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最終回をむかえたチェリまほと美女と野獣

※12/25に加筆し、チェリまほの全話の言及があります。ネタバレ回避したい方は避けてください。

2020年の秋冬はドラマが割と苦戦しているという記事がある中で海外にも配信されるほど人気が高く、放映が深夜だというのにゴールデンタイムのドラマ以上に話題になっている「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」というドラマがある。
最終回後、作品全部やスピンオフが見れるTSUTAYATVがダウンするなど話題に事欠かない。
このドラマを観た時にふと頭をよぎったのが2020年9月にオープンしたディズニーランドの美女と野獣のアトラクションでもお馴染み、実写化もされ、アカデミー賞にも輝いた「美女と野獣」でした。
一見関係なさそうな二つの物語ですが、私の個人的な視点からみたときに一つに繋がる作品です。

美女と野獣の制作

美女と野獣はディズニープリンセス作品の中でも人気が高く、アトラクションやエリアができた他、グッズも数多く発売されています。
原作はフランスの民話を文学化したものを教育指導用に書き直したボーモン夫人によるものです。
原作では商人の娘で三姉妹だったり、ガストンがいなかったりとアニメーションとはだいぶ違います。
この物語自体はウォルトディズニーが存命している時から映画化の候補に上がっていましたが、頓挫しています。
ディズニーは眠れる森の美女以降、あまりアニメーションでは成功せずに、やっとリトルマーメイドがヒットしディズニールネサンスと呼ばれる黄金期を迎えます。
しかし、リトルマーメイドでは「自分の才能を恋愛のために捨てて、陸に上がっても男性の保護がないと生きていくのが難しい女性像を子供に見せられるのか?」という意見が寄せられるようになりました。
そこでディズニーは新たに女性脚本家による自立したヒロインのプリンセスを作ることになり、リトルマーメイドで成功したハワード・アッシュマンが制作指揮を取ることになりました。
ベルは自立した知的な女性として描かれており、今までのプリンセス像から大きく離れた女性キャラクターになりました。
キャサリンヘップバーンが演じた若草物語のジョーやヴィヴィアンリーの演じたスカーレットオハラ、オズの魔法使いのドロシー、ローマの休日のオードリーヘップバーンなどなど魅力的なヒロインや女優を参考にキャラクター、ビジュアルが生まれました。
アッシュマンはセリフのニュアンスなど事細かに指示し、収録の際も指導していたことで有名です。
しかし、アッシュマンは制作中にエイズにより亡くなります。
アッシュマンが死の直前まで力を振り絞り制作した美女と野獣にこめられた思いはなんだったのでしょうか?

同性愛からみる美女と野獣

ハワード・アッシュマンは同性愛者で、隠していたものの時代としてとても苦悩していました。
今のほどは理解が進んでいなかったからです。
その思いや苦悩が野獣やベル、作品に影響を与えています。
ベルは豊かな知性や魅力な内面を持ち合わせているのにも変わらず、本に夢中という行動が村の常識や価値観に合わないため美女だけど頭のおかしい娘というレッテルが貼られており、周囲から距離を置かれています。
これは当時の同性愛者が置かれていた立場によく似ています。
野獣も呪いにかけられており、呪いを解くには愛の奇跡を待つしかない絶望的な状況はアッシュマンが当時不治の病にかかっており、回復を望む自身の投影でもあったと言われています。
また、ガストンが村人を連れて夜襲にくるシーンは当時の同性愛者へのリンチや迫害を重ねられており、「自分達が理解できないものは怖い」という歌詞が書かれているのも当時の同性愛に対する理解状況を表しているでしょう。
そして作品では悪役になっているガストンも実はある種被害者でハンサムな見かけや村の常識や価値観に合致しているというだけで彼の内面には誰一人目を向けていません。
つまり本当の悪役は世間、社会の目に振り回されている私達一人一人である、ということなのです。

人を見かけで判断しない

さて、チェリまほについては皆さん一度見ていただいた方があれこれ書くより理解しやすいと思うので省きます。
チェリまほ、美女と野獣に共通するの大切なテーマの一つが「外見で判断せず、中身で判断する」ということです。
美女と野獣の原作、アニメ、実写版でも共通するこのテーマはチェリまほでも大切なテーマだと思います。
ただし、ベルも最初から野獣の内面をみたわけではなく、べル自身も成長しながら、野獣の孤独を理解し、良い部分を引き出し、野獣を好きになり、呪いを解きます。

チェリまほでは黒沢は外見の美しさゆえに苦悩します。
安達はもさい陰キャラゆえに童貞でした。
こうして書くと黒沢…ベル、安達…野獣に見えますが、
外見故に、見た目でしか判断されず愛を手に入れられなかった黒沢はある夜、安達の言葉で心の中を触れられたような気持ちになり(内面を理解してもらえた)安達に恋します。
その後安達は30歳の誕生日の日から相手の心が読めるようになり、ハンサムで同期、同性以外共通点がない、黒沢の好きな人を知ります。
最初は驚きますが、段々と黒沢のことを知った安達は黒沢を好きになります。
こうしてみると野獣のように外見故に苦しむ黒沢を真面目で純真故に、大学生時代にちょっと重いよねと周りに言われれてしまった安達がべルのように自らも成長し呪いを解いた物語という見方もできます。

主人公自身が自分を愛するということ

美女と野獣ではクローズアップされませんが実際、野獣をベルが救うというだけでなく、野獣によりベルも成長し、救われています。 
自分が周りとは違うということに悩んでいるベルは自分とは反対の理由で、周りとは違う野獣に出会い、自分を理解しようとしてくれたことで自分自身を取り戻し、ガストンや村人に抵抗し、自分自身の気持ちを考え、整理した上で、野獣にもう一度会い、救うことと愛を伝えるために馬を走らせます。
ベル自身も「変わり者」という社会から突きつけられたレッテルという呪いに強く苦しんでいるキャラクターなのです。
ミュージカル版と実写ではベルが野獣に自分達が似ていると話すシーンが追加されていますが重要なポイントになるでしょう。
チェリまほでも黒沢と安達それぞれが抱えている問題は似ていて前文で挙げたようにうわべの評価ゆえに苦しんでいます。
安達も自分を評価してくれる黒沢と出会い、自分を見つめ直し、勇気を出して周りや黒沢、そして自分自身を救って行き、コンペにもトライします。

同じ本が好き

美女と野獣では本が2人の中を深めるキーになります。
チェリまほでも漫画が2人の共通点の一つになります。
実は名画「ローマの休日」でもオードリーヘップバーン演じるアン王女と新聞記者は同じ詩を理解して覚えています。
これは身分などが違っていても同じ共通する教養や知性、価値観、世界観、有しているという暗示を観客に提示する手法でこれゆえに2人の差がなくなるという効果が生まれます。
これにより、美女と野獣、黒沢と安達は「実はいい人」という思いから一歩踏み出していくきっかけになるのです。

愛の過程

美女と野獣はディズニープリンセスでは初めて恋に落ちる過程がしっかりと描かれています。白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、アリエルは一瞬で恋に落ちていますがベルと野獣は友人ですらなかった2人が少しずつ相手を知り、好きになって愛を育んでいきます。
チェリまほでは野獣と同じように先に黒沢が安達を好きになりますが、ドラマでは7年も片思いをしています。
安達は魔法が使えるようになってから黒沢の内面を知って、徐々に好きなっていきます。
それと同時に、黒沢によって自分自身にも自信がつき、自己評価の低さが誤りだと気づいていく、勇気を出すきっかけになっていきます。
お付き合いを始めてからも一歩一歩踏み出していく様子が丁寧に描かれているのも人気の高さの理由でしょう。 

愛するゆえに手放すということ

美女と野獣では舞踏会の後、お互いを好きではいるもののべルは父親に会えないことの寂しさを抱えています。
野獣はその心を理解してベルを自分から解放して父親のもとに行かせます。
野獣の心はいつしか愛にかわっていったからです。
しかし最後にはベルは野獣のもとに駆けつけて、愛により呪いは解けて2人は幸せを手にします。
チェリまほでは安達が今まで有意義に使えてきた魔法に別の側面が現れ、安達自身を苦しめることになりました。
黒沢を愛するゆえに魔法を隠すことができなくて告白することになります。
苦しむ安達に対して黒沢は安達を手放す発言をし
2人は先に進むのをやめました。
色々な選択肢はありましたが安達が幸せになるにはを1番に考える黒沢らしい選択でした。
ただ好きなだけならけして手放しはしなかったでしょうが愛しているからこそ手放すしかなかったのでしょう

手放すのが怖い

美女と野獣のベルが恐れていることは父親を手放すことです。
おそらく幼い頃に母親を亡くしたベルの唯一の肉親、家族である父親を大切にしています。
これは原作でも一つのテーマになっているほか、コクトー版でも強調されています。
チェリまほの安達が恐れていることは魔法の力を失うこと。
魔法がなければ周りを助けられず、他人からも愛されない、資格がないと思っています。
美女と野獣では最終的に愛する人の手を取り父親から離れることで幸せを獲得します。
安達も愛する人を選び、魔法なんかいらないということで幸せを得ました。

美女と野獣では出なかった答え

美女と野獣ではそれぞれにかかっている呪いに対して野獣側は愛という魔法でとけましたが、人と違うことで感じる孤独やレッテル貼りには答えがでていません。
あくまでも問題提議のみになっています。
ディズニー側がこの問題に対する答えになったのが「アナと雪の女王」でした。
みんな完璧ではないのだから社会全体が違いに、より寛容なり、その人の良い能力を活かせる社会にしよう。
何を隠したり、いい子のふりをしなくてもよいようにありのままでいながら、周りと協力し合うことや自分自身だけじゃなく他者への愛に目覚める大切がテーマになっています。

チェリまほでは中盤で2人が結ばれているため
愛の力で片思いの苦しみから解放された黒沢にみえますが10話で黒沢は安達に嫌われたくないという本心を安達に話すことで実際の恋愛はおとぎ話と違い続いていくことが明確に表されます。
また美女と野獣と違い、明確な悪役はいないものの会社や会社の年長者が旧時代のやり方や価値観を通す姿が描写されます。
それに苦しめられながらもやり過ごす安達や黒沢、藤崎に対して、より若い六角はバッサリ切っていることで良くなっていく時代の変化を感じさせます。
11話になると安達と黒沢に試練がやってきます。
今まで安達を助けてきた「魔法」に慣れたことや他人のために使っていた力を自分自身の利益のために使ってしまったことで罪悪感を生み出し「魔法」がもつ悪い側面に触れて安達にとって恐ろしい「呪い」に変わっていきます。
野獣は呪いが解けるとハンサムな王子様になりましたが、安達は「魔法」がなくなると自分が空っぽになると考えているのです。
また、愛する黒沢を失う、幻滅されることの恐怖を感じています。

チェリまほでは美女と野獣では描かれなかった問題に触れています。
「特別な魔法がなければ幸せになれない」
これは美女と野獣だけでなくシンデレラやアリエルといったプリンセスも抱えた問題でしょう。
魔法で姿を変えた人物から魔法が消えたときどうなるのでしょうか?
おとぎ話はこの過程を端折りハッピーエンディングを迎えます。
しかしチェリまほをご覧の皆さんにはわかっているはずです。
黒沢は安達が魔法使いになる前から惹かれて恋をしていましたし、藤崎さんは安達が励ます前から安達の優しさを評価しています。
仕事を押し付ける浦部先輩も安達がしっかり几帳面に仕事をこなすからこそ任せられるのであり、いつも気にかけてくれています。
魔法を使う前から安達本人が気づかなかっただけで、みんなから愛されている、空っぽなんかではない人物です。
魔法は停止線の前で足踏みしている安達の背中を押しただけです。
安達自身が変われたのも黒沢の愛により、変われたのであり、魔法の力のおかげではなく、魔法はきっかけに過ぎないのです。

野獣と黒沢

ベルには父親がいましたし
安達には柘植がいてなんでも話せます。
しかし、黒沢や野獣はどうでしょうか?
実は11話の時点までは安達に対する黒沢の思いは
恋に近いのではないかと思うのです。
嫌われたくない、ガッカリしてほしくない
未だに黒沢の心が閉ざされているように思えます。
11話のラストでの言葉で黒沢の恋は愛に変わったのではないかと思うのです。
奇しくも美女と野獣でベルを離した野獣のように。
そして2人とも高い塔で奇跡が起きるのを夢みて待っているのです。

サイドキック達

美女と野獣ではルミエールやコグソワーズ、ポット夫人、チップなどの面々がベルと野獣に助言したり手助けをしてくれます。
チェリまほでも柘植や藤崎さんが適切な助言をしますし、六角は一見邪魔してるようなタイミングの悪さがありますが2人が進展するためのきっかけを偶然にもつくっていたりします。

呪いが解ける時

美女と野獣は魔法が出てくるものの
白雪姫や眠れる森の美女と違い、真実の愛のキスで
魔法が解けるわけではありません。
この辺りはシンデレラにかけられてた魔法に近いのでしょう。
チェリまほも真実の愛のキスではなく、童貞でなくなることが魔法使いではなくなる方法でした。
しかしもう一つの呪いも忘れてはいけません。
それは黒沢と安達にかけられている呪い
自分自身に自信が持てない、自己肯定感の低さです。
安達は作品でメインに描かれているので省きますが
黒沢も7話で見受けられるように美しい外見ゆえに内面を見てもらえないと感じ、常に完璧であり、相手の期待に応えられるように生きています。
それはありのままの自分を受け入れられない自己肯定感の低さという意味では安達と同じなのではないかと思うのです。
しかし、安達はその美しい外見に気後れするものの魔法を使う前から心の中を触れるように黒沢の努力を評価し、労わります。
黒沢は野獣がベルを自分を救ってくれる存在かも知れないと絶望と希望が混ざった恋心と同じ心境だったのではないでしょうか。
黒沢も安達の優しさや、仕事の丁寧さなど美点を見出します。
ベルが野獣の優しい心を見出し、野獣がベルの苦しみを理解し、その内面の美しさに恋したように。
そして黒沢は先に11話で安達の苦しみを知ることで安達を自由にしたことで安達を本当の意味で愛します。
絶対に離さないと言った時点では恋が愛よりも優っていたように思います。
美女と野獣では野獣から解放されたあとベルはチップの話やガストンとの会話で野獣に恋し、愛していることに気づき、救うため野獣のいる高い城の塔に駆けつけます。
そしてベルは死の淵にいる野獣に愛していると告げるのです。
元の姿に戻った2人を祝うように花火が打ち上がります。
チェリまほでは藤崎さんや柘植の助言により安達は自分自身と対話し、黒沢を愛していることに気づき、アントンビルの屋上に向かい、黒沢に愛を告げます。
そのとき、黒沢にかかっていた呪いが消え去り、黒沢を愛し、愛され、2人も自分自身を愛することができたことで安達の呪いも消え去ったのです。
なので私の考えでは真実の愛のキスのシーンがないのかも知れません。
私達にもかかる呪いである見かけに騙される心や自己肯定感の低さがあの時に解けたのですから。
そして打ち上がらないはずの花火が上がることで、そのままの自分にも価値があることがあの場にいる4人が感じれたことのではないでしょうか。

ハッピーエンディング

実写版のシンデレラの終盤
ボロ服のシンデレラは鏡を見ます。
もう、魔法には頼れません。
自分自身のまま、王子様の元に向かいます。
「私にはドレスも、馬車も、家族も、財産もありません。でも、もし靴がぴったりあったら、あなたが恋した娘だと認めて、私の手をとってくださいますか?」
と勇気を出して話します。
安達に必要な魔法は安達と黒沢自身の勇気なのです。
11話をみて悲しんでしまいますが2人は大丈夫でした。
恋ではなく愛によって、馬でなくても自転車で愛する人のもとに向かい「いつまでも幸せに暮らしました」を手に入れられたわけです。
ディズニープリンセスの白雪姫、シンデレラ、眠れる森の美女は絵本が開き始まり、本が閉じて終わります。
チェリまほもエレベーターが開き始まり、
エレベーターが閉じてドラマが終わります。
エレベーターは現代の絵本なのかもしれません。

最後に

美女と野獣のテーマ曲の和訳した歌詞抜粋です。


友人ですらなかった2人がある日突然に
少しずつ変わっていきます。
2人とも臆病で準備なんてできていなかった。
そんな2人が甘くて苦い経験をします。
そして間違いを理解し、変われることを見つけ出します。


もちろん日本語版の歌詞もチェリまほの2人にもぴったりではないかと思います。

何はともあれ、素晴らしい作品になったのは原作者、脚本家、演出、監督、役者さんすべてが素晴らしいからで、近年ではなかなか望めない作品に出会えてよかったです。
最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。