであろう。

あんなところにアホがいる。

「コロナウイルスが地球上に新たな脅威をもちこんだのだろうか」

すれ違う誰もがそう恐怖に感じたことは想像に難くない。

そのキモい正体は…誰だ……………

この文章の展開。
ちょっと前にみた気がする。

ご想像の通りで間違いない。

そう。十中八九、オレだ。

我が社では、
例年3月に定期健康診断が実施される。

しかし昨年の3月と言えば、全世界が見えない敵「コロナ」の恐怖に怯え、「三密」の徹底が全国的に叫ばれていた時期であり、

当然のことながら三密の健康診断は
「当面の延期」となった。

結果的に、比較的コロナが落ち着いた11月に昨年は実施されたため、その流れを引き継いだ今年は一年後となる11月下旬に実施する運びとなった。

ボクにとっての健康診断は、
今や運命を左右する重要な意味を持った、
重大なイベントである。

だからいつも準備に余念がない。

え?何の準備?
ナニかの病気?もしかして闘病中?

と、読者の方は一瞬でもボクの健康状態を心配してくれたに違いない。

そんなやさしい方々、
ご心配をおかけして申し訳ない。
そしてありがとう。

血液検査の指標や腫瘍マーカー、心電図など100%完璧とまではいかなくとも、

運動をガンガンしているからであろうか、
それともアホだからであろうか、

ありがたいことにボクは‘’健康優良児‘’そのものである。42歳となった今に至るまで、経過観察、要精密検査などの判定を受けた項目は何一つない。

じゃ、ナニが僕を大イベント前の
‘’入念な準備‘’
に向かわせるのだろうか。

すまぬ……、
中学生のようなことを言って申し訳ない。

それは、
「身長の測定」
である。

もしかしたら女子には分からない世界かもしれない。

でも、断言しよう。
オトコにとって170㎝というのは1つの目安に留まらず本当に重要な意味をもったボーダーである。

‘’それ以上かそれ以下か‘’
で背が高い・低いと評されてしまう。
まさに思春期のオトコにとって
「絶対に乗り越えたい壁」
として力強い重圧感のあるたたずまいで凛と立ちはだかるのだ。

だから成長期真っ只中の中・高時代。
ボクは効果がないと言われながらも、朝から晩まで乳製品とカルシウムを摂取し続けた。

来る日も来る日も、煮干しと牛乳。たまにヨーグルト。味噌汁は昆布だしにするでない。

イリコ出汁で頼むぞ、おかん。

その努力が実ったのであろうか。
努力が報われたと言っても過言じゃない。

小学生の頃チビだったボクは、ぐんぐん身長が伸び続け、ついに成長期が終わる頃には170㎝を超え、安全地帯の171cmに到達した。

ついにボーダーを超えた。

や、や、やったぞ。

このときボクは、なにか人間として次のステージに進んだかのような妙な達成感に包まれた。

しかし、摩訶不思議な現象が起こるのは
世のつね

社会人デビュー後の定期健康診断では、なんたることであろう。

毎年徐々に身長が縮み始め、今や171㎝なんてはるか遠い世界へ。
ついには170.5㎜、調子が悪けりゃ四捨五入で170cmとなる170.4㎜

あわわ。
こうなると今や余裕なんてありゃしない。
なりふりかまってはいられないのだ。

健康診断の当日、
ボクは大胆な戦略で挑むことに決めた。

季節は冬だ。
ナンも不自然ではなかろう。

うっしっし。
なにくわぬ顔して姑息こそくな手段を思いついた。少し厚めの靴下を二重に重ねて履いたのだ。

そして社会人になって以降、20年近く変えずに保ってきた芸能人で言えばウッチャン風の髪型は、

洗面所でムースとスプレーを使ってガシガシに固め、ふわっと持ち上げた。

「ハハハ、これは少なく見積もっても172cmはあるな」

鏡で自分の姿をみたボクは心地良い満足感を覚えた。

そして、会社に到着するまでの間、屈伸運動やジャンプ、スキップ等の重力に反発するような動きを一切しないように

スリ足、スリ足・・・

忍び寄るようにを進め、関節に歪みが生じないように細心の注意を払った。

こういった僅かな気の緩みが、運命の1mmを左右するのだ。僕は、入社したころにお世話になった恩師の口癖を思い出した。

「人事を尽くして天命を待つ。」

そう。
ここまできたら、それだけなのだ。

そうしてボクは意を決して決戦の地、健康診断を受ける大会議室に向かったのだ。

現実を歪ます‘’思い込みメガネ‘’

170cmを‘’ボーダー‘’にした‘’高い低い‘’の評価基準は明確で分かりやすい。

が、他方、
ボクたちは‘’ボーダー‘’が曖昧なものを前にすると、その場の感情とか、対象の好き嫌いとか、本来情報の信ぴょう性のないようなモノに判断を左右されてしまいがちになる。

それはなぜだろうか。

それは、ボクたちが今みえてる世界は自分の「思い込みのメガネ」を通して描かれた世界であるからだ。

そのメガネは世界を少しだけ自分に都合よくゆがめてくれる。

「こうあってほしい、こうあるはずだ」

と願ったり思い込んだりして見えた世界は、残念なことに誰から見ても同じように見えるわけではないため、

ときに大きな摩擦を生じさせてしまう。

スポーツの世界で考えると分かりやすい。

パフォーマンスの高さがダイレクトに成果につながるのは、

サッカーやゴルフ、マラソンのように点数やタイムで順位がつき、パフォーマンスが明確に数値化できるものである。

一方で、フィギュアスケートのような採点競技は、プロの審査員ですら無意識のうちに

後半に登場する選手の方がうまい演技をしているように見える‘’思い込みのメガネ‘’をかけてしまっている。

だから「演技を披露する順番」は、順位を大きく左右するとアスリートが言うのをよく耳にするし、実際にそれを科学的に検証した論文だってある。

もう少し別のジャンルでも深堀りしてみようか。

いま、我が子がかじりついて観ている

「鬼滅の刃」

劇場版の興行収入がえらいことになったり、単行本の売り上げが歴代トップレベルになっていたり、異業種とのわけわからないコラボグッズがガンガン出たり、

もはや収拾がつかないとんでもない状況で、
これはもう社会現象と呼んだっていい。

しかしだ。
よく考えてみてほしい。
率直なところ、皆さんに問うてみたい。

確かに良い作品ではあるが「鬼滅の刃」よりも面白い漫画作品を今までにいくらでも見てきてやしないだろうか。

みんながテレビやツイッターで
「すごい漫画だ!」
「この漫画はヤバイ!人生の教科書だ!」

と褒めまくったことで、多くの人の脳内では観る前から
「この漫画は間違いなくすごいのだろう」
というイメージが出来上がってしまっていた。 

そこにコロナの‘’巣篭もり‘’と重なる。

すごい人が褒めまくっていた。
"だからこの漫画はすごいに違いない‘’

よし、いまは時間がある。
観なきゃ。観るべきだ。観よう。

もともと良い漫画であったが、それにどんどん箔がついていき、
そして広告、宣伝、コラボグッズといった売り手側のマーケティングの術中に見事にハマり、歯止めがきかなくなり、

ブームが更なるブームを呼んだ。

そしてついには社会現象と化したのだ。

人間は判断をする際、周りの評価や多数の意見に流されやすいことは紛れもない事実である。

しかしボクたちは自分の意識の中では、

「公正で、肩書などで人を判断せず、中身をちゃんと見ている」

と考えている。

誰だって自分は‘’良い人‘’、‘’公平な人‘’だという前提に立ってしまうため、そういう自分でありたいと願っているし、実際にそう思いこんでいる。

だから問題なのは
「歪んだ世界が見える」こと自体ではない。

「歪んだ世界を見ている自分」に気付いていないことである。

気づいているのであれば一旦‘’思い込みのメガネ‘’をはずそうと試みるが、
気づいていなければ、根拠が薄くても自分の判断が絶対的に正しいと思ってしまうのだ。

自身に目を向けてみる。

ボクたちは学校で
「努力すれば報われる!」と教わり
社会では
「世の中は実力主義だ!」と指導され、

これを‘’正‘’と信じて生きている。

だから自分が評価されているときは
「自分の実力」「努力の成果」
だと思ってきたし、

評価されないときは
「実力が足りない」「努力不足」
だと思ってきた。

自分でそう思うのだから、他人に置き換えたって一緒だ。

評価されている人は実力がある人で、
評価されていない人は発展途上な人なんだって。

どうしても‘’ありのままの姿‘’をみるのではなくて、そんなバイアスがかかったモノの見方をしてしまう。

だけど本当にそうなんだろうか、って。
ここで「思い込みのメガネ」をはずして、裸眼で世界を眺めてみなければならない。

本当は「錯覚」によって評価されているヒトに対して、「実力があるヒト」のように思っていないだろうか。

無意識のうちに肩書とか、周りがチヤホヤしているかどうかによって、人の評価を勝手に書き換えてしまってはいやしないだろうか。

って。

身近なものでいうとSNSのフォロワー数。

SNSの1つであるnoteをみる限りでは、フォロワーの多さと記事の内容にそこまでの相関はないようにボクは思う。

インフルエンサーのようなヒトであっても、もちろん間違った発言をするし、少数のフォロワーしかついていなくても読む価値が高い内容を綴り続けるクリエイターさんも大勢いる。

斜に構えて世の中をみているボクは王道を歩む人生ではなく、路地裏に立ち尽くす人生なので、大衆を惹きつけたり、きらめくスゴイ方向にみんなをグイグイと指南し影響力を及ぼすヒトとは真逆にポジショニングするが、

そんなボクであっても、なんと気がつけば2000人以上の同士にフォローをして頂いている。もう、これは本当にありがたいとしか言いようがない。

2000人でどうだとか論じるなんて、スゴイ人たちから見ると
「ナニを分かったかのように言ってんの?」

って怒られてしまいそうだが、それでも経験則としては言えることがある。

ゼロから100人にフォロー頂くまでの過程の方が、100人から2000人にフォロー頂く過程よりも、

はるかに難しかった。

100日連続投稿し、100記事目で約100人のフォロワーと繋がったと当時、綴った。

その後は、1週間に1回程度の更新で現在127記事目。ボク自身はナニも変わってはいやないが、更新頻度だけみると激落ちした。

しかし、そんな不定期に誰かのタメになりにくい‘’雑記‘’を綴ったものであっても

フォロワーが増えれば増えるほど、

「平凡なリーマンの雑記でも、もしかしたら凄いこと書いているのかな?」

といった第一印象にバイアスがかかって、当初よりも長文読みの苦労を買ってもらえるようになったのかもしれない。

フォロワー数だけでみるとグイグイグイっと、それまでの100記事までと比較にならないほどに急激に増える現象が起こり始めた。

長期的にはそういった心理的バイアスは取り除かれていくのだろうけど、読んでみようか見まいかの0→1になる過程では、そのようなバイアスは確実に影響をあたえるように思う。

しかしその過程を経験してもやっぱり100記事目を綴った時と同じことを思う。

ナニをしても重要なのは、思い込みメガネがかかった「人からの評価」ではなく、ありのままの真の姿を知っている「自分の評価」なんだって。

自分の作品の一番のフォロワーは自分。
だからこそ、自分自身が最も厳しいフォロワーであるし、自分の記事のクオリティに対して、一番のファンである自分が厳しくツッコミを入れ、自分の中の基準で納得できるものを作り上げたいと願う。

本気のファンであればあるほど、どこまでも情熱を注いでモノを作ることができる。

だから「人気記事の作り方」「フォロワーの増やし方」なんてものをよく目にするが、そんなこと考えずに、ボクのような弱小クリエイターなんて自分が書きたいことをとことん書けば良いのだ。

やりたいことをやっていく。
そして情熱を注ぐ。その方が絶対に楽しいし、やがてそういった‘’ありのままの自分の姿‘’で取り組んだものこそが資産になるとボクはそう信じている。

170cmのボーダーに運命の審判がくだされた

大会議室に入ったボクは、
これが戦場かと身震いがした。

健康診断の中で、唯一直立して挑む身長測定は花形はながた測定であり、会議室でも一際目立っていた。

遊園地でいう観覧車のように。
動物園でいうキリンのように。

ボクは決戦の地をにらみつけた。 
一人、また一人と身長が計られていく。
流れ作業でとにかくココだけ回転が早い。

あっという間に自分の番がやってきた。

緊張していたはずだが頭は冷静だった。
「人事を尽くして天命を待つ」
やれることはやったという自信が土壇場でボクを強くした。

しかし、ここで予期せぬ出来事起こった。
さぁ、台に乗ろうかと思った瞬間、担当の年配の看護師がイラっとして口調で言い放った。

「靴下をぬいでください」

えぇ??
昨年まで靴下のまま測っていたじゃないか。
な、なぜだ。
この急な指摘に、ボクはまるでカンニングがバレた学生かのようにヒヤっとした。

しかし周りを見ると全員、かしこまって裸足になって、脱いだばかりのふにゃけた靴下を手にもって律儀に待機しているではないか。

こ、これは同調圧力じゃないか……

納得はいかないが、ここで裸足を拒否するのは
「シークレット的なナニかを仕込んでいるのか」
それとも
「とんでもない水虫なのか」
それとも
「裸足を見せられないマイナーな宗教を信仰しているのか」

頭に思い描かれる想像はそのいずれかになるであろう。いずれにしても恥ずかしい。

こうなると、もはや言われるがまま。
重ねた靴下がバレぬよう細心の注意を払いながら2枚同時に脱ぐテクニックを華麗に披露し、

ボクは看護師の
「こちらに」
というエスコートに従順になって台の上にそそくさと立った。

そして、
棒を下ろされる数秒間。

ゆっくりと、ゆっくりと。
時間が流れた。

ボクは息をのみ、顎を引いた。
看護師は、手に掴んだ棒を容赦なくグイグイっと勢いよく下ろした。

時間をかけてふわっとムースで固めた髪の毛はもろくもボクの耳元で「パリパリパリ」と小さな音をたて粉砕した。

一瞬の間をおいて
静かに告げられた。

「170.5㎜」

あぁ、、、光が差した。
冷静を装ったが、ココロの中では涙を流し歓喜の声をあげ大喜びした。

やった、、、ついにやったYO…勝ったYO…

これで一年間は170cmと豪語できる。
胸につっかえた不安がなくなった安堵感で、もはやその直後に計った自分の体重が何キロだったのかを思い出すことさえもできない。

そんなこんなで、興奮したりテンパったりしているうちにボクの一年で最も重要なイベントが終了した。

………
またしても読者を置いてけぼりにして、情熱的に長文を綴ってしまった。

おっと、
子どもたちの歓喜の声が聞こえてきたぞ。

上の二人は、Switchにマリオパーティ。
末っ子はパワーショベルのラジコン。

え?
サンタクロースはいるのかいないのか?

ハハ。
満を持して、真顔で言わしてもらおう。

そんなのは曖昧なボーダーでいいのだよ。

‘’思い込みのメガネ‘’をかけたままの方が素敵なモノだって世の中にはあるのだ。

「歪んだ世界を見ている自分」に気付いていないことの方がいいことだってあるのだ。

って。
散々、語ってきて最後にこれは矛盾してる?

ボクの記事なんてそれでイイんだよ。

ネ!

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