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ブランドビジネスの達人だった!日本史上最強の出版人、蔦屋重三郎を知っていますか?

このnoteはサントリー寺子屋講座の資料を公開するものです。本来であれば公開するようなものではなく、あくまでも説明するために忘れちゃだめなことや、口頭で話すことのメモ、講座に参加した方が聞き逃した箇所を補足するために作成しています。文章がめちゃくちゃなのは許してね。

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三世大谷鬼次の奴江戸兵衛(さんせいおおたにおにじのやっこえどべえ) 大判 錦絵
東洲斎写楽筆(とうしゅうさいしゃらくひつ)
寛政6年(1794)シカゴ美術館

28枚の連作、見たことがないデフォルメされた大首絵。そのプロデューサとして知られる蔦屋重三郎。

それは彼にとってほんの一面でしかない。

江戸というか日本最強の出版人、蔦屋重三郎の人生を4つの期間にわけて解説。今回は一介の本屋が巨大出版社の経営者に成り上がるまでのサクセスストーリー。

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「体制に批判的な先進的文化人」というイメージが強いのですが、「吉原出自の宣伝巧者、堅い商売に専心し出版を組み込んで遊ぶ戯作文芸の仕掛けを利用して失敗知らずの本作りを企んだ商人」と蔦屋重三郎研究で有名な中央大学の鈴木俊幸教授が評しています。(中央区観光協会特派員ブログより)
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=1189
蔦屋重三郎 (平凡社ライブラリー) 」
鈴木俊幸
蔦屋重三郎に関して書かれた名著。この本を購入すればこの先本記事を読む必要はありません。

山東京伝作『箱入娘面屋人魚 3巻』国立国会図書館デジタルコレクションより一部をトリミング。蔦屋重三郎(狂歌名:蔦唐丸)が口上を述べているところ。
『箱入娘面屋人魚』の内容はこちらからどうぞ。
https://intojapanwaraku.com/culture/85104/

第1期 吉原でブランドビジネス

●23歳〜30歳活動の中心は吉原
●この時期3つの大きなことをした。
●この時期が稀代の出版人蔦屋重三郎の礎となる

●幼くして吉原喜多川氏の養子となり、吉原で育つ。

●1773年(23歳) 吉原細見(遊郭のガイドブック)の販売権獲得(軒先を借りての販売)。このころ吉原細見の出版は鱗形屋の独占状態

●鱗形屋は日本橋にあった1660年創業の老舗

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●1774年(24歳) 平賀源内が吉原細見の序文を書く

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里のをだまき評(さとのおだまきひょう) 
吉原細見
風来山人(平賀源内)
安永三刊(1774)
国文学研究資料館 鵜飼文庫

●江戸独特の「通」という概念がこのころ完成する
さっぱりした気立てで、あかぬけがし、色気(いろけ)もただよう

●1775年(25歳) 鱗形屋出版の恋川春町(1744~89)『金々先生栄花夢』(きんきんせんせいえいがのゆめ)が空前の大ヒット。黄表紙誕生

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黄表紙 草双紙(くさぞうし)の一つ。江戸後期、安永四年(一七七五)から文化三年(一八〇六)頃にかけて多く刊行され、黄色の表紙で、内容はしゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説。半紙二つ折本で、一冊五枚から成り、二、三冊で一部とした。代表的な作者として恋川春町、山東京伝らがいる。

金々先生栄花夢の内容は下記にすごーくよくまとまっています。
http://ezoushi.g2.xrea.com/kinkinsenseieiganoyume.html

蔦屋重三郎が20代で果たした3つのこと

①出版物を使って吉原を江戸文化の象徴的存在とした

●吉原を文化の発信地としてブランディング
 最初の出版物「一目千本」(ひとめせんぼん)(24、5歳)
 遊女を花に見立てた出版物、遊女は出てこない
     
●時代背景
 ちょうどこのころ花が立て花から生花に変わった
 生花をになったのは武士階級=知的階級
 その知的な生花に遊女を見立てる

●当時の吉原、意味を求めるとかせこいとかは無粋なこと
 江戸の主役が完全に武士から新興商人や町人に変わった。
 通であることが求められた。

②1774年(24歳) 出版界初のブランドビジネス

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磯田湖竜斎「雛形若菜の初模様」   

●西村屋と組んで遊女絵最大の錦絵シリーズを刊行
 遊女、新造、禿がワンセットになっていて上部に遊郭の店名
 ファッション紙に入っているブランドの広告集
 新しい遊女が入るたびに作られる
   
●7年間で140図
 蔦屋重三郎が企画し西村屋に持ちかけたが途中で手を引く
 このあと一枚絵はちょこちょこ
 本格的に進出するのが歌麿の大首絵とともに

→まだ地本問屋の流通網を持っていなかった。

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1776年(26歳) 「青楼美人合姿鏡」 出版 北尾重政、勝川春章

●超豪華本
 42軒の妓楼、163人の遊女
 遊女評判記


浮世絵師・北尾重政(きたおしげまさ)と勝川春章(かつかわしゅんしょう)の競作による、吉原の遊女たちの艶姿を描く錦絵本。
各妓楼自慢の名妓たちが、季節の風物とともに琴や書画、歌、香合、すごろく、投扇興などの芸ごとや座敷遊びに励み、興じ、巻末には彼女らの作による発句が掲載されています。高位の遊女は美しさだけではなく、豊かな教養もそなえていました。
手の込んだ多色摺で、美麗な着物の意匠までが入念に描かれています。この豪華な絵本は、のちに歌麿や写楽を世に出したことで有名な版元・蔦屋重三郎が企画出版したもの(相版元は本石町の山崎金兵衛)です。一般向けに販売するだけでなく、掲載された遊女や妓楼が出版経費の一部を負担し、宣伝用や得意客への贈り物としても使ったものなのでしょう。
西尾市岩瀬文庫より)

●もしかして日本で初めてブランドビジネスを手掛けた人物かもしれない
 吉原の遊女たちの悲しみを知り尽くしている蔦重だからできたのかも。

③1775年(25歳) 版元として吉原細見をユーザー目線に改革(価格破壊、値段別、ランク別、場所別ガイド)

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●吉原細見は吉原のガイドブック
 お土産物としても喜ばれた
 吉原細見を年二回刊行するとともに自社出版物の宣伝機能を持たせる
 出版物、というか雑誌を広告メディアに見立てる
 序文を有名作家に書かせる(吉原細見のブランディング、有名作家との人脈づくり)
 このあとの戯作=文芸出版への足掛かりともなる
  この戯作という言葉も平賀源内が考案したと言われている
      

●1777年ころ(26歳ころ) 独自の店舗を構える

→廓内に流通網を獲得

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亀山人家妖  朋誠堂喜三二  蔦屋重三郎 天明7 [1787]

朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ、狂名手柄岡持)を起用して黄表紙(大人向け絵入小説)出版スタート

●活動が吉原以外にも広がる
 当時としては画期的なこと
 地本=江戸生まれの本
 吉原発の出版物が地本の世界に進出して行った

吉原発流行の創出→吉原外に流通させる術を得る


●1780年ころ(30歳) 鱗形屋消滅

→地本問屋の株を獲得し地本の流通網を獲得


●書物問屋(しょもつどいや)と地本問屋

江戸時代、学術書や宗教書を出版する書物屋(しょもつや)(物(もの)の本屋)と浮世絵や「草双紙」と呼ばれた絵入り本など主に娯楽的な作品を出版・販売する絵草紙屋(えぞうしや)の2種類の本屋がありました。江戸では絵草紙屋を地本問屋(じほんどんや)とも呼び、彼らによって江戸という都市ならではの文芸が次々と生み出されていきました。(東京都立図書館)https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/bungei/

●1780年(30歳頃:以下すべて頃) 吉原細見の出版権販売権独占によりビジネス拡大(独占は33歳頃から)

→吉原の出版流通を完全に掌握。


第2期 イケイケ期:狂歌で流行の最先端に


吉原細見と同時にある出版ビジネスにのりだす。

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浄瑠璃、富本節の正本(しょうほん)出版(27、8歳頃からスタートか?細見も正本も定期刊行物)

三味線を伴奏とする語り物音楽で、日本人のソウルミュージック
江戸を生きた人々にとってのソウルミュージックが浄瑠璃だった。
歌うではなく語る
室町時代に生まれた浄瑠璃姫の物語が大流行したのが起源
牛若丸と浄瑠璃姫の一夜の恋の物語

浄瑠璃
江戸のソウルミュージック
平曲や謡曲に発した、琵琶(びわ)・扇拍子による音曲(おんぎょく)の語り物と、それを承(う)け三味線を使って発展した諸派の音楽との、総称。また特に義太夫(ぎだゆう)節。室町時代末の演目「浄瑠璃物語」の流行で、この名が付いた。
正本
浄瑠璃(じょうるり)の詞章の版本をいう。浄瑠璃太夫(たゆう)使用の原本を正確に写した本の意

さらに正本をただ出版しただけではない!
吉原細見と正本を結びつける(浄瑠璃に遊女の名前を織り込む)
吉原と歌舞伎(演劇)を結びつける
    

当時としては画期的なメディアミックス
このメディアミックスも蔦屋重三郎の得意なこと



教育書(往来物)出版→多角経営

往来物は長期出版が可能な優秀コンテンツ
蔦屋重三郎のもうひとつの顔、優秀なビジネスマン

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当時流行の最先端だった狂歌の世界に身を投じる(狂歌名:蔦唐丸)

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●31歳頃 狂歌ブームが巻き起こる(1783年ころ江戸でピークを迎える)
 31歳からの数年が蔦屋重三郎の真骨頂
 和歌のパロディ
 白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき
 白河=寛政の改革を押し進めた白河藩主松平定信

●当時の狂歌をめぐる状況     
 大田南畝(四方赤丸)を中心に知のサロンができていた
 大田南畝は江戸の知的層である武士階級
 狂歌師たちが洒落本の自費出版に乗り出す。
 蔦屋重三郎はこのサロンに出版という舞台を用意した

洒落本=遊女との粋な遊び方を記した文学
もともと本自体は日陰の存在だったものを蔦屋重三郎がブランド化した

→洒落本を地本の流通網に乗せる

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江戸生艶気樺焼(えどうまれうなぎのかばやき) 山東京伝著 北尾政演(まさのぶ)画
三巻三冊 天明5年(1785)刊 蔦屋重三郎 
京伝の黄表紙の代表作の一つ。挿絵も京伝自身によるもの。大金持ちの息子仇木屋艶二郎(あだきやえんじろう)は、醜男ながら非常にうぬぼれが強く、色男の評判を立てようと、遊び仲間と相談し、様々な愚行を重ねる。最終的には遊女との心中まで企てるが、追いはぎにあって丸裸にされる。実はそれは艶二郎を懲らしめるために親が仕組んだ狂言で、親に意見されようやく身の程を知る。
艶二郎の獅子鼻は、京伝鼻と呼ばれ、また艶二郎はうぬぼれ者の代名詞となった。題名は、江戸前の鰻の蒲焼のもじり。

結論:流通革命と多角経営が蔦屋重三郎の真骨頂

サントリー寺子屋、今回はここまで。続きは後編にて。

和樂ウェブの音声コンテンツ「日本文化はロックだぜ!ベイベ」でも浮世絵や蔦屋重三郎のこと、紹介しています。こちらからどうぞ!


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万載狂歌集 まんざいきょうかしゅう
狂歌撰集(せんしゅう)。編者四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))。1783年(天明3)刊。題名は正月の三河万歳と『千載(せんざい)和歌集』にちなむ。『千載集』の17巻の部立(ぶだて)や配列に倣うなど趣向を凝らしつつ、古人から当代に至る230余人の狂歌を集めて、集大成の形を整える一方、文芸界、歌舞伎(かぶき)、芸能、遊里など多彩な人々の作も取り上げて、世人の関心を盛り上げ、江戸狂歌の熱狂的流行の気運をつくった。その中心の赤良の作は、唐詩の心で詠む「知らず心たれかは怨(うら)む朝顔はただ瑠璃紺(るりこん)のうるほへる露」、江戸生活を謳歌(おうか)する「吉原の夜見世をはるの夕ぐれは入相(いりあひ)の鐘に花やさくらん」など自由軽快な調べが特色で、同時に出版された唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の『狂歌若葉集』を圧倒し、『徳和歌後万載集』『狂歌才蔵集』と続く「天明(てんめい)ぶり」の一時期を画した。(コトバンク)
千載和歌集 鎌倉時代前期の第7勅撰和歌集。 20巻。 1288首。寿永2 (1183) 年藤原俊成が後白河法皇の命を受け文治4 (88) 年4月奏覧。組織のうえでは,仮名序があり,雑下を雑体として,長歌,旋頭歌,誹諧歌を収めていること,釈教,神祇にそれぞれ1巻をあてていることなどが注目される。選歌範囲を,平安時代中期一条天皇の時代から成立時までとし,名を明記する作者は 385名にのぼる。主要歌人は源俊頼,藤原俊成,基俊,崇徳上皇,俊恵,和泉式部,藤原清輔ら。作者不明のなかには,朝敵とされたため明記できなかった平忠度,経盛ら平家歌人の作もある。歌風は新奇な傾向を強く打出した『金葉和歌集』『詞花和歌集』の行過ぎを是正しようとしたため,概して平明温雅であるが,清新な叙景歌やみずみずしい抒情歌,深みのある思想歌などが少くない。(コトバンク)

●蔦屋はこれに刺激されて次々と狂歌の本を出版。

●狂歌が読み捨てから出版物として残されることになった。
そして同じ出版物を舞台としていた戯作者=小説作家と狂歌が強い絆をもつ

●黄表紙や洒落本(しゃれぼん)出版を軸に武士、町人、歌舞伎役者など身分を超えた人々が交わりを結ぶ

●狂歌を彩った人々
 大田南畝(狂名:四方赤良(よものあから))、喜多川歌(麿筆綾丸(ふでのあやまる))、朱楽菅公、朋誠堂喜三二(狂名:手柄岡持)、恋川春町(酒上不埒(さけのうえのふらち))。山東京伝(身軽折輔(みがるのおりすけ)))、烏亭焉馬(立川談洲楼)、五代団十郎(花道のつらね)など

蔦重は江戸のインフルエンサーたちのハブになった
 

●蔦屋重三郎の店に行く、本を買うことがブランドに。
 このころ黄表紙や洒落本などの流行小説は独占状態となる。
      
●才能を独占したのは作家だけではない。
 狂歌の交わりから歌麿という才能を独占
 虫や鳥、実は歌麿の才能はこの狂歌本によって磨かれた

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●1783年(33歳) 日本橋に移転

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日本橋から洒落本などの吉原本を流通させた=流通革命

中央区日本橋大伝馬町にあった耕書堂。

『画本東都遊』より「絵草紙店」(えほんあずまあそび えぞうしだな)
浅草菴(あさくさあん)編 葛飾北斎(かつしかほくさい)画 享和2(1802)年刊 
狂歌仲間の石川雅望(狂歌師名 宿屋飯盛)が撰した蔦重の墓碑銘には「其の巧思妙算、他人の能く及ぶところにあらざる也。ついに大賈(たいこ、大きな商店)と為る」。(中央区観光協会特派員ブログより)






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