ぼくらの唯物論

文章って思考だと思う。情報は物だと思う。思考は物だと思う。
逆に、思考を物ではないと考えるといろんなことがおかしくなる。

海から貝殻を拾うように、ぼくらは本から一節を拾う。

唯物論は考え方だと思う。
情報が物なら、唯物論は生き延びる。ただし、物の定義は変わってしまう。
情報が物でないなら、唯物論は死んでしまう。その姿を保ったままで。

木がなければ割り箸ができないように、情報がなければ思考はできない。
無から箸が現れないように、思考も無から生まれない。

財を持つ人を羨むように、思考を持つ人を羨みたい。

唯物論が唯の唯物論なら、情報は物ではなくなる。
それは石の窪みであり、紙に付いたインクであり、音の震えであり、磁化された単位の一片である。それらは明確にただの物である。
それらは存在し、物そのものとしての情報は持つが、それ以上の情報は知らぬふりをするだろう。
情報はdecodeされなければならない。そしてそれはメタ的に物を扱う、情報に解釈を挟むことに他ならない。