大学に入ってから本を読まなくなった

読書ノートを付けている。付けていた。でも、ぱったり途絶えた。去年から。大学再開してからだ。なぜだろう。

昔読んだ本の題名が思い出せなかったから、タンスの中から久しぶりに読書ノートを取り出してきた。抜き書き帳だ。
誰かに本を勧めるのは傲慢だけどついやってしまう。読まなくてもいいからね。にんげん昨日見たテレビから違うのだ。その連続性を無視しておすすめされた本を読む義務なんてない。俺はおすすめされるのが好きだよ。読まないけどね。

抜き書き帳1冊目の表紙を開く。
2022/2/5~
この時期は丁度、、、大学行かずにひとり暮らししてたのから実家に強制送還された直後くらいだな。2年くらい前だ。

https://note.com/cheerule/n/nc63c448a118f

ここから1年近くを実家でニートみたいに過ごすこととなる。noteを始めたのもこの時期だ。
抜き書きをするために県内最大の図書館へ片道四五十分かけて通っていた。その図書館はすばらしく快適だった。近くに川があり、庭園があり、城があり、橋があり、美術館があり、商店街があり、コンビニがあった。
なにより嬉しかったのは【館内各架から採集してきた本たちを自分で元の場所に戻さなくてもそこに置いておけば司書さんたちが戻しておいてくれる台】がいっぱいあったことだ。便利すぎる。好きなだけ棚から抜き出して自分のお気に入りの机へもって行くことができるのだ。
もちろん蔵書数もすごい。だいたいあった。見も知らぬ本でも棚で運命することができた。そうして出会えた本がどれだけあったか。

自分が最も本を読んでいたのはこの時期だ。記録を見ると、さっきの日付から大学まで~2023/4まではB5ノート3冊ちょっと(190ページくらい?)を消費していたのにそっからはたった24ページだけだった。全然違う。

そうか、自分が本を読めていたと感じていたのはただ時間が有り余っていたからだったのか。それで大学に通いながらでも同じようにできると思ってたらできなかったのか。

そう考えると実家強制送還期は、かなり自分の人格に影響を与えていることが分かる。栗原康のアナキズムにめっちゃ共感してたしね。変わってねぇなぁ。発達障害について知れたのもこの時期。逆に他の1年生大学生たちはこの時期を通ってないのか?大丈夫なのかそれ、いや、強度的に。おこがましいな、すまん。

無駄ではないな。うん。確実に。
楽しい時期だったのだ。開館に合わせられるように家を出て、大きくて気持ちの良い川沿いを自転車で進み、近くのコンビニでアイスコーヒーを飲み比べしたり、本に飽きたら読み終えてない本を持ってさんぽ、川の中州にある城の真下死角で昼寝、すっきりしたあたまで暗くなるまで本を読んで、閉館のお知らせを聴いて帰る。一生こんな生活でもいいなって思ってたね、たぶん。想像でしかないけど。

いやでもそれでもこのままじゃいけないとわかっていたから今の生活をしてるんだろうな。ひとり暮らしをして気づいたこともいっぱいある。そして今その生活をふり返れるポジションにいるからこそ、2022年・2023年を俯瞰して比べられるのだろう。どちらも大切な時間だった。なんにせよ。

自分は今大学の図書館が一番近いところに住んでいる。それなのに、読む本は全く増えていない。いや、数えていないと言うべきか。図書館があるだけじゃだめなんだ。

大学に入ってから本を読まなくなった?そんなことはない。本以外のことが増えただけのことだ。別に(留年生だから)授業が忙しいわけでもないし、働いてないし、部活もゆるい。そんな中で変わったこと…そうだ毎日投稿やり始めたりしたし。けっこう頻繁に更新するようになったな。そこからタイピングが速くなったんだっけ。もはや懐かしい。ゆーて今年の1月からとかなのに。

本って、読む必要がなくなると読まなくなるんだ。勝手に友達だと思ってたな。自分から離れるなんてショックだよ。そのことに気付きもしないのもね。

ああ、大事だ。
大切だ。
とっても愛おしい。自分のノートが。
この抜き書き帳に自分の苦悩が、悩みが、日々が、思い出がつまっているいるいる。ここまで物を大切にしたことないよ、ミニマリストだったくせに。

今でもがんばってノートを使おうとしている。それでも、PCスキルが順調過ぎるほど育ってきたせいでタイプしたほうが早いやんって思うこともしばしば。それでもこの抜き書きノートは形を変え続けていきたいなと思っているよ。

自分の失敗は無駄じゃなかった。
自分の苦悩は無駄じゃなかった。

全部自分だったよ。
過去とのつながりを忘れてしまうぼくら。
育っていくぼくともう育たないノート。

新しいページはなにに使おうかな?