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2023 読書この一年

 今年の読了冊数は86冊でした。昨年よりも約10冊減りました。なかなか読書のタイミングが取れなくなりつつありますが、それでも、時折恵まれる収穫には熱中してしまうものです。

 今年読んだ本の中から特に印象に残った9冊をご紹介します。なお、「今年読んだ本」ですので、昨年までに発売された本も含まれます。



『家政婦の歴史』

 今年の新書で一番の収穫は、濱口桂一郎『家政婦の歴史』(文春新書、7月発売、8月15日読了)でした。家政婦が、労働基準法による保護から漏れるに至る過程を、まるでミステリー作品でも読むかのように追っていきます。

 法制度の変遷をたどるのはもちろんのこと、1920年代に始まった家政婦という事業が、奉公的な女中制度や、過酷な労働環境・ピンハネが当たり前の人夫供給とは一線を画した近代的なビジネスモデルであったことを明らかにしています。

 にもかかわらず、GHQの占領下、急進的な労働者保護政策によって十把一絡げにされて禁止となりました。これをきっかけに、本来女中を想定して規定されたはずの労基法の「家事使用人」適用除外規定が、家政婦にも適用されてしまうことになります。

 現実に需要として存在し、無茶な労働をさせているわけでもない家政婦事業をなきものにするわけにいかないので、無理くりな弥縫策を弄せざるを得ない。その無理がたたった結果、家政婦は労働者保護の網から漏れてしまったのです。さらにこうした弥縫策によって、家政婦は労働基準法の前提中の前提である「事業に使用される」者でもなくなってしまってしまいました。

 明快な論旨の中に皮肉をたっぷりまぶしながら展開される本書の結末では、この問題の解決が、単に条文を書き換えるレベルではなく、抜本的な施策に依らざるを得ないことが説かれています。著者なりの真摯さと言えるでしょう。

『日本近代社会史』

 近世の身分制社会が解体された明治日本において、社会の仕組みはどのように形成され、変容していったのかを「社会集団」と「市場」というキーワードで見通したのが、松沢裕作『日本近代社会史――社会集団と市場から読み解く 1968-1914』(有斐閣、2022年発売、7月4日読了)です。

 近世社会では、一人一人の人間が、家業と財産を持つ「家」経営体に属し、幕府が公認した(主に職業別に編成される)身分的社会集団であるところの「村」や「町」にまとめられます。国家から役を賦課される際にはこの社会集団を通じて行われていました。

 こうした身分的な社会集団が無計画かつ急進的に解体された明治社会では、「家」がむき出しの市場経済にさらされます。新たに生まれる社会集団は、規範による相互扶助の通用しない「抜け駆け可能」なものであることから、各々の「家」は一か八かの選択を迫られます。その中で「家」が没落したり、「家」からの離脱を迫られたりした人々は、例えば都市工場労働者となり、親分・子分関係のような擬制的な「家」に属して、狭き立身出世の道を夢見たといいます。

 本書は、歴史を安易に現代に当てはめて教訓化しようという態度は取っていませんが、それでも「抜け駆け可能な社会集団」というキーワードに、現代の諸課題を思わず連想させてしまう力があります。

『政府債務』

 経済書では、森田長太郎『政府債務』(東洋経済新報社、2022年発売、3月19日読了)が勉強になりました。財政均衡をめぐる議論には不可欠の一冊となったに違いありません。

 本書は〈このままでは日本の財政が破綻する〉といった性急な議論には与せず、政府債務(国債)と貨幣との間には本質的な違いがないとするMMT(現代貨幣理論)の主張に一定の理を認めます。しかし経済全体の信用の質と量を安定させるという課題は依然残ることから、政府がいくらでも貨幣を発行できるからといって、財源制約を問わない財政支出を正当化するスタンスも取りません。重要なのは国家としてのリスクマネジメントだと、19世紀英国の例を引き合いに強調します。

 「少なくとも、因果関係としては、政府債務の水準それ自体が国全体の対外的な信用力の毀損につながるのではなく、対外ポジションの毀損から最終的に政府債務の水準に懸念が持たれはじめるということなのである」(240ページ)。よって、戦争や巨大災害、疫病・飢饉といった、国家が巨大なファイナンスを必要とする(単なる金融危機ではなく)リアル危機を見積もり、それに備えた財政の方針を立て、実行を積み重ねていくことが、最終的には国家の信用力へとつながっていくのだと言います。

『〈私〉を取り戻す哲学』

 岩内章太郎『〈私〉を取り戻す哲学』(講談社現代新書、12月発売、12月29日読了)は、ポスト・トゥルースの時代に、いかにして他者との協働を作ることが可能かを、デカルトの「我思う、ゆえに我在り」をカギに探っています。

 まず目を引くのは第一章。宮台真司、東浩紀、國分功一郎から共通する時代の気分を読み取り、その後の時代の哲学であるマルクス・ガブリエルの新実在論に接続していく整理が興味深いのです。

 著者の整理によれば、大きな物語が喪失したポストモダンにあっては、終わりなき日常の中で自己充足的な快・不快の回路に閉じこもって退屈を手懐ける「動物化」と、自由な個人が自分と社会にとって善きことをなしたいという「善への意志」という二つの欲が現れます。

 ポストモダン下で強調された相対主義、構築主義は、よい「動物化」のテクニック習得を奨励しましたが、その反動として、むしろ現代は普遍的な善への希求が高まっている。ガブリエルの新実在論はその象徴だというのです。

 しかしサイバースペースへの常時接続が当然となった私たちは、特に目的もなく退屈なのでスクリーンを見て疲労していく悪循環から抜けられなくなり、〈私〉という存在が希薄化しています。こうした状況下で、不意に「動物化」と「善への意志」の両方が充たされるような言説(例えば反出生主義とか、陰謀論とか)に接すると簡単にのめり込んでしまい、他者の信念に不寛容になる「独断主義」へと陥ってしまいます。

 相対主義からも独断主義からも距離を置き、他者との協働を作り直していくためには、方法論的懐疑の末の「我思う、ゆえに我在り」から出発していくことが重要だと著者は説きます。

それぞれの〈私〉が〈私〉として存在するという意味では、「人それぞれ」の状況と大差ないように見えるかもしれないが、(略)〈私〉は〈私〉の意識体験に認識の不可疑性の根拠を感じながら、それでもその絶対性に拘泥することなく、原理的に有限な直観の内実を、普遍性に向かって編み変えていけるようになる。この絶対性と有限性の緊張関係を引き受けようとするときにだけ、差異のでこぼこを平坦にしない、健全な普遍認識への道が開かれるのだ。

165ページ

 〈私〉を取り戻すための前提となる「〈私〉のフェアネスの感覚」や、エポケー(判断中止)の意義の強調、そして〈私〉を取り戻すための具体的な思考の在り方の提案に至るまで、膝を打ちながら読み進めました。

『「死にたい」と言われたら』

 末木新『「死にたい」と言われたら』(ちくまプリマー新書、6月発売、7月3日読了)は、人から「死にたい」と言われたとき、死にたくなったときの具体的な自殺予防策を提示しつつ、そもそも自殺は悪いことなのか、死にたくなりづらい世の中を作るにはどうすべきかまで射程を広げて考察した本です。

 まず自殺を具体的に準備しているかどうかを確認し、そうした状況があるのであれば道具撤去など、物理的に自殺しにくい環境を作ること。次に話を聴き、所属感の低下に介入すること。そして日頃からの承認や感謝を積み重ねていって負担感の知覚に介入すること――。こうした戦略が紹介されます。

 本書は「死にたい」と言われた人が、専門家に頼る前にまずなんとか対応してみようとすることを「とても良いこと」と明言しています。専門家には限りがありますし、「死にたい」と言ってくる相手は、良い方向に転べば特別なつながりとなる可能性もあるからです。

 もちろん対応はストレスフルですし、また自殺予防には確実なことはなく、うまくいくかどうかはわからないということに耐える必要があるのが難しいところです。大人でも簡単にできることではありません。

 しかし、自分にも周囲にも希死念慮が多く存在しやすい思春期の人たちに、この本が読まれることには大きな意味があると思います。ジュニア向け新書レーベルの本領とも言うべき好企画でした。

『領域を超えない民主主義』

 砂原庸介『領域を超えない民主主義――地方政治における競争と民意』(東京大学出版会、2022年発売、1月6日読了)は、著者の研究の集大成的著作です。都道府県と市町村といった異なるレベルの地方政府間や、同レベルの地方政府同士、一つの地方政府内などで分裂した意思決定を起こしやすい日本の地方制度が、都市の成長活力の妨げになっていることを論じています。

『データ視覚化の人類史』

 マイケル・フレンドリー、ハワード・ウェイナー『データ視覚化の人類史――グラフの発明から時間と空間の可視化まで』(飯嶋貴子訳、青土社、2021年発売、1月13日読了)は、データをグラフにして視覚化するという営みの発展の歴史をたどった本です。現代にも使われるグラフの数多くは、18世紀終盤から19世紀初頭にかけて、スコットランドの科学者プレイフェアにより発明され、その後、19世紀の天文学者ハーシェルが補間曲線を引いたことによって、相関や回帰の概念の発展に貢献します。数々の貴重な図版が収録されていて、眺めるだけでも面白い本です。

『会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕事」』

 お客様第一主義的な過剰サービスや、長時間労働など、現代日本の問題の淵源を、労働者が会社の中の「組織人」としての振る舞うことばかり求められ、社会の中の「職業人」としての意識を持ちにくい点に求めたのが、阿部真大『会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕事」――資本主義経済下の職業の考え方』(光文社新書、4月発売、4月27日読了)です。

 研究者の事例がわかりやすかったです。職業人として研究に力を入れないといけないのに、組織人としては事務をそつなくこなしたほうが承認欲求を手っ取り早く満たせてしまいます。サバティカル制度は、そうした組織人としての時間から無理やり引っ剥がして、職業人としての時間に再度身を置かせる知恵として解釈されるべきものだそうです。さまざまな社会問題はやはり、労働問題として捉え直されなければならないと痛感させられます。

『ヤラセと情熱』

 最後は変わり種。プチ鹿島『ヤラセと情熱――水曜スペシャル『川口浩探検隊』の真実』(双葉社、2022年発売、1月24日読了)は、まさに水を得た魚のように著者の持ち味が光ったルポルタージュでした。

 昭和のヤラセ番組の代名詞的な「川口浩探検隊」がなぜ、その胡散臭さと同時に圧倒的な魅力を持ったのか、当時のスタッフへのインタビューを中心に「探検」していきます。

 現代、問題になるヤラセが製作の費用的、時間的制約にさいなまれた末のものなのに比して、「川口浩探検隊」のヤラセへの熱の入れようは半端なものではなく、まさに「ガチ」なのです。たかだかバラエティー番組に過ぎないのに、マルコス政権やらロス疑惑まで関わってくる一大スペクタクルは圧巻でした。



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