土門拳の凄さを知る

土門拳の古寺巡礼展をみてきた。

背筋が伸びる思いになりました

土門拳の作品は若い頃に写真集で何度も見ていたのだけれど、あらためて展示を見ることで、その凄さに驚愕した。それと同時に、いままでわかった気になっていた自分の愚かしさが恥ずかしく思った。

とにかく驚きました

月並みな感想で申し訳ないのだけど、写真としてここまでキチッとした作品ってなかなか見ないと思った。それで、あの存在感。すごいのひとこと。

完璧な構図

まず驚いたのが、無駄のない構図。仏像写真でも、風景写真でも、どの写真にも無駄がない。たとえば、五重塔を下から見上げて撮られた写真には、松の木が入り込んでいるのだけれど、決してその松が五重塔の邪魔にならない。そこにあるべき松が、完璧な姿で写し出されている。仏像の写真でも、余白のようなスペースが必要最低限まで削られていて、それが仏像の存在感を際立たせる。

ごまかしを許さない被写界深度

写真のどこを見てもハッキリと被写体が写し出されていることにも驚いた。ごまかす気などまったくないというか。それは、仏像のアップ写真でも同じ。ものすごい近距離から仏像を見つめていながらも、その眼差しは冷静さを失わず対象のすべてに意識が向けられている。そんな印象を与える被写界深度が印象的だった。

気になるキュレーターの意図

作品もさることながら、展示も興味深かった。くっきりぱきっとした写真が並ぶなかで、時折やわらかな光の優しい写真が箸休めのように紛れ込んでいた。ド迫力の写真家、土門拳もこんなソフトな写真を撮るんだなぁと、その人柄に少し興味がわいた。

展示の最後が石の写真で締めくくられているのも印象的だった。その写真そのものも美しかったし、見ていて飽きないものだったのだけど、その写真を止め石のように最後に選んだキュレーターの意図にも興味がわいた。

最も美しい視点を探す眼差し

紹介された作家本人の言葉にもあったように、被写体の一番美しい見え方に作家がこだわったのは、作品を通して強く伝わってくる。土門拳の他に「対象の美しい見え方を探したんだろうな」と作品から強く感じられる作家として伊藤若冲を私は思い浮かべる。でも、伊藤若冲の眼差しと土門拳のそれは大きく異なる。表現手段が絵画と写真で異なるのだから当然と言えば当然なのだろうけど。両者、ともに対象を至近距離から様々な角度でジロジロ見たに違いない。でも、土門拳の作品には「対象を突き放した感」がある。対象との距離が近いのだけれど、同時に遠いというか。何者にも媚びないというか。それが土門拳の言う「睨み」なのかもしれない。

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