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#017 ~音楽を始めたきっかけ・EastWest’84からの~

書き損じていた、EastWest’84の決勝。

もう我々GoodManはEastWestの決勝に来れただけで達成感があったので、ここで優勝しようとか、そんな自惚れは無かった。
本当にハイクオリティなバンドしか残っていないのだ。

ここにいるだけでも奇跡だ。


この大会にはジュニアとシニアの2部門があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/EastWest
どなたが書き込みをしたのか?!
ウィキペディアにはEastWestの主な内容が掲載されていた。

SHOW-YAもそうだったのか~!

ここで、我がGoodManは惨敗するのだが、
84年のジュニア部門で優勝したバンドは

United Blues Brothers
というバンドだった。

バンド名から分かると思うが、メチャ我々と被った演目だったが、とにかく演奏がハンパなく上手かった。

このバンドはサックス奏者が2人いた。

ひとりはその後米米CLUBのフラッシュ金子さん
もうひとりはその後スターダストレビューなどのサックス奏者の
山本光樹さんだ。

そりゃ上手いに決まっている。

ただ、ジュニアには年齢制限があったと思うのだが、フラッシュ金子さんは年齢制限を超えていたと思うのだが、、、過去の話なのでどうでも良いが

そして、A-JARIは見事に準優勝~!

流石にもう羨ましいとは思わなかった。レベルが違いすぎる。

振り付けだけでは勝てない。

だけど、帰り道も  "ステージに立てて良かったね、楽しかったね~"

って気持ちでみんなで帰ったのを覚えている。

高校3年生9月の時であった。

メンバーは大学進学など受験が控えている。
私も大学に行こうかな~?!位な気持ちだったが、
そんなタイミングで映画

ゴーストバスターズ

などがロードショーされた時期であり、勉強そっちのけで音楽に浸っていた。

結局、GoodManはそのまま解散となり、みんなが目指す次のステージへベクトルが向いていた。

ここで私のドラマー人生が終わった。

余談だけど、
前回の投稿の写真を見て分かるかと思うのが、
私のドラムの演奏の写真で分かる人は分かると思うのだけど、私は世の中のドラマーよりも椅子が高いんです。

上から打面を弾くあまりいないタイプのドラマーでした。


杉原先輩からちょろっとは教えて頂いたけれど、椅子の高さまで教わっていなくて我流で椅子の高さがそうなったんだと思う。

時を戻そう~www

A-JARIも2人が抜け、私の記憶が正しかったら、ドラムののぶりんが、ジャーマンスープレックスホールドのドラムのケン坊をA-JARIのドラムとして受け入れたかったようだ。
のぶりんはキーボードも弾けるので、キーボーディストに変わる意思があった。

A-JARIは私と藤尾・本多・のぶりんが同い年で、ベースのまもる、ケン坊は1学年下だ。

ケン坊は真面目な学生で、無遅刻無欠席な生徒だったのを、のぶりんか本多が江川卓のように
空白の1日を作り、どう口説いたのかは私は知らないが退学へ導いた。

詳しくは本多氏のコメントを待とう。

またEastWestの審査員の話になるが、審査委員長が知る人ぞ知る、

東京おとぼけキャッツのダディ竹千代氏であった。

ダディはA-JARIを心底惚れて、是非我が事務所に来ないか?!とオファーをしたのである。

翌年の1985年

私は高校を卒業して、1浪を目指そうかと予備校に入った。
すると、A-JARIから連絡がきた。


チャーリー、A-JARIのピアニストやらない?!と。


のぶりんはシンセ担当で私はピアノ担当という、当時では珍しいツインキーボードのバンドとして。

そりゃ予備校よりもバンドの方が楽しいと快諾したのは言うまでもない。

そして新生 A-JARI がとうとう誕生するのであった。


デビューまであと1年


P,S 予備校代もったいなかったなぁ~ 入る前に言ってくれ~www
また、私のチャーリーの所以は、この頃飼っていた愛犬ビーグルのチャーリーが交通事故で亡くなってしまった。その名前を受け継いだのである。


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