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私の武士道のはなし。

「私武士になりたいし、武士みたいな人がタイプなんです」
って言うとひと笑い頂けるので私の鉄板ネタにしているのですが、私結構これを本気で言ってます。

私の言う武士は、名前ではなくて「精神性」
武家の生まれだから武士、ではなくて
「自分の中の誠を貫く」から武士なのです。
ややこしいですね。

「義に死すとも不義に生きず」
私はこの言葉が大好きです。
いろんな受け取り方があると思いますが、私は

"人として行う道義や倫理道徳を守って死んでも、守らずして生きる恥のある生き方はしない。"

だと思っています。

人と関わる中で義を守って裏切られても、私は気持ちの良い関わりだったと思います。
人にどうされたかより、自分がどう相手と向き合って関わったのかを考えたいですし、「その人が人とどう向き合うのか」を見たいのです。

私の大好きな新選組や、二本松の少年隊。
その他多くの武士は、自分の信じているものへの忠義心や土地愛、信念で刀を振るっていたんだと感じています。
では今、令和を生きている私たちは何を信じて、何の為に生きて、何の為に言葉という刀を使うのでしょうか。

私は少なからず、私の発する言葉で、行動で、撮った写真で人の心が良い方向に動いてほしいと思っています。
私がクソ真面目に実直に、人と誠実に向き合うことで、誰かの何かが動いてくれたら、なんて思っています。

私は人として、人に対して
誠実な人間でいたいです。
言葉、行動、私の作り出すもの。
どの一つをとっても、不誠実なものはないようにいたいです。


誠実な言葉は、誠実な行動とともにあるものだなと
最近感じることがあります。

言葉は思っているよりも人の心に深い深い傷をつけることがあります。
何気なく言った言葉、自分軸では人を傷つけないと思って言った言葉。
私もきっとあると思います。
自分の口から出た言葉は忘れてしまうのに、人から言われた言葉はずっと残ります。
何年も何年も。
傷が深ければ、フラッシュバックすることだってあると思います。

そのくらい言葉というものは恐ろしいものです。

以前いつだかのnoteにも書いた気がしますが、言葉というものは現代を生きる私たちの刀です。
人を守る刀にもなれれば、人を殺す刀にもなります。
自分の欲や怠慢で考えなしに出す言葉は、辻斬りが無作為に人を殺めているのと同じだと思っています。
私はそれを武士だとは思いません。
かっこいいなんて、1ミリも思いません。

私は武士になりたい。
信念を持ち、人の道義や倫理を外さず、人を守る刀を持ちたいんです。


最近たくさんたくさん考えています。
今、私は自分の武士道を貫けているか。
問いただしながら悩みながら、悔しくなって泣きながらたくさん考えています。

支離滅裂でしっちゃかめっちゃかなこの文を書いている今も、ずっとずっと悩んでいます。

ここ数年人との関わり合いの中でたくさん悩み苦しむことがありますが、それは全て私が大きく成長するための鍛錬の時間なんだと言い聞かせています。
自分がかけられる多くの言葉の中で深くて大きい傷になっていく言葉を、全て私の養分にします。
背中の傷は武士の恥と誰かが言っていたように、決して背中は見せず私は言葉を真っ向から受け止めていきます。

義に死すとも不義に生きず。
これが私の武士道です。

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