見出し画像

運命を騙ってしまって良かったのだろうか

さて、突然だが自分は恵まれている。どちらかといえば強者でどちらかといえば富者だ。貴様らもそうだ。ネット、空気、安い食料をもたらす経済。そうだろ?

この手の演説は大衆を動かすときによく使われていたそうだ。革命を起こしたいときは大衆の貧しさを煽る。逆に言えば革命を起こしたくないときは

貴様らは恵まれている、豊かだ、もっと貧しいもの、自分より不幸な者たちを見るがいい、これでもまだ多くを望むのか?

みたいに満足させればいい。いや、そう錯覚させればいい。面白いことに古代中国史なんかを見ていると革命が起こるのは本当のどん底まで耐えてからだった。

何が言いたいかというと、俺は自分がわからない。いや、わからないままでいたい。

自分は恵まれているのか。それともそう思い込みたいだけの貧者なのか。誰がそれを評価するのか。そんなことを考えているだけだ。

人曰く、理由なき悪はより悪い。悪気がなかったというのは言い訳になっても言い訳にはならない。自分は言葉が通じないと相手に諦めさせただけだ。信用を投げ売りし、結果を買い叩いただけだ。

こんなことを考えて、考えているから許してくれと、わざとではないから、話はわかるんだけどちょっと・・・みたいに〇〇〇〇ムーブで譲歩を引き出している。だれも宇宙人に常識を求めないように。こんなことばかりしているから今や信用が底値だ。お買い得だ。

さて本題だが、先日、自分は不可能性を肯定している。みたいなことを書いた。だが、あれは気の迷いではないのか。人生の不可能性=運命論である。ただ今が、現在が恵まれているから運命を丸ごと肯定すると言い切って返品不可の不用品を背負わされただけではないのか。クーリングオフ切れ待ち作戦ではないのか。急に不安になってきた。

人間はアウトプットしたものしか認識できないらしい。やれメモしろだの、やれ相談しろだのいうアドバイスはここからきているのだろう。自分も書いてしまったことでそれを疑わざるを得なくなった。自分との会話は会話じゃねえ!と言われたばかりだが、まさしくその通りであった。ひとり悶々としていたところで結論は出ないのだ。

ところで巷に聞くところによると、カップルチャンネルなるものがあるらしい。そしてそのほとんどがすぐに別れるらしい。それだけ聞くと旨い飯を提供する料理系チャンネルかと見紛うほどだが、本人らはいたって真面目に恋愛模様を電子の海に晒しているらしい。千年の恋も一夜に覚めたのか、鉄を熱いうちに打って曲がらなくなったのかは知らないが、とかく結論としては人間の思い込みはすばらしい。恋愛最高!この一言に落ち着くだろう。

今回まるごとの結論もこれだ。思い込み、躁鬱、ハイテンション、ハネムーン期、不幸な境遇に酔った、いろいろ表現は考えられるが冷静になると恥ずかしいことを言っていたような気がするのだ。べつに作品への愛に陰りがとかじゃない。ただただ自分の問題だ。未来もわからないし、明日の自分の思想がどうかもわからないのに、運命論支持を確定させたのは思慮が足らなかったのではないかという気がしないでもないのだ。これは卑怯なのだろうか。それとも賢明なのか。ただの臆病なのか。

ただわかるのは、迷いすらも人生だということだ。