「ギリギリでいつも生きていたいから~さAh~♪」は、なんとも罪な歌だ。
気づけば誰もがなんども口ずさみたくなる、絶妙なフレーズである。最高♡
毎朝口ずさみたい。毎晩唱えたい。
そういえばすこし前に、思春期に聴いた歌の歌詞が自分の価値観に大きく影響を与える、という内容の記事を読んだ。
その場合、この曲を聴き続けたボク達は、この曲からいったいどのような影響を受けてしまったのだろうか。
ボクもアナタも、キレイなお姉さんも人生をふり返ってみてほしい。
待ち合わせの到着時刻はギリギリ、
月末の小遣い残は空っぽギリギリ、
期限ギリギリにレポートを滑り込ませ、
試験前日になると「あと一日あれば・・・」と嘆くギリギリ感。
ふと気づけば、あのとき口ずさんだ
ギリギリな生き方をしてはいないだろうか。
学生諸君であれば
‘’こんなんじゃ、立派な社会人になれないかもしれない‘’なんて自己嫌悪に陥っていないだろうか?
大丈夫です、安心して下さい。
社会人になっても、やたらとギリギリに生きている人はたくさんいます。
そう、ここにも。
まさにボク自身が、どこからどう見てもギリギリに生きている人間以外の何者でもないのだ。
‘’ギリ生き‘’社会人として、かれこれ20年。
いよいよアンビリーバブルな‘’申し子‘’の域に達してきたボクの経験から説明すると、
ビジネスで
「ちょうど今メールを打っていたところで」
という秘技を使うときは、たいていの場合やっていないのに、ごまかすために言っているパターンが9割である。
この秘技を使うときの深層心理は
少し遅くなってしまったことを大目に見て欲しい、優しくして欲しい、罪を軽くしたい、回避したい、許して欲しい。
そういう欲求の節がある。
何という愚かで卑しい欲求なのだろうか。きわめて悪質な輩であり、なんとも恐ろしい人間である、オレは。
では、実態はどうか
さて、‘’ギリ生き‘’の歴史を20年も刻み、
二言目には「忙しいアピール」を繰り出すことに躍起になるボクではあるが、
冷静に振り返ってみると毎日のように家に帰ってから
子どもが乗りこなすキャスターボード(ブレイブボード)を
“うぉ、こんなのムリムリムリ、死ぬ死ぬ“
と叫びながらリビングで練習しているし、
くつろぎながらマリオカートで
“うわ、こんなところにバナナ置くなや!“
と末っ子を叱りつけながらゲームに精を出している。
何一つとしてギリギリに追いつめられる要素はないどころか、まだまだ余裕しゃくしゃくである。
つまり
‘’どんなに頑張ってもギリギリになる‘’
というアレはただのハッタリ。
嫌なことを後回しにして
ギリギリになってから忙しそうにバタバタしているだけなのだ。
それでも”ギリ生き“を続けてしまうのは、「納期遅れ」は明確に罰せられるべきものではあるが、
‘’ギリ生き‘’は何とか間に合っちゃう。
スリルを感じながら最後は達成。
ちゃんと助走を付けて、勢いをつけているから興奮もMAX、最高♡
その上、間に合った瞬間から頭はこれでもかと言う程に冴え渡り、信じられないスピードで脳の回転を実感する。
サイン、コサイン、タンジェント、
おー、よっしゃかかってこい!
言うなればフンハー。
みたいなことを繰り返して余韻の湯にどっぷりと浸かる充実感。あーいい湯だ、極楽極楽と。
しかしながら本質的な部分はもちろんデメリットだらけである。
周りの人にも「今すぐ」を当たり前に要求して迷惑をかけるし、突発的なことを要求されると、いっぱいいっぱいで対応なんてできやしない。
まさに愚の骨頂。
自らのスケジュールをコントロールすることのできない無能さをマザマザと露呈してしまっているのだ。
ギリギリで生きるボクは、noteの毎日更新を100日でやめた。
30日目くらいで大変だなぁ、と思いながらも習慣とはスゴイもので、連続更新自体は薄ら笑いをしながらロックンロールなノリで
ナンとかこなせるようにはなった。
が、それでも毎日更新をやめた。
その理由は、他にもいろいろとあるが
一番は、文章に‘’自分らしさ‘’を表現できずにシンプルに楽しくなくなったからである。
百聞は一見にしかず。
これね。
今でも明確に覚えているが、唐突に、なんかもう全体的に気だるい感じになりながら書き綴ったモノホンの惰性記事である。
自身で改めて見直してみると、
なかなかこいつは恥ずかしさ満点の文章力をドヤ顔で披露しながら狂おしいほどに意識高い系を身にまとっている。
ハハ笑
片や今、ボクがここにぶつけている文章は、限りなく素性に近く、リアルな感情が表現できているものといえる。
あまりにも自由奔放すぎて、先日の記事は、エロを書きたいだけという未熟な本能をどうやら一部の読者さんに見事に見透かされてしまい
‘’本題とキャバクラ関係ないよね‘’
という冷静なご指摘を頂くほどであった。
なぜ、以前とこうも中身が違うのだろうか。
ボクはここに文章作成の極意があるように思っている。
「アイデアをだす時間」+「まとめる時間」
文章なんてのは特にそうだが、
新しく製作するものにかかる合計時間は、
この式で成り立っている。
サラリーマン生活を送りながら2000文字以上の記事をゼロから作り上げて更新するには、平日はとにかく時間がない。
アイデアなんて出していたらまとまるものも、まとまらない。
だから既にあるものをコネクリまわして最初から“まとめ“に入って、キレイに整えるだけの無難な内容に終始してしまっちゃうのだ、どうしても。
今は、土曜日の4時から記事を作成し始めて、7時頃にアップデートする。
所要時間はおおよそ3時間。
実はこの時間は以前同様に“まとめ‘’オンリーの時間に費やしており、これ自体には変わりはない。
しかし決定的に違うのは
「アイデアをだす時間」である。
これに今は日曜日から金曜日までの6日間使っている。
この6日間は、「まとめる」とか「整える」ことについてはいっさいの意識をせず、
決めたテーマについて仕事中のふとした瞬間や、
仕事中の電車の移動時間に思いついたことをどんどん発散させて、
それをノートに書きだす作業を地道にしている。土曜日の納期に向けて。
本質を考えるために使った「価値を高める」ための時間が毎日更新に比べて6倍あるから、成果の価値が6倍高くなるし、自分らしさも6倍出せる。
その本質的な価値が出そろったものを、土曜日の3時間で一気に仕上げる。
そりゃ素性も思想も、エロを書きたいだけの未熟な本能も思う存分出せるよね笑
って、いうのがいまのボクのnoteである。
で、こんなに長々と綴っておきながらボクが言いたいのは1つだけ
納期が仮に10日間だったとしよう。
で、あればギリギリの9日間をアイデアを出す時間に費やした方が、きっと良いものができあがる。めちゃくちゃ当たり前だけど。
でもこれをしようと思ったら結構、難しい。
だって仕上げの時間がどうしても気になっちゃうから。
つまるところ言い換えると
“価値を生まない仕上げの時間“をどれだけ短縮できるか、
ということで最終製品の質が左右される、
とボクは思っている。
おそらく仕事にしたってそう。
デキ、仕事力、というのはアイデアの量に比例する。
「それらしく見せる」コトばかりに長い時間を投じて、
「整えるスキルや知恵」ばかりを身につけていては、
個々の仕事はそれで乗り切れたとしても、
クリエイティブな仕事がすごくできる人には、きっとなれやしない。
だから同じ‘’ギリギリで生きる‘’のであれば、
ギリギリまでアイデアを出して、
ギリギリに一気に仕上げて提出できる能力をもった人を目指したいよね、って。
そんな話を今日はしたかった。
あれ!?KAT-TUNまったく関係ないよね。
という冷静なご指摘は甘んじて受け入れたいと思う。
偉そうに‘’仕上げ時間をいかに短縮できるか‘’と語りながら
言いたいことがバチコーンとキレイにまとめきれずに、いま7時を迎えた。
ボクの場合は
あーだ、こーだ格好つけて論じながら、
ナンの能力もなくて面倒なことを後回しにしているだけなんだよね。
そう、昨晩のことだ。
いくら言い聞かせても
宿題を寝る直前までせずにママに叱られてグスンとした長女をみて
‘’あぁ、これオレの遺伝だな‘’
とね。
そう思うわけですね。
こりゃ、夏休みは大変だ。
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