所作の重要性と不要性
毎日珈琲を淹れる。
多い時には一日に三回淹れる。
「自分で湯掻いたパスタより美味しいパスタを食べられる外食店がない」
一時このことで大いに悩んだが、今では解消した。
今の悩みは「自分で淹れた珈琲より美味しい珈琲を出す珈琲店がない」ことだ。
今朝も自分用の珈琲を淹れながら、青梅のねじまき雲の長沼くんのドリップの所作を思い出していた。
彼のコーヒードリップの所作は非常に様式的で仰々しく、衣装や道具など細部にまでこだわりを見せるが、何と言っても特筆すべきはその設えから繰り出される彼の究極のこだわりの一杯の味だ。
どんなに所作や道具にこだわっても、結果が良くなければ何の意味もないということを彼は教えてくれる。
いや、そうじゃなかった。
教えてくれたのは、鹿児島の銘店と言われる某喫茶店だった。
珈琲を常用する者は、喫煙者が喫煙スポットの場所に明るくなるように、珈琲の摂取場所を押さえておく必要がある。
この地に引っ越してきた時に、銘店と誉れ高い某喫茶店に足を運ぶのはごく当たり前のことだった。
カウンターに陣取りマスターの勿体振ったドリップの所作を眺めながら珈琲の味に期待を馳せる。
「今日はブラジルがうまく焙煎できなかったから、コロンビアを少しブレンドしました。最近のブラジルは品が悪くなってねぇ」
珈琲屋の蘊蓄も飛び出し、こちらの期待は嫌上がる。
薄手の地に金彩が施された上品なコーヒーカップに入って彼の作品が目の前に出てきた。
彼はどんな作品で一見の客に勝負を挑んできたのか。
期待を胸に薄い金彩のふちを口に運ぶ。まず温度は・・・。
「・・・?」
ちょっとぬるいか?
香り・・・。ない。無臭・・・。
味は・・・。
「まずい!!」思わず口をついて言いそうになった。
泥水のような液体なのだ。どうやったらこんな珈琲が淹れられるのか訊いてみたい。
まさか、天下の名店でこのような珈琲を出すのか?
一見の客の威圧感に緊張して、蒸らし時間を間違えたのかも。(全くそうは見えなかったが)そう考え、自慢のオリジナルブレンドを9割カップに残したまま「水出し珈琲もください」と追加オーダーをした。
前の晩から仕込んだのであろうか。ピカピカに磨き込まれた真鍮の台座に乗った化学実験室を思わせる曲がりくねったガラス器の下端のフラスコ状の球体の黒い液体は不味くなりようもない。
「はい。水出し珈琲です。」
目の前に差し出された珈琲の液面は深く黒く静まり返って、さぞかし美味そうである。先ほどの珈琲の味を払拭すべくカップを口に運ぶ。
「・・・まずい・・・」
水出し珈琲がまずくなる理由がわからない。豆がダメなのか?いや、違う。
後に確認したのだが、マスターの弟子と思われる見習いが一生懸命淹れた珈琲は美味しかったのだ。
老齢に差し掛かったマスターは所作を厳密に維持することに固執したあまり、本来の目的である「美味しい珈琲を淹れる」ということをすっかり忘れてしまったように見えた。
まさに本末転倒である。
それなのに、知ったような蘊蓄を客に教え諭すように語るものだから、腹が立つ。
実は「まさか天下の名店で?」と先述はしたものの、名店でこそこういう事態に陥りやすい。
名店であることで客からのフィードバックも出にくいし、もちろん店側は権威に溺れている。
「評価の更新は重要だ」嫁の言葉だが、まさにそう思う。
一度固定化した悪い評価を払拭することはなかなか難しいが、いずれあの名店に再びお邪魔をして、渾身の一杯をいただきたい。
しかし、あと数年は行く気にならない。
長沼くんのことを書いたら、無性にねじまき雲に行きたくなった。
グラインダーで挽いた豆をネルに移し、ゆさゆさとネルを揺らし、上部に分離してきた豆の「薄皮」を、写真機材の「ブロワー」で慎重にシュコシュコと吹き飛ばすあの所作をまた眺めたいものだ。
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