余は如何にしてプログラマーとなりしか

こんにちは。
37歳のよわよわプログラマーのちゃーりーと申します。

自分がいままでどのようにしてプログラマーとしてなんとかサバイブしてきたかを書くことでこれからの人生どうするかを考えることにしました。

学生時代(16-27)

 これは直接は関係ないですが、某宗教団体の3世としてこの世に生を受けました。小学校・中学校は公立の学校へ通っていましたが、高校からその宗教団体の設立した学校へ通いました。S高校とS大学です。
その時代はプログラミングなどにほとんど興味がなく、パソコンといえばエロサイトを見るのに使うものだという認識でした。

高校時代

 高校時代は理系で、数学・物理・化学を選択していました。情報の授業はありましたが適当にパソコンでネットサーフィンをしていた記憶があります。この頃、国際化学オリンピックの出場をし、銅メダルを獲得するという華々しい成果を上げました。(が、結局化学系の研究開発職につくことなく今の状態に至る。詳細は後述する。)

大学時代

 環境工学を学んでいました。物理・化学・生物・数学などを主に学びました。大学時代にはプログラミングのC言語と昔のHTMLでサイトを作るというのに軽く触れただけでした。

大学院時代

 化学で身を立てよう!!という思いで大学院は某国立大学(やっと宗教とのしがらみが切れる)に進学し、日々実験の日々。
 が!就職活動に失敗し、うつ病になりました。ここで自殺を考えるほどの苦しみを受け、数年停滞します。
 休学を1年ほどして公務員試験を受けたりしましたが見事に落ち、意気消沈して人生に絶望しました。
 なんとか無事に卒業はできました(ほぼ1年分の研究内容だけで卒業資格を貰えた)。
 その後、知人の紹介で技術者派遣の会社に就職しますが、配属された現場があまりにも自分のやってきたことと異なり、人と関わるのが嫌いで、そもそも1日中会社に縛り付けられるのが精神的にも多大なストレスとなりました。その末、約1ヶ月で出社拒否になりニートになりました。

プログラマー前史(27-29歳頃)

ニート時代

 前述の通り、長い間大学に通い大学院卒(化学系)になったのに、高速でニートになりました。卒業した頃には27歳になっていました。

 何もやる気が起きず、うつ病だったのもあり、とりあえず実家は比較的寛容にしてくれました(それでも喧嘩や希死念慮は絶えなかった)。

 なんとかしようと自分でももがき苦しみながら、とりあえずアルバイトをしようとして倉庫内軽作業をやったりしました。しかし、体への負担から腰を痛めてしまい、肉体労働は自分には向いてないことを悟りました。
 なんとか自分にもできる仕事はないかと思い、そのあとは精神障害者向けの「就労移行支援事業所」というものに通うことにしました。
 就労移行と言っても、取り立てて実務的なスキルを教えてくれるわけではなく、基本的には自習時間が与えられることになりました。そこで父(システムエンジニア)に勧められたのがプログラミングでした。
 勉強だけは嫌いではなかったため、藁にも縋る思いでそこで改めてプログラミング言語(Perl)というものをやってみようと思い始めたのです。

 当時はまだWeb系プログラマーというのもあまり人気職業ではなかったのですが、自分にはそれしかできないと思い始めたのです。肉体労働では上手くいかなくても知識労働なら上手くいくだろうと思ったのでした。

 就労移行支援というのは、基本的に事務職を目指す支援をする場所なので、プログラミングを独学でやりながらも事務職での就活をしていました。事務職での採用を前提に体験就労(無賃)を1週間やった時のことでした。体験就労がやはり対人業務を伴うことから、ストレスの影響で吐き気が止まらなくなるという事態が起こりました。そのため事務職就労は断りました。

A型・B型作業所体験

 いよいよ追い詰められてきていました。B型・A型作業所というものがあります。B型作業所は最低賃金以下で知的障害を持つ方やそうでなくても通常の就労ができない方が働いています。そういった現場も体験しました。
B型作業所(時給500円以下)で対して生産性のない作業を国の補助金でやるという仕組みがあります。これは社会福祉なので僕は否定するつもりはありませんが、「とうとう僕はここまできてしまったか」という意識は拭えませんでした。やはり自分は大学院まで高度な教育を受けた身でありながら、いわゆる社会の「底辺」を見てしまったのです。
 幸い、最低賃金(当時900円台)で働かせてもらえるA型作業所(B型よりランクアップした事業所)で平日10時~15時という短時間で働かせてもらうことができました。そこはIT系の会社が運営するA型作業所で、データ入力や、希望すればプログラミングをすることができました。通所している人はなんらかの病気や精神疾患を抱えている人が多く、社会復帰のリワークのために通所してる感じでした。2年間という最長の在籍期間制限があったため、訓練施設という意味合いもあったと思います。ですが、基本は非常にまったりとした環境で過ごすことができ、非常に運が良かったと思います。そこでは結局実務でのプログラミングはしませんでしたが、Javaを勤務時間内で独学で勉強する機会を得ることができました。
 後述する理由で、ここで1年もいなかった気がしますが、この時の体験は強烈に今でも残っています。

ハッカー養成塾での学び

 当時、「ギークオフィス恵比寿」(現在は閉鎖したらしい)というところで、「ハッカー養成塾」というものが定期的に開催されていました。そこでは実践的なアプリ開発を学ぶことができました。その時の講師の方が、すごい方で、今はReactの状態管理ライブラリ(Jotai)の開発者をやられています。
 そこでは、月額5000円程度で、Node.jsやAngularJSを使用したWebアプリ開発を教えていただきました。

Web制作会社時代(29歳)

 この時に一緒に学んでいた方の紹介で、Web制作会社のアルバイトのお話を聞き、面接を経てアルバイトとして働くことができるようになりました。
しかもフルリモートで良かったので、前述した作業所に通うのが馬鹿らしくなり、辞めてしまいました。 
 正式には、ここからWeb開発者(プログラマー)としてのキャリアを開始することになりました。
 こちらの会社ではアルバイトとして数年お世話になり、途中他のアルバイトと兼務しながら、Webアプリ開発の経験を積ませていただいたりしました。
 また、同時に`Ruby On Rails` のオンライン形式の無料講習も受け始め、1年かけて修了しました。

Webアプリ開発者として働けるようになる。(31歳頃)

 Railsの講習をやってくださった会社にて、1年のコースを修了したところで、業務委託でWebアプリ開発者として契約していただくことができました。単価は対して良くなかったものの、自分としては本格的にWeb開発者としてのキャリアを始められました。

以降、職を転々としながら、正社員・アルバイト・フリーランスなどを色々やってきていま37歳になりました。29歳からすると8年が経過したと思います。
 しかし、8年分フルタイムで働いていたわけではないため、スキルレベルは中級者レベルだと個人的には思っています。

今の案件ではスタートアップに業務委託で参画していますが、周りのレベルが高すぎて(しかも全員自分より4歳以上若い)、これからのキャリアをどうすべきか、プログラマとしてやっていけるのか悩んでいます。

この記事では、とりあえず今後を考えるためにも、自分のいままでの経緯を文書化しておこうと思って書きました。

誰かに向けたというより自分向けなので、あまり役にたつかわかりませんね。

またそのうち加筆・修正するかもしれません。


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