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人とつながるきっかけ

私は不器用な人間である。しかしこれまで60年間生きてきて思うのは、私以外にもけっこう不器用な人間がいるようだという確信である(妄信かもしれない)。周りの人がみな、器用に上手くやっているように見えるのは、自分がそのように見ているだけなのであって周りの人たちが自分が器用だと思っているかどうかはまずわからない。わかったところで自分とは関係ない。だからとりあえず、周りの人はみな、「よくやっているな」と考えることにして、あとは自分のことを考える。歳を重ねるとそんな知恵がつくのかもしれない。
さて、不器用というのも主観的な表現である。控えめに言っているのか相当深刻に受け止めているのか、誰にも分からない。本人にもよくわからない。わかっているのは何をするにも悩んだり決めきれなかったり、時には考えるのも面倒になって「ままよ!」とやってやっぱりしくじったり、そんなことで来たということだけである。
であるので、人とのつながりについても器用に良い関係を広げてきたとは全く言えない。そこで思うのは、やはりそういうことに悩む人が多いので、人と人とのつながりのきっかけになることが社会的に準備されているのではないかということだ。誕生日、記念日、名前のある祝日、それだけでも足りなくて毎日星座や血液型で占いがあったり、さまざまな娯楽がある。いや、実は人工的に用意されたものだけではないこともわかってくる。これらはみな、自分のために用意されていると同時に、人と共有するために用意されているとも言える。きっかけである。自分がのめり込んで自分だけのものにしてしまうこともあるかもしれないがしかし、社会に公開されているものは総じて共有するためのものである。人とつながるきっかけにするためのものである。そうでなければ、不器用な私は人と繋がることができない。
社会に共有されているものが人とのつながりのきっかけであると捉えるとき、そのものの使い方が変わってくるのには実感がある。そのものと人との距離感がまちまちだからだ。距離感というのも、どのような方面から興味を持っているかという方向性と、どのくらい興味が大きいかという大きさがある。だから自分の距離感だけで人と共有することはできないし、人の距離感だけでも自分が共有することはできない。お互いの最大公約数的距離感で共有することになる。これを見つけたり大きくすることがつながるということであり、そのきっかけが身の回りにたくさん用意されているということだ。
そのきっかけをどのように使って人とつながるか。私はデンマークに行って数多くインスパイアされたことがあるが、その中の二つが強く関わっているように感じる。一つはヒュッゲである。居心地の良さを演出することである。安心して話せる環境、それは受け止めてもらえるという安心感を物心両面から提供することである。そしてもう一つは自分のことを話すというシンプルな行動である。受け止めること、受け止められることがつながりの本質である。デンマークにいる時には言葉には相当苦しんだが、人とつながることについて苦しいと思ったことはなかったように思う。それは慌ただしく時間を消費する生活から抜け出して自分のために時間を使う生活の中で、受け止めたり、自分のことを話したり、ということができたからではないかと思っている。

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