【小説】フルーツポンチ

「起立、礼、さようなら」
「さようなら」
帰りの会の終了を告げる高めのチャイムが辺りに鳴り響き、ランドセルを背負った子供たちがパラパラと教室を後にした。手元の日誌と資料を、トントン、と教卓に当てて揃える。教師になって二年目、私が初めて担当したクラスも、この来月でクラス替えとなる。

突然、外からカラスの鳴き声がして窓を見る。カラスはベランダの手すりにとまり、こちらをじっと見ていた。
そうだ、あのときも、こんな風にゆったりとした放課後だった。

フルーツポンチ、という都市伝説が噂されるようになったのはいつからだっただろう。記憶が正しければ、私が小学校に入学したときにはもう、強烈な怪談話として誰もが認知していた。
グーは「グリコ」、チョキは「チヨコレイト」、パーは「パイナツプル」。ジャンケンをして、勝った文字数だけ階段を上れるあの遊び。そしていつできたのかわからない、「フルーツポンチ」という特別ルール。
親指と人差し指、中指の三本を立てると「フル」と言って三種類の手の形すべてに勝てる、というものだ。必ず勝てるうえに「フルーツポンチ」の七文字分、一番多く階段を上れるそれは、私の通う小学校の誰もが認知しており、誰一人として使うことのないルールだった。

フルーツポンチで階段を上ると、最後の段を踏み外して死ぬ。

「最初はグー、じゃんけん」
ぽん、という声に合わせて小学校四年生だった私が出したのはチョキで、私以外の二人はパーを出した。勝った、と思ったのも束の間、その内の一人、タクミ君が出していた手の薬指と小指を折った。
「あ、フルじゃん!ずるい」
「いいだろ、一回は使えるんだから」
「でも、やめた方がいいんじゃ」
私の怖がる顔が可笑しかったのか、タクミ君は私に笑いかけると、「メイは怖がりだな、何も起こらないから、そこで見てろ」と言って私達に背を向けた。

「フ、ル、ウ、ツ、ポ、ン」
チ、と発音していたかどうかはわからない。
タクミ君の後ろ姿が、一瞬、幾重にも重なって見えたような気がした。まるで、そこに何人もの小学生がいるみたいに。タクミ君は階段を踏み外さなかった代わりに、貧血でも起こしたかのような具合で後ろによろけた。右手が何かを掴もうと宙を握る。
「ひっ」
私の声が漏れると同時に、タクミ君は私と友達の間をごろごろと落ちていった。

誰が言い出したのかもわからない都市伝説は、タクミ君の死によって現実のものとなった。

カー、という鳴き声がして我に返る。ベランダの柵から飛び立ったカラスの羽の音だけが教室に残る。また思い出してしまった。あのとき私がチョキを出さなかったら何か変わっていただろうか。あのとき友達の誘いにのらなければ。通りかかったタクミ君を誘わなければ。

「チ、ヨ、コ、レ、イ、ト!」
教室の外からタン、タン、と階段を上る軽やかな音と共に声が聞こえてくる。意識が現実に引き戻される。
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
「あ、何その形」
「お前知らないの」
フルーツポンチだよ、と聞こえたところで、私は教室を飛び出していた。

それ都市伝説のやつだろ。間に合って。そうだよ。間に合って。お前それやめなよ、ほんとに死んだらどうするんだよ。間に合って。死なないって、こんなので。間に合って間に合って間に合って。フ、ル、ウ、ツ、ポ、ン、

宙に掲げられた右腕を、必死に掴んだ。
幾重にも重なって見えた右腕の影はそれぞれが違う服を着ていて、その中には見覚えのある青いTシャツもあった。それらは私が掴んだ腕に集約されるように消え、一本の細い子供の腕になった。さっきさようなら、と号令をかけた佐藤くんが、私の右手に全体重を預けた形で階段を一段だけ踏み外すと、脛をぶつけた痛みで少しだけ呻いたあと、口を開いた。

「メイ、ありがとう」
「え?」

佐藤君が顔を上げる。
「先生?」
佐藤君は当たり前のように佐藤君の姿をしていて、叱られるであろう自分の未来に肩を竦めていた。
「……階段ではしゃがないようにね」
「はーい」
ランドセルを背負った背中が遠くなり、下駄箱で靴を履き替える音が聞こえてくるまで、私はその場から動けなかった。

それからフルーツポンチというルールでの事故は起こらなくなった。そして何年かすると、フルーツポンチという都市伝説は嘘のように消えていった。
それでも駅の階段、アパートの階段、そして、学校の階段を上るとき、頭の中で声が聞こえてくる。
フ、ル、ウ、ツ……

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