【小説】象から咲く花

公園には象がいました。
象の鼻は滑り台になっていて、お腹はくり抜かれ、身体には無数の落書きがありました。象は身体に文字を書かれることも、書かれた文字を想像することも大好きでした。

象はたくさんのことを知っていました。
象の動かない視界に映るものは限られていましたが、その代わりに、大きな耳で色んな話を聞くことができたからです。近くの学校のチャイムの音が変わったこと。三丁目の山田さんが老衰で亡くなったこと。花火大会のあとのカップルは公園に来ること。小学生たちがはしゃぎながら噂している、公園の端で見つかった犬の骨のこと。それをずっと探し続けている、おばあさんのこと。

象は、それら全てが繰り返されるということも知っています。季節が巡り、木々たちが同じ変化を繰り返すように、生き物もゆっくりと時間をかけて同じことを繰り返しているのです。何も繰り返さないのは、ここにいるブランコと、バネ仕掛けの兎とパンダ、小さな滑り台と、高さの違う鉄棒と、自分だけ。自分と仲間たちだけは、時間をかけて錆を纏い、色褪せていくだけだということを、象はもうずっと前からわかっていました。

遠くから、跳ねるような足音が近付いてきました。「みよちゃんだ」と象は思いました。
象はみよちゃんのことが大好きでした。今年小学校に上がったみよちゃんは、他の誰よりも象の身体の中で過ごすことが多かったからです。象はみよちゃんが大好きで、みよちゃんは象が大好きだったのです。

いつもは何人かのお友達と公園に来ていましたが、今日のみよちゃんは一人でした。みよちゃんは象の身体の中に続く小さな階段を上ると、ランドセルを乱暴に置いて、教科書の間を探っているようでした。象の眼からみよちゃんは見えませんでしたが、自分の身体の中で起きる出来事は大体わかります。みよちゃんはランドセルから何かを包んだティッシュを取り出すと、その中身を象のお腹に撒き散らしました。
「種だ」象はお腹に当たる小さな固い粒を数えました。1、2、3、4、5。
みよちゃんはその間に砂場に走って行くと、両手に砂をこんもりと盛って帰ってきました。象は可笑しくなりました。みよちゃんは、僕のお腹に種を植えようとしてるんだ。そんなことをしても、地面じゃないから、芽を出すわけがないのになあ。
みよちゃんは真剣な顔で、象のお腹の中に置いた種に土をかけていきます。それが一段落するとみよちゃんは満足げに微笑んで、今度は象の身体の上に登りました。みよちゃんの足音が、重みが、象の身体に響きます。象は幸せでした。遊んでもらえることが自分の役目だと知っていたからです。

頂上に着いたみよちゃんは、公園の外の、プールの方を見ました。みよちゃんの身体を、心地のいい秋の風が包みます。みよちゃんがその風を吸い込もうと大きく伸びをしたときのことです。
象は、みよちゃんを支えようと踏ん張っていた足の力が、ふいに軽くなるのを感じました。「あ」と思ったのも束の間、象の視界を何かが遮り、またすぐに明るくなりました。象は恐る恐る目線を下に向けました。
みよちゃんが、落ちてる。そう思った途端、象の視界は真っ暗になりました。

象が目を開けると、辺りは見たことのない白い光に包まれていて、象は慌てて手を顔の前に持ってきました。少し薄暗くなった視界に、五本の指が見えます。
「あれ?」
自分の思ったことが、小さな女の子の声になって聞こえてきました。目の前にある人間の手のひらを、自分の左手で触ってみます。その左手も、人間の手のひらの形をしています。

「……みよ?」
近くから女の人の声がして、首をそちらに曲げました。視界が、ぐるりと動きます。
「みよ!みよ!お父さん、みよが起きた!」
白い光に慣れてきた目が、辺りの状況を捉えました。それでもここがいつもの公園じゃないということがわかるだけで、自分がどこにいるのか、さっぱりわかりません。女の人に揺さぶられ、ぐらぐらと動く視界の中で、象の目線は遠くに貼ってある鏡を捉えました。鏡の中では、首に白い輪っかを巻き、頭を包帯でぐるぐる巻きにされたみよちゃんが、女の人に身体を揺さぶられていました。

象はみよちゃんになりました。
記憶喪失と診断されたみよちゃんの身体の中で、象はいろんなことを考えて過ごしました。たまに見かけていたみよちゃんのお母さんは、変わらずみよちゃんのことを大事にしていたし、お父さんも、お見舞いに来るお友達も、みんながみよちゃんを大事に扱いました。
象は頑張りました。たくさん歩く練習をして、たくさん声を出しました。象がみよちゃんの身体を大事にすれば、みよちゃんが帰って来たとき、きっと喜んでくれると思ったからです。
でも象は、みよちゃんがもう帰ってこないことも、なんとなくわかっていました。

それからたくさんの時間が経ちました。みよちゃんの身体は中学校の制服を着て、高校の制服を着て、大学生になって、就職をしました。
象はパンツスーツの窮屈さを感じながら、一段、また一段と、かつての自分の身体を上ります。頂上に着いた象は、足を滑り台に投げ出すように座り、右手に持った缶のお酒を自分の横に置きました。
座っている自分の目線から、木の葉の浮いたプールが見えます。象は伸びをして大きく息を吸うと、そのまま仰向けに寝転がりました。象の形をした大きな滑り台はひんやりと冷たく、大人になったみよちゃんの体温がゆっくりと奪われていくようでした。

みよちゃん。星が綺麗だよ。
みよちゃん。会いたいなあ。

象はいつの間にか眠ってしまいました。
そして、象が目を開けると、そこはとても懐かしい、なんてことない公園の景色でした。もう、象の視界は動きません。大きな耳からまた、たくさんの話が聞こえます。
ああ、あそこのお宅の。残念ねえ、本当に。どうして同じ場所で二回も。親御さんはお辛いでしょうに。滑り台の撤去は見送りになったらしいわよ。そりゃ誰も触りたくないわよねえ。

象の身体には縄が巻かれ、立ち入り禁止の紙が張られました。もう誰も、象の身体に触れることもなければ、落書きをすることもありません。もちろんみよちゃんも、ここには来ません。
象は初めて、消えてしまいたいと思いました。消えて、みよちゃんと同じところに行きたいと、強く思いました。

春が来て、秋になりました。雪が降って、日差しが公園をギラギラと照らします。何度も何度も全部が繰り返されて、何度も何度も全部が終わっていきました。
そして、誰も触れようとしない象の周りには、たくさんの花が咲きました。特に象の顔の下には、色とりどりの花が所狭しと咲いています。象の身体を縛っていた縄はいつの間にか劣化して、花を育てる土になりました。

知ってる?あの象の滑り台、夜に涙を流すんだって。

象の身体はペンキが剥がれ、ひびだらけです。
くりぬかれたお腹のひびから咲いているあの花の、最初の一粒を想って、象は今日も涙を流すのでした。

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