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「東山文化」「応仁の乱」


茶道関係の座学で触れた「応仁の乱」「東山文化」。茶道を嗜む上で、重要な歴史。

先生がまるで”講談師”のごとく生き生き解説してくださるのが楽しく、興味深い。もっと学びたいという意欲が自然と湧いてくる。

メモ
十年続く応仁の乱で京都は丸焼き、疲弊した時、公家や京の人間は堺へ逃げていった。岐阜にも散っていった。そして文化も散っていくこととなった。なぜ、灘でなく堺だったのか。治安が良く船が使える。そして、2人の商人、今井宗久と武野紹鴎。茶というものを政治にも利用した信長は、今井宗久に様々な権利を与えた。鉄砲の商売で巨万の富を築く。武野紹鴎も商人。他と少し異なるのは、非常な教養人であった。三条西実隆に連歌などを学んでいる。今井宗久は、その教養が欲しくて武野紹鴎の娘を娶る。
などなど。まだまだ学ぶことは尽きない。

参考
読んで楽しくわかりやすい「応仁の乱」についてのウェブサイト、もう一つもタイトル通り、”わかりやすく解説”されている「東山文化」についてのウェブサイトがあったので掲載、一部引用しておく。


東山文化の特徴として公家(貴族)・武士・宗教それぞれの文化が融合したこと、庶民も含めて様々な身分の人や地方に文化が広がったことが挙げられます。

これは足利義政が身分などに関係なく実力のある文化人を集めたこと、応仁の乱の影響で京都を出ていく人が増えたことが理由です。

またもう一つの大きな特徴として簡素なものに美しさを見出すという考え方があります。

これは禅宗という宗教が大きく影響していました。

禅宗とは仏教の一種で質素な生活を好み、厳しい決まりごともありました。

室町時代には禅宗を信仰する武士も多く、また応仁の乱の影響で宗教を頼るものが増えていました。

引用元:日本史事典.com


令和元年六月二十一日(2019.6.21)

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