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【創作大賞 お仕事小説部門】  コンプラ破壊女王 ⑥

6話 『印籠は先にだせ』

 ワイパーが水滴を拭き取った後に、シミがよく目立つようになっていた。   
フロントガラスに油膜がついているらしい。
運転席の窓ガラスが曇ってきたのでタオルで拭き取った。

面倒くさい季節がきたな。

 6月6日の参観日、雨がザーザー降ってきて……。
娘が朝に歌っていた『かわいいコックさん』の歌を思い出した。

「今日から梅雨いりだそうです」
首にコルセットを巻いままの田中さんが言った。
 本部長との相撲の取り組みによりムチウチになってしまい、首コルセットを巻いて2週間くらいになる。
首をこっちに向ける事ができないから、正面を向いたまま話すので、声が少し聞き取りづらかった。

 動きに制限ができてしまった田中さんは、例のエキセントリックな一癖(ひとくせ)は影を潜めていた。

 するとどうであろう、凄く優秀なパートナーに変わった。
細かいところに良く気が利くし、言葉も丁寧だし、そして何より事務能力に長けていた。
計算を間違えることはないし、用紙の誤字脱字もいっさいなく、何より字が綺麗だった。
文字自体も綺麗なのだが、文字と文字の隙間の均一度合いが絶妙で、いつもワープロみたいな字を書く人だなぁと思っていた。

あと、田中さんは頭が良かった。
 営業部に移ってばかりの頃、職務規定を良く読んでね、と営業マニュアルを手渡した。
それから1週間ぐらいして、マニュアルに少しは目を通した? と聞いたら、暗記しましたと答えてきた。
 誇張して言っているのだろうと思い、それじゃ、セルフハンディキャッピングの例を全部言ってみてと聞いたら、38ページのやつですね、とスラスラと答えてきた。
 他の質問をしたら、62ページのやつですねとかページで言ってくるので、それじゃ72ページになんて書いてあるか教えて、と聞いたら、つっかえずに句読点も間違えずに喋れた。一〇〇ページ近くも丸暗記をしていた。
読むだけでいいのに、変なところに真面目だな。

 相撲の件があったあと、部長に泣きついて田中さんの同伴をやめて独り立ちするように頼んだ。
そしたら6月いっぱいまで二人で仕事をする事になったのだが、秘書としてはこんなに優秀な人だったんだな。

泣きつかなきゃ良かったのかも。
 けど、あと3日で首のコルセットを外すらしい。
そしたらまた、あの大暴れが再開するのだろうか……。
何かで縛れないかな。
鉄のチェーンとか田中さんの首に、ジャラッと、ぎゅっと、バシッと。


「部長と何かあったの?」
さっき廊下で部長とすれ違った時に、「田中楓さんにあまり無理をさせないように、とにかく丁重にね」と僕に何度もしつこく言われた。
田中さんには、「嫁入り前なんだから体は大事にしないとね」と猫なで声と満面の笑みで言ってきて気持ちが悪かった。
1週間前に会って挨拶をした時は、「うむ」と頷いただけだった。
その時だって、田中さんは首コルセットを巻いていたのに。

 あと女性社員も立ち止まって「おはようございます」と会釈をしてきて、よそよそしかった。
いつもは、楓さぁーんと手を振ってフレンドリーに接していたのに。 

「実は……」

田中さんが重々しそうに言った。
 反対車線のトラックが水溜りの上を走ったらしく、バケツ3杯分の雨水がガラスにどっぷりとかかってきた。
反射的にのけぞってしまい、悪意がないとはいえイラっときた。
ワイパーもドロ水を迷惑そうにかき分けている。
昼間なのに薄暗い景色。
これからしばらくこの憂鬱な空模様が続くのだろうか、億劫だなぁ。
スーツも濡れるし……。

実は……、なんなんだよ。

早く、言えよ! 実はって言ってから溜めすぎだよ。
 気になって運転に集中できない。
 信号が黄色に変わったのでブレーキをゆっくりと踏んだ。
 アスファルトが濡れているので、いつもより効きが悪い、気を付けないとな。
 ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引いて、コーヒーを口にした。

「私は、この会社の社長の娘なんです」

ぼへぇ。
そのコーヒーを、絶好調のマーライオンのようにフロントガラスいっぱいにぶちまけた。
 田中さんはリクライニングシートを引いて、背泳ぎみたいに後部座席に手を伸ばし、ティッシュの箱を取った。
 しゅぱぱぱぱと大量にティッシュを引き抜き、僕に手渡してくれた。
こうなる事を予期していたらしく、事故を起こすかも知れないので、バンが止まってから告白したのだろう。
『実は…』からの間がいやに永い訳だ。

 コーヒーが気官に入ってしまった僕はゲホゲホとむせ返っていた。
田中さんは、僕のシートベルトを外し、背中をシートからずらして空間を作り、バシンと背中を叩いた。
僕の口から、ちょびっとまたコーヒーが出た。
そして、もう1回手を高く掲げ、力いっぱい背中を叩いた。
 幼児が固形物を喉につまらせている様な対処をしている。

コーヒーだよ、コーヒー。液体だって!

3回目のバシンの為にまた手を掲げたので、その手を掴み、
「………さすって……さすって……………僕の背中を…叩かないでぇ…」
とストローぐらいの狭くなった気道を使って伝えた。

そしたら、ヴィックスヴェポラップを子供に塗る母親のように、優しくさすってくれた。
部下に背中をさすってもらうように頼む上司に、もはや威厳なんてないんだろうな。

むせっかえりも落ち着き、涙を指で擦りながら、「社長の娘って…マジで…」と聞いた。
「はい、そうです、田中社長の娘です……あっ、信号が変わりそうです」
視界は、ガラスの前も後ろも最悪だ。
また田中さんは、しゅばばばとティッシュを抜き取り、僕に手渡してくれた。
急いでフロントガラスのコーヒーを拭き始めた。
「はい、下さい」と汚れたティッシュを受け取りレジ袋に突っ込んでくれた。


 午前中に、親会社のお偉いさん達がきて、その対応に田中さんも借り出されていた。
そのうちの一人が、「あれ、楓ちゃんじゃない、俺だよ、俺!」と言ってきたそうだ。
「お父さんの仕事、手伝ってんだぁ、親孝行だもんねぇ!」
と話しかけてくる。
『会社に秘密にしている事を今、あなたはバラしています』
という事を、目を大きくしたり、ウィンクしたりして目配せをしても気づいてもらえなかったそうだ。
 その役員の人も久しぶりの再開なのに、他人行儀な態度とリアクションの薄さに業を煮やし、「社宅が隣だったじゃない」とか、「楓ちゃんのおむつを交換している時に指にうんちがついた」とか言いだしたので、もはや他人の空似では突き通せなくなった。

 それから瞬く間に社内に広まったらしい。

僕は外に出ていて気付かなかった。
「そういう事は先に言ってよぉおん」
なるほど、部長。
こうゆう時は、自然と猫なで声になるもんなんですね。
その日一日、自分でも嫌になるくらい、田中さんに対する態度を変えてしまった。



 6月になっても衣替えが面倒くさかったので、まだ家のリビングにはコタツがある。
今日は一日中、雨だったので少し肌寒く、久しぶりにスイッチを入れた。
ご飯を食べながら、僕は会社のパンフレットの田中社長の挨拶の欄を見ていた。

似ているかなぁ?

田中社長の写真をみながら、田中さんの顔を思い出す。
眉毛とおでこと前髪を手の平で隠し、こうすると私と父親はそっくりなんです、と田中さんは言っていた。
 でも、ちょんまげがない武士の髪型と、マッキー極太でキュッと書いたクレヨンしんちゃん眉毛の社長の顔のインパクトのせいで、他の顔面のパーツを比べられない。
 社長にセミロングのカツラをつけて眉毛を整えると、美人になるのかもなぁ…と、しげしげとパンフレットを見つめていた。

「ねぇ、ママちゃん、ちょっと聞いてもらってもいい?」
納豆ご飯を手づかみで食べている娘を、ほったらかしてテレビを見ている妻に話しかけた。
「なぁにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ」
小さい『ぃ』をいっぱい言う事で、『今、私に話しかけないでくれ』という事を僕に伝えてくる。
どうやら、見ている情報番組に集中したいらしい。
その事は伝わったが、話しかける事をやめない。

「旅をしているお爺ちゃんがさ…、実は水戸黄門だったら嫌じゃなぁい? あぁ江戸時代の話ね、最初から、印籠をババーンとだして、わしは副将軍様だぁってさ」
バラ肉の生姜焼きを箸で掴み、もやしとキャベツをからめて、白ご飯でワンバウンドさせてから妻は口に運んだ。
ご飯をかっこみ、お味噌汁をすすってからようやく、「訳わかんない」とテレビから目を離さずに答えた。

「いや…だからさ、遠山の金さんが、俺は町奉行の人だからって先に言ってくれればさっ、街で悪さをしている人たちも、大人しくするって話よ」
俺が話をしている途中に「ふーん」と言っていた。
テレビのコメンテーターの『油汚れはこう落とせ』、の方だけの反応だと思う。

 お茶をひとすすりし、コトリとテーブルに置いたあと、こっちをチラッと見て、「そだねー」とだけ言ってくれた。
そんな、漬物石を氷の上で滑らせてデッキぶらしで擦る(こす)女の人みたいな雑な返事をしやがって。
けっこうウチ、ピンチかも知れないのに……。
ちょっと前に、調子に乗って1時間くらい一人で延々と、戦国武将列伝を田中さんに語っていた。

あれって………もしかして、ウザイと思われていたのかもしれない。

今頃になって迷惑な事をしたのかも、と気になってきた。
 社長の娘だって先に言って欲しかった。


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