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心に被せた蓋をとる

先日、映画『えんとつ町のプペル』の2回目の鑑賞に行って来ました。
(大いにネタバレしていますので、これから映画を観る方は読まれないことをお勧めします。)

2回目は前の席で見るといい、映画の中の町に没入できるから。という西野さんの発信を聞いていたので、最前列のチケットを予約して。アプリで副音声も聴きながら観ました。

副音声では、そのシーンに張られた伏線や、シーンが生まれるまでの経緯などが西野さんの声で語られるので、

物語の中に入り込むというよりは、ちょっと引いた目線で観ることになるな…と思いながら観ていたのですが、

結果、1回目より号泣。


自分でもびっくりして、暗闇の中でマスクをぐじゅぐじゅにしていたのですが、
中でも1番胸に感情が押し寄せて来たのは、終盤のアントニオのシーン。

アントニオは主人公のルビッチと同世代の子で、星の存在を信じるルビッチやプペルを罵り、時に暴力まで振るいながら、「星なんてあるわけねーだろ!」と信じることを諦めさせようとするのですが、

実は小さい頃に一度、母親と町を歩いているときに空に光るものを見ているんです。

でもそれを母親に言おうとしたけれど、目の前で異端審問官が町の異端者を取り締まっている光景を見て、「異端者」になるのが怖くて飲み込んでしまった。

「星はあるんだ!」というわくわくした自分の心に嘘をついて、無かったことにしてしまったんです。

だからルビッチやプペルが、周りになんと言われても信じる心を曲げないことに苛立って、諦めさせようとしていました。

それでも、ルビッチとプペルが異端審問官に捕まりそうになりながらも星の存在を確かめに行こうとするのを見て、最後には力を借します。

「チクショー!! もしも星が見つかったら…あの日諦めた俺がばかみたいじゃねーかよ!!!」

と泣きながら。

ここが本っっっ当に泣けました。


自分の心に蓋をしたことが、悲しくて悔しくてたまらなかったアントニオ。それに共感したからこそ私はあんなにも泣いたのだと思いますが、

観ている最中はそんなこと考えるヒマもなく、なんだかまるで自動的に涙が出るマシーンみたいに自分の意思の追いつかないところで泣いていました。

(ヘッダー及びこの写真は、「えんとつ町のプペル 光る絵本展 in六本木ヒルズ」にて撮影。)


映画の後、私が蓋をしてきたのはなんだろう、と考えてみました。

思うにそれは、
・自分の好きなものを好きと言うこと(個性的なものや見えないものの世界のことも含む)
・夢を叶えることはできる、と思うこと
・好きなことをして生きていくことはできる、と思うこと

などですが、実は映画が終わってすぐは、書いてみるもののピンと来ませんでした。正直、もう結構蓋を外せてきていて、自分の中で解決していると思っていたんです。だから途中まで書いたこの感想noteも、行き場を失って手が止まってしまいました。。

でも昨日、前々から予定していて母とじっくり話をする時間をとったのですが、その中で「学生の頃、私が『文章を書く人になりたい』と言ったら、『もっとしっかりした仕事に就いて。書くのは趣味じゃダメなの?』とお母さんが言ったのが悲しかった」と話したとき、とても苦しかったけど、正直に思っていたことを言えたなあーー! という気持ちになりました。

その時、言いながら私はアントニオのシーンのことを思い出していました。
やっぱりこれか。これだったんだ。

母はとても真剣に「そうね。もっとしっかりあなたの話を聞くべきだったわね。ごめんなさい。」と謝ってくれました。

実は一年前に渡した手紙の中にも同じことを書いていて、そこには他にもたくさんの本音を書いていました。

母からは「本音を言ってくれてよかった、本当にありがとう。」という言葉は貰っていたのですが、細かい内容については少し考えてから返事を書くね、と言われていたので、正直どう思っているんだろう、と不安だったのです。

でも今回こうやって面と向かって話ができたことで、私の中で一つ大きな蓋が外れました。そしてなんだか予想していたよりもずっと大きな安心が心に広がっています。私はこのまま好きなものを好きでいいんだ。やりたいことをやっていいんだ。よかった!!! そんな気持ちになれました。



自分が自分の心に被せた蓋って、時には被せたことすら忘れているもの。だからこうして映画を観たり、人と接したりすることによってそれを思い出したときを、大切にしなければと思います。

何がそのスイッチになるかはわからないから、自分の心の動きに敏感でいよう、そしてそんな瞬間をたくさん持てるように、「気になる」という気持ちを大切にして、そう思った方には行動を起こしてみよう、と思います。

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