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多和田葉子『献灯使』に関する分析

おはようございます、チェ・ブンブンです。
今回は、大学時代に研究した多和田葉子『献灯使』のレポートを掲載します。

ブンブンは大学時代、映画ゼミではなく、リービ英雄教授の文学ゼミに所属していました。そこで中上健次や三島由紀夫の小説の研究を行なっていました。その授業の一環で、多和田葉子『献灯使』を読み込む回がありました。非常に難解な小説でしたが、小説ならではの魅力に溢れていて非常に楽しい授業でした。下記が、その当時書いたレポートです。

1.序文

日本は今まで二度「鎖国」をしていた。ここで言う鎖国とは、「海外」を意識し、且つ選択の余地があること。すなわち、元寇襲来のような一方的な侵略における日本の状況、日本が海を越えた世界を認知していなかった時代を除く。このように定義したときに一つ目は、黒船来航時代の「鎖国」と言える。他国との貿易は長崎や対馬等に限定されていた。二つ目は第二次世界大戦時代の日本。厳密には鎖国ではないものの、敵性語排斥運動が行われた。例えば野球において、ストライクは「よし」、アウトは「ひけ」というよう強引に日本語翻訳がなされた。今回、私が読んだ多和田葉子著『献灯使』は「三度目の鎖国」とはどういったものなのかを論じた小説だと感じた。

物語の中で「どの国も大変な問題を抱えているんで、一つの問題が世界中に広がらないように、それぞれの国がそれぞれの問題を自分の内部で解決することに決まったんだ。(p.54 8行目)」と鎖国の理由が語られる。物語を覗いてみると、この作品で描かれる日本には健康な子供が少ないこと、植物が巨大化していることが分かる。そして、東京都23区も大被害を受けており荒廃としていることから、この世界の日本は3.11以上の被害を受けボロボロになった世紀末だとわかる。

3.11による甚大な被害で暗く落ち込んだ日本を生きる多和田葉子は、いかにして現実を文字という武器を使って切り取るかと考えたときに、「鎖国」というフィールドで勝負した。そんな多和田葉子の3.11問題を紐解いていくとする。


2.多和田葉子の翻訳論


冒頭で語ったとおり、日本は今までに二度鎖国してきた。一つ目の鎖国は、とにかく外国人を国内に入れ、キリスト教等を広めないようにすることが目的であった。二つ目は、とにかく外国語を排斥するために行われた。しかし、今回行われた三つ目の鎖国では様子が違う。確かに、外来語を日本語に変換し排斥しているのだが、15ページ目にして「家の中でピクニックか。」と外来語が使われている。しかも、誰一人としてその発言に対して弾圧しない。注意する場面はないことはない。

「オーバーオールという言葉は外来語だから使わない方がいいよ。(P114 1行目)」

と叱責には程遠い注意故に、束縛力がない。そして、この小説の世界では日本語も変換される。「ジョギング」が「駆け落ち」と呼ばれるよう(p9 1行目)、「健康診断」が「月の見立て」と呼ばれるように(p26 12行目)。ここに多和田葉子の思想、オリジナリティのある論が展開されている。

彼女の書いた『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』で彼女はドイツ語の「時差ボケ」という単語に語る。ドイツ語には「時差ボケ」にあたる単語がないため、英語から直輸入して使っているとのこと。そのことに対し彼女は

「『Zeitverschiebung(時差)』というとても美しい言葉があるのだから~(中略)~それを上手く利用して、『ずれの苦しみ』とか『ずれの痛み』とかいう言葉を作ればよかったのに、英語から直輸入した外来語を使うのは残念だ。(p131 13~16行目)」 

と語っている。

戦時中は、外来語を差別として単純に排斥していたが、現代における排斥は単なる単語の振り分けではなく、まさに「洗練」という言葉がふさわしい。差別的だと思う言葉を変えていく。外来語を日本語に変えていくときに悩む余裕があるのである。例えば、義郎が好きな犬を聞かれ、口ごもるようになるシーン。演出のためにワインの銘柄やデザイナーの銘柄を答えなくなった彼、しかし、そんな彼からは抑圧の哀しみは滲み出てこない。彼自身満足している且つ、言葉について論を展開、思考は抑圧されてないばかりか活発に動いているからだ。

3.タイトルの意味


日本はかつて、最新の技術や思想、情勢を学びに遣唐使を送っていた。主人公義郎の妻、鞠華は優秀な子供を選び出し、使者として海外に送り出すプロジェクトにおける使者選出審査委員の主要メンバーに選ばれる。そして、選ばれたのは孫の無名。病弱でジュースを飲むにも15分ぐらいかかるのだが、幼少期から「欠け落ちた乳歯」を「落ちた入試」と言い換える程に語彙が豊富且つ頭の回転が良かった為小学校の時の担任夜那谷先生が無名を使者として任命する。この使者を「献灯使」という。作中には上記のように様々な単語の言い換えが出てくるが、その度に必ず解説が入る。しかし、「献灯使」に関しては全く由来を明かしていない。対応する語を語っていない。広辞苑で「献灯」と調べると、

「社寺・神仏に灯明を奉納すること。また、その灯明(注1)」

と記述されている。灯明とは「神仏に供える灯火(注2)」のことである。あくまで私の推測ではあるが、第三の鎖国によって、外来語が排斥された世界。しかし、第二次世界大戦中のような時間的に迫られた外来語排斥ではないため、じっくりと母語と向き合うことができた。その結果、如何に外国の名を使わずに使者を命名するかを考えた時に、「神に仕える者」としての位置づけをすることで母語を慮る翻訳が思いついたのだろう。これは唐に遣わす使者という意味の「遣唐使」よりも洗練された命名と言えよう。そして、この発想は『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』で多和田葉子が翻訳、言語に対する執着によるものだと言える

 4.家族の思い


私は二度この小説を読み返し、最初は独特な言葉回しと、難解なストーリーテリングに困惑した。登場人物の構成も、身近にある構成ではないため理解に苦しむ。しかし、2度目以降、徐々に家族構成が明らかになる。まず、主人公義郎には妻の鞠華、娘の天南、孫の飛藻がいる。飛藻はある女性と結婚し子ども(義郎によって無名と名付けられる)を授かるが、出産と共に母親は亡くなってしまう。飛藻は重度の依存症を患っており、妻が亡くなると施設に入る。そして、この物語における「現在進行形」の話は義郎と無名、つまり曾おじいさんとその曾孫が相互に立場を変えて展開する構成になっている。義郎としては、事の顛末を知っているが故に曾孫にたくましく生きて欲しいと思いを託す一方、どこまで真実を語ればいいのかを悩む。一方、無名は言葉を知っているのに使えない世の中、不都合な人生に悶々とする。

5.エンディングについて

この作品は終始、時を自在に操り、「多和田葉子語」とも言える造語を放ち変化球で物語を進めていたにもかかわらず、エンディングはいままで構築してきたものを崩しかねない「夢オチ」という謂わば禁じ手が使われている。無名の小学校二年生時の知り合い睡蓮と彼がガラスの道路を歩む。そこで献灯使としての使命を背負った二人の心を通わせ、無名の過去十数年の孤独を消し去るエンディングにすれば綺麗に収まるはずが、

「そう思っているうちに後頭部から手袋をはめて伸びてきた闇に脳味噌をごっそりつかまれ、無名は真っ暗な海峡の深みに落ちていった。(p.160 4~6行目)」

と、「死」を連想させる読者を突き放すエンディングを多和田葉子は用意していた。しかし、これは所謂物語ることを放棄した「夢オチ」ではないのではと考えられる。「外来語」を使うことに対する罰をラストに回収したと考えると辻褄が合う。起きた無名の前には、彼を献灯使として推薦した夜那谷先生と義郎がいる。義郎は、物語の前半で好きな犬種を訊かれて、カタカナ語を発するのに躊躇し口ごもる自分に満足していることからこの作品の世界に適応している。無名の場合、言葉を発する自由を求め続けていたが故に「献灯使」委員会に目をつけられ、組織内で殺されたのではないだろうか。そして皮肉なことに、義郎の家庭は直接委員会に繋がっている。故に、直接処刑しなきゃいけない義郎の悲痛がエンディング近く「もし無名がいなければ、自分の投げる腐った果物のせいで世界まるごと臭くなっていただろう。(p.156 6~7行目)」に現れていたと考えられる。と考えると、この話はジョージ・オーウェル『1984年』に近い痛々しい描写でもってとことん読者を突き放すものの、多和田葉子特有の言葉遊びで見事に痛さをカモフラージュした作品と言えよう。

そして多和田葉子は言葉の綾でもって、如何にして後生に3.11の凄惨で直視しがたい事実を伝えていくかの一つの考え方を、過剰な世界観、いわばファンタジーに置き換えることで説教臭さなしに提唱したと考えられる。且つ、災害を美談にするのではなく突き放すことで災害の残酷さを表現した。

よく、英語ができるようになるかどうかは自国語でしっかり物事を話せるかどうかによると聞くが、まさに『遣唐使』では「突然変異」を「環境同化」(p14 3~4行目)というように変換する、オブラートに包む表現が沢山提示されている。故に、『献灯使』に出てくる特有の表現に疑問を抱き、自問自答しながら読むことが、この小説を理解する、多和田葉子の3.11論の深意に迫る一歩と言えよう。

【注】


注1)『広辞苑 第六版』「献灯」の項目より引用
注2) 『広辞苑 第六版』「灯明」の項目より引用

【参考資料】


・多和田葉子著『献灯使』、講談社、2014年
・多和田葉子著『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』、岩波書店、2012年
・『広辞苑 第六版』、岩波書店、2008年

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