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Chara 「命のまつり」その55~祖父の看取りに心が辛くなる

看護師歴34年、体中、頭の中も対人援助職です。
仕事でくたくたになった対人援助職の方が人生をとりもどすお手伝いをしています。

介護施設で介護と看護の統括として働いていた。
何しろ4日間で受け入れの準備をし、次々と入所される利用者さんの
対応に追われていた。

職員不足も続いており、みんなが開設時のエネルギーをどんどん
減らしていた。
日々の疲れからすっかり回復することなく、働き続けていたような気がする。

その頃、デイサービスに通っていた祖父も次第にベッド上の生活が増えていった。実家の両親が介護をしていたが、慣れない介護に疲れていた。
両親はケアマネと相談し特養の申し込みをしていた。
要介護5、99歳、年齢相応の物忘れがある程度で穏やかな人柄
食事は自分で多少は食べようとする。
そんなこともあり、すぐに特養の入所が決まったのだった。

あの頃、私は何をしていたのだろう・・・
日々の仕事に追われていた。
日勤の仕事が終わり、残業して事務的な作業をしていた。
そして、くたくたになってお腹をすかしながら家路についていた。

当時、求職中の夫と3歳の娘はいつも帰りの遅い私を待っていた。
娘は泣きながら「お母さんを迎えに行く」と、家から何度も出ようと
していたと夫から聞いた。
その話を聞いて、私も泣きたい気持ちになった。

夫の仕事もなかなかみつからなかったし、
あっても仕事を選んで、色んな理由をつけて夫はしばらく
仕事につかなかった。
私が働くしかなかった。
祖父や介護で疲れていた両親のことを支える心の余裕は
正直なかった。

特養に入所してから、祖父は次第に無口になっていった。
面会に行った時、ベッドサイドに飾られていた地元の海の写真を眺めていた。

実家のすぐ近くの日本海

青い海、長年漁師をしていた祖父
地元を離れ、山間部の特養でどんな思いで過ごしていたのか考えると
心が辛くなる。
そして、看とり期になった祖父が最期に私たち家族に言った言葉

「家に帰りたい」


胸がつまって、ただただ涙が出て
「おじいちゃん、ごめんね。」と謝っていた。

私は何のために看護師をしていたのだろう・・・
介護施設で働いて、高齢者さんの看護や介護にあけくれて、
面会も月に1回くらいしか行けなくて、

祖父の最期の望みも叶えてあげることができなかった
本当に胸が苦しくて、痛みを感じて・・・・

後悔しかなかった

この経験は今も私の胸の奥深くで痛みを抱えたままいるような気がする


対人援助職の支援をしています。
コーチングやカウンセリングに関するお問い合わせ・お申込みは、インスタまたはラインでお待ちしています。
https://www.instagram.com/umi_kaze_coach/












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