見出し画像

暮らしのある街で、暮らしたい。

先週末の三連休。世間は成人の日ムードで盛り上がっていた。
僕は商店街を求めて都内を闊歩した。

巣鴨の地蔵通り商店街にある、赤い下着を売っているいくつかの下着屋さん。
もうもうと立ち昇る湯気や煙は、白い息とどこか似ていた。
路面のお店からは、試飲用のお茶の香りがする。どこからか線香の香りもする。
客と店主なのか、友達なのかわからないような関係性で会話をする人々、
電気屋さんの中を駆け回る子ども。
SNSにアップロードするであろう写真を撮る若い男女。
ここには匂いがある。そして、暮らしがある。


僕は商店街が好きだ。ゆっくりと休日を消化していく。

いつからか、商店街の数はぐっと減ってしまった。
調べたわけではないけれど、確かにそんな気がしているし、調べたらきっとそうなるだろう。
商店街はどうして消えてしまったのだろうか。

そもそも商店街というものの起源は1300年前にまでさかのぼると言われている。
その中でもいくつか説があり、
定期的に市が開かれていた際に出店したお店が定着した説や、
街道沿いに栄えた宿場町やお寺を中心に広がった説などがある。
本当の起源にまで遡るとしたら、楽市楽座まで遡ることができるらしい。

いずれの説を見てみても、人が集まるところに商店が定着していったということがわかる。

だとしたら、人が集まるところがなくなったから商店街がなくなってしまったのか。そんなことはないはずだ。

インスタ映えするお店や料理を出すお店、人気のラーメン店には、人が集まる。
インターネットでの消費が増えているとはいえ、確かに人が集まるお店は世の中にまだ存在している。なくなったのはリアルな消費ではない。

変わってしまったのだろう、消費そのものが。


インターネットで商品を購入することが当たり前になることで、消費をわざわざ外に出てする必要がなくなった。
にも関わらず、人は外に出てお店を訪れる。
決してインターネットでの買い物ができないからなどではなく、意思を持って外にでる。

それは、消費が単純にものを得るためのことから、自分が目にしたことのない体験を得るものに変わったからなのではないかと僕は思う。
今まで見たことのないようなお洒落なお店、食べたことのないようなうまいラーメン。出来立てのうまいラーメンはインターネットじゃ買えないが。

消費は、会話で、SNSで、自分という人間を形作るための要素として機能するようになってしまったのではないか。

そう考えてみると、なるほど人が商店街に集まらない理由もわかる。

商店街の魅力は、それとは確かに違うところに位置していると、僕は思う。



暮らしがあることが、僕の考える商店街の魅力だ。
個人が営むお店には、店主とその家族の暮らしがある。小学生が帰ってきたり、仲良い友達がお店に遊びにきたり、それぞれのお店で全く異なる暮らしがそこには確かにある。
異なる暮らしを含むお店が連なった商店街は、その街に住む人の暮らしになる。
家具屋、服屋、薬屋など、その街に住む人の暮らしは、商店街によって成り立ち、商店街によって潤うのだ。

街の人の暮らしが商店街によって潤い、
街の人たちの消費によって商店街のお店を営む人が潤う。
ある意味で相互に依存する関係であるからこそ、商店街は成り立っていたのではないか。
商店街での消費は、自宅だけでおさまっていた暮らしの幅を、街に広げることなのかもしれない。

アルバイトで一時的にそこに所属する人を演じるような店や、インターネットの無機質さとはどこか違う、
暮らしと密接な消費がそこにはあると僕は考える。

しかしただの暮らしの中に、派手で他人に羨ましがられるような映えはない。
誰かに見せたいとも思わないし、誰かのを見ようとも思わないのだ。おそらく。現代人は。


今、消費によって見せたい自分が形作られているからこそ、
見せたくない自分との境界線は色濃くなりつつあるのだろう。
暮らしそのものは、狭い世界に閉じたままで、外に出るときは見せたい自分でいなければならないような寂しさがそこかしこにある。

SNSによって誰もが演者になった。自分の理想を演じることができる。
インターネットによって誰もが自分を隠せるようになった。
インターネットがあれば誰にもバレることなく何かを買うことができる。

自分のプライベートスペースへの介入はいくらでも防ぐことができるのに、
わざわざプライベートをさらけ出し、ありのままで触れ合う商店街。
あまりにもリスキーなのかもしれない。

では、演じたい自己がそこにいても恥じないようなお洒落な空間なら、商店街は成り立つのだろうか。
成り立つと思う。しかしそれを僕は商店街とよべない気がする。
お洒落な路面店が立ち並ぶストリートになってしまう。
僕にとって、表参道やら、青山のあたりやらがそのイメージだ。

そこには自分のありのままをさらけ出すからこそ得られる温もりや思いやりや、
目に見えないような、柔らかさはない。尖っていて、寂しくて、青く、遠くにある気がしてしまう。


僕は商店街が作りたい。
確かにそこにみんなの暮らしが存在しているような。
伝統工芸と若者との接点や、若手の作家たちの挑戦の場所となるような。
そんな商店街が作りたい。

作り手が暮らしをさらけ出すような商店街が作れないだろうか。
何か物を作っている人たちの商店街だ。

生み出す側だからこそ美しいものや面白いもの、好きなものに打ち込み、それをお店におく。
僕らの暮らしを売り物にするというと少し、横暴な言い方に思えるが、そうではない。

作る側は自分が求めるものを作り続けるんだ。
表現はいつだって自分をさらけ出すことだ。商店街として成り立つだろう。

作ることに疲れたら隣のお店のあいつに進捗を聞きに行くといい。
おい、やってるかー?って。
てんでダメだよ、今日は雨だからなんだか乗らなくてさ。
そんな日があってもいい。

そして夜は自分たちの作品についてそれぞれが思い思いに語るんだ。

そしたらきっとみんな作るのが楽しくなる。
いい仲間ができれば自分の友達にも紹介したくなるじゃないか。
そしたら呼べばいい。
友達はきっと友達を連れてきてくれる。

少しずつ少しずつ、ものづくりや、商店街のことをいいと思ってくれる人が増えるともっといい。

作り手の顔が見えるというのも安心だ。
農家の顔が野菜のパッケージに貼られているのと一緒で、
どんな想いでその人が、お皿一枚作り出したのか。
コーヒーを一杯でも、絵を一枚でも、本を一冊でもいい。
その人の顔と想いと作り出したものが見える場所があったら素敵だ。間違いなく。


そんな商店街を作りたいと思う。
作る側が幸せで、それでいてそれを見に来るみんなも楽しめるような。
大きなシェアハウスのようで、テーマパークのようで、遊び場のような。

まとまらない

商店街について調べて、商店街がなんなのかを考えて書いてみた。
けれども商店街の魅力のほんのちょっと一欠片程度しか、僕には見えなかった。
自分で書いておいていうのも違うと思うのだけれど、商店街の魅力はこんなもんじゃないし。
商店街を作りたい気持ちもこんなもんじゃないし、今これを書いている僕の体調の悪さも本当シャレにならない。

今考えられるのは、この程度かもしれないけれど、シャッター商店街にいるあのおばあちゃんとか。
賑わう商店街にいる人気のお店のあの人とかにインタビューをしてみて、商店街についてもう一度書こうと思う。

僕は暮らしのある街に住んで、意味のない生活を送りたいと思うのです。

絵も描いているからみてください。


サポートしてくれたお金は、しんどい時の焼肉に使わせていただきます。謹んで暴食します。一緒に来ます?