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わたしはどこへ帰りたいのか

わたしにはホームがない。それなのに、ときたまホームシックになることがある。わたしはどこに帰りたいのだろう。

昨日、マックの新しいCMをみた。
マックはちょっと、ホームシックに効くらしい。

わたしにとってホームシックとはなにで、一体どこに帰りたいのか、いろんなことを思い出しながら書いてみた。これが新生活でホームシックになった人に届いて、一緒にさみしくなれたらちょっとはマシかなと思って書いている。


わたしにはホームがない

マックのCMをみて、自分のホームとはどこだろうと考えてみて、そういえばわたしにはホームないのだ、ということを思い出した。
ホームがない、とはいうが、わたしはホームレスではない。心のふるさととか帰る場所とか、そういう言葉で形容されるところが、わたしにはまだないということ。

わたしは、生まれてからしばらく両親の実家である岐阜と愛知を行ったり来たりしながら育った。小さなアパートを転々としていて、同じ場所に長く住むことはなかったと聞いている。
そのあと、物心ついた頃から小学2年生までの約5年間は、外国人の多く住む愛知の県営アパートで暮らした。母親が厳しく、外で友達と遊んだ記憶はほとんどないので、家での出来事や学校での記憶ばかりが思い出として残っている。
その間に次々と弟妹が生まれたこともあり、小学2年生の終わりには手狭になったアパートから新築の一軒家へと引っ越し、それから小学6年生までの約4年間は岐阜の小さな町で過ごした。

中学〜高校時代の6年間は、中学受験をきっかけに親元を離れ、学校のある熊本で寮生活を送った。寮といいながら学生マンションの一室を借りていただけなので、ほぼ一人暮らしの6年間だった。
その後は大学進学をきっかけに上京し、いまは東京で一人暮らしをしている。東京での暮らしは、次の4月で4年目になる。

いろんなところで暮らしてきたけれど、だからこそ、わたしには自分が帰るべき場所が、ホームが、どこにも見つからない。


地域創生の哲学対話で気づいたこと

去年の夏、新潟で地方創生について哲学対話をしたことがあった。

ぼんやりとしか思い出せないが、「ふるさととしての地域」みたいなことについて話していたのだと思う。ふと、自分にはこの地域がふるさとだ、といえる場所がないことに気づき、その瞬間、心にぽっかりとあいた穴を見つけてしまった。

たしかに、わたしが過去を過ごした場所はあるけれど、ここに帰るのだ、と思える場所がわたしにはなかった。愛知のアパートは、いまとなっては建物だけが知っている場所で、友達はおろか知り合いすら誰もいない。岐阜の実家は、離れていた6年間のうちに変わり果てた家族の残骸があるだけで、もはやわたしの帰る場所ではなかった。東京にいると、わたしは狭いアパートに一人きりで、借りた家に期間限定で住んでいるのだということを強く感じる。

どこにも帰るべき場所のないわたしの心が、なんとなくさみしくて、とてもつめたかった。


成人式に行かなかったはなし

思い返せば、わたしは成人式にも出席しなかった。
どこにも出席すべき場所を見つけられなかったから行かなかっただけなので、出席できなかったというほうが正しいような気もする。

当時住民票を置いていた実家には招待のハガキが届いたけれど、岐阜にいる知り合いなど片手で数えて余るくらいだったし、すでに実家は(わたしにとっては)わたしの家ではなくなっていたから、出席しようとは思えなかった。

大学の友人で出席しない子たちも何人かはいたし、正直成人式にあまり執着がなかったから、行かなくてもいいと思っていたけれど、当日SNSにあがるみんなの成人式や同窓会の写真を見て、いいなあと思ったのもほんとうではある。

みんなには帰る場所があるのにわたしにはそれがないのだ、ということを、なによりも強く感じた瞬間だった。


わたしはどこに帰りたいのか

わたしにはホームがないが、ホームシックになることがある。無性に、どこかへ帰りたい、と思うことがある。

きっと、ホームがないからこそ、ホームに帰りたいのだろう。

自分が居ることを無条件に肯定される場所、ただ自分が自分で居ることのできる場所、誰かが自分を待っていてくれる場所、誰かが自分を守ってくれる場所、そんな場所を無意識のうちに求めているような気がする。


「いってらっしゃい」という言葉が好きだ。

ここにわたしが帰ってきてもいいのだ、この人はそれを当たり前に思ってくれているのだ、と感じられるから。
恋人でも、友人でも、家族でもいい。いつか、「いってらっしゃい」といってくれる人がそばにいて、わたしはここに帰るのだ、と思える場所ができたらいいなあと思っている。


マックは、わたしのホームシックにも効くだろうか。



ちなみに、わたしが見たのは3月12日からテレビで放映されている「ちがう街、おなじ味」というCMのようです。

また、今回のカバー画像はわたしの幼少期のもので、この頃は特にホームがないことにさみしさを感じていたわけではないと思われます。なつかしい。


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